先の『「誤読」の哲学』に触発されたこともあって、改めてスアレスの『形而上学討論集』から第二書第一部をしばらく眺めていくことにしようかと考えている。同書でもその冒頭の第一節がそのまま訳出されているのだけれど、ここではもっと長めのスパンで見ていくのも面白いかな、と。底本とするのはボンピアーニ刊行の羅伊対訳シリーズの一冊(Francisco Suárez, Disputazioni metafisiche. Testo latino a fronte, a cura di Costantino Esposito, Bompiani, testi a fronte, 2007)。例によって拙い粗訳なので、誤り御免ということで(苦笑)。ちなみに不定期の連載の予定(笑)。今回は上の山内本の訳出部分と重なってしまうけれど、まずは第一節の冒頭からその途中まで。
再びデ・シェーヌのスアレスがらみの論文。『フランシスコ・スアレスの哲学』(この本自体は未入手)という論集に収録されている、作用因の問題を扱った一編「スアレスによる近接性・作用因論」(Dennis Des Chene, Suárez on propinquity and the efficient cause, The Philosophy of Francisco Suárez, Ed. Hill & Lagerlund, Oxford University Press, 2012)を読んでみた。もとは2008年にカナダで行われたスアレス・カンファレンスでの発表原稿らしい。で、中身はというと……作用因しか認めなかったデカルトは、基本的にそれは接触する物体同士の作用だとして遠隔的な作用を認めなかった。では同時代のアリストテレス主義はどうだったか。実はそちらにおいても作用因の理論はいろいろな要素が撚り合わされた束をなしていたという。スアレスにおいては、物体同士の間が空いている場合(デカルトもそうだが、真空は認められないので)、その間を埋めるものとして媒質を想定し(粒子論的に原因の連鎖だけを考えるデカルトとは異なるものの)、原則としてやはり接触するものにのみ作用が生じると考えている。つまり作用因による媒質への働きかけが生じ、さらにその媒質が離れた物体に働きかけるというわけで、働きかけそのものはもとの作用体と媒質とで同等だとされる(水中の像のように媒質が影響する場合や、作用因と媒質が部分的に結合して作用する場合などの例外あり)。
久々にスアレス研ということで、アミィ・カロフスキ「デカルトの永劫の真理論に対するスアレスの影響」(Amy Karofsky, Suárez’s Influence on Descartes’s Theory of Eternal Truths, Medieval Philosophy and Theology 10 2001)という論考を読む。「人間は動物である」とか「三角形のそれぞれの角度の和は直角二つ分に等しい」といった基本命題(永遠の真理)について、それが何によって担保されるかという問題をめぐるスアレスとデカルトの論を対照してみせるという主旨。面白いのは、これに主知主義と主意主義の対立が重なってくる点だ。スアレスは『形而上学論考』の31章でこの問題を取り上げているという。スアレスは現勢化していない本質は無にすぎない(存在を与える神があってはじめてそれは有となる)と断じるわけだけれど、すると基本命題が本質をめぐるものだとするなら、それはつまるところ無に立脚していることになってしまう。スアレスはこの問題を検討し、基本命題の真理はその命題に含まれる基本属性同士の結びつきによって担保されていると考える(「人間である」という属性は、「動物である」という属性をもとより含んでいる、etc)。そしてその場合、属性やそれが形成する本質は神の存在そのものを表すのだとして、基本命題が神から独立して成立するかのような議論は斥けているのだという。こうして、基本命題においては、存在を与えられていない本質は無でしかないにせよ、それでもなお神の本質(=存在)と同一であるとされ、現実的なものだと見なされるのだ、というわけだ。スアレスは、存在をもたらすという意味での「作用因」は基本命題には必要ない、と考えてもいる……。