「スアレス研」カテゴリーアーカイブ

スアレスのスペキエス観

あまり進展していないスアレス研だけれど(苦笑)、久々に論文を読んでみる。ジェームズ・サウス「スアレスと外部感覚の問題」というもの(James South, ‘Suarez and the Problem of External Sensation’ in “Medieval Philosophy and Theology” Volume 10-2, September 2001)。スアレスが論じるきわめて細やかでわかりにくい外部由来の感覚と感覚能力、そしてスペキエスの問題を、トマスとの対比を通じて比較的明快に描き出そうというもの。トマスはスアレスが準拠するテキスト(の一つ)だけに、その違いという面をピックアップしていけば、確かに基本線が見えてきそうな気がする。けれど実際にそういう作業をするのは大変という印象。それをやってのけているところが、なかなか読み応えのある論考になっている。今回のポイントもやはりスペキエス絡みの扱いだ。まずトマスは、感覚能力を純粋に受動的な能力と見なし、そこから何かを形成するものではないと考えている。感覚能力は感覚器官に限定される能力で、感覚器官が感覚を受け取ったときにその能力が可能態から現実態になる。で、これを仲介するためにスペキエスがある。これはいわば、感覚能力が対象物の形相(感覚的形相)を質料抜きで受け取ったもの、ということになる。スペキエスには質料的な側面はないと考えるわけだ。スペキエスの受理が感覚の成立と同一視されたりもする。ところがこのままでは、物理的なプロセス(感覚が送り込まれる)から感覚的認識への移行の部分がブラックボックスのようになってしまう。これに対して挑むのがどうやらスアレスということのようだ。

スアレスはそもそも感覚能力を純粋に受動的能力とは考えず、その作用の能動的な性格を前面に打ち出す。感覚を受け取るだけとされるそのプロセスにはもっと説明を重ねる余地があるのではないか、とスアレスは見ているのだという。また、感覚が知的認識とパラレルな関係にあることを見て取るがゆえに、上の移行の部分をどう理解すべきかを改めて考えようとしてもいた、と著者はいう。そうした考察の中から、感覚的形相(スペキエス)は質料的であり、あるいは複合的なもの(形相と質料から成る)でもある、との立場が出てくる。感覚能力そのものが物体的な力である以上、それが受け取るものもまた物体に類するものでなくては都合が悪いというわけだ(トマスはこのあたりをスルーしているという)。スペキエスはこうして、(トマスの場合のように)もとの対象物よりも完成の度合いが高いものとは見なされず、単により精細(subtilitas)なものと規定される。さらに感覚器官に刻印されるスペキエスは、(単に性質という意味での)属性にすぎず、作用因としてのみ働くもの(形相因ではなく)なのだとされているらしい。

スアレスのこうした斬新な(トマスに比して)感覚論は、様々な観察事象(感覚の取捨選択など)を説明するために、トマスの議論を下敷きにしながらもそれに修正を加えていった結果らしい。もちろんブラックボックス全体を解明するにはいたっていないものの、説明可能な範囲を大きく拡大している(異論への反論も含めて)ことが、この論考から読み取れる。スアレスのテキストに向かう準備として、なかなか有益な論考だ。

↓wikipedia (en)から、Franciscus Suarezの肖像

政治哲学の曙 2

アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』。後半部分についても基本線を押さえておこう。ドゥンス・スコトゥスは質料を不定形の受容体とは見なさずに、形相とは分離した(分離可能な)一つの客観的存在と考えた。これはそのまま政体の議論にも平行移動される。つまり、政治形態(形相)とは別に、群衆(質料)はそれ自体ですでにして組織だっており(その組織化の原理に自然法や社会契約の考え方が胚胎している)、一つの客観的存在と見なすことができるという考え方だ。後にスアレスに引き継がれるこの考え方は、大きな断絶をなしている。それまでの神権政治の考え方(それはつまり形相がすべてを統制するという立場)に代わり、群衆が政体もしくは指導者を選択するという考え方、民主政治の萌芽が、まさにそのスコトゥスの質料論にあったのではないか、というわけだ。オッカムにおいてはいっそうラディカルに、すでにして組織だった群衆(社会的身体)に対して、指導者(教皇や君主)を立てる必然性すらなくなってしまう。近代的政教分離の萌芽、アナーキズムの萌芽、……。

もちろん民主制自体は古代からあるわけで、どうやら著者は、そちらでも理論的支えをなしていたのはアリストテレス思想だったと見ているようだ。そちらの質料形相論では、質料と形相とに同じ実体の二つの面を見ていた。その質料形相論は、アナロジカルな思惟の構造を決定づけたという意味で、西欧においてもっとも包括的かつ普遍的な思想だった、と著者は考える。スコトゥス=オッカムの思想はその一つの亜種をなしているにすぎない、みたいな。とはいえ、近代初期の政治思想を長きにわたって支えることになるのは、その亜種にほかならなかった、と。

スアレスにおいては、群衆は自然な目的(つまり共通善)によってすでに統合された「神秘体」を形作っているとされ、その「民主制」こそが自然本来の状態だとされる。そこにおいて君主には政治的統一の権限が委託されるわけなのだが、実際には一度委託されてしまうと罷免できないという意味で、神秘体の側からすると、いわば自然法・自然状態の放棄なのだとスアレスは論じているらしい。なるほど自発的隷属の起源が、そこに見て取れるというわけか……。著者はこれとの関連でスピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ミル、そしてルソーを、一気に駆け抜けてみせる。

著者の議論全体を集約し下支えしているのは、なんといっても、スコトゥスやオッカムの質料形相論が、彼ら自身の政治思想、ひいてはその継承者たちの政治思想を「アナロジカル」に支えているという、その一点に尽きると言えそうだ。著者はみずからの方法論を「思惟の構造の分析」と称して、そうしたアナロジカルな思惟の拡がり具合を例示したりもしている。うん、細部にはおそらくツッコミどころもありそうだけれど、巨視的にはなかなか面白い議論。アリストテレス思想の近代までの拡がり具合を、政治思想の面から示してみせた、というところが刺激的だ。

「原因すなわちラティオ」より 7

そもそも原因の定義とは何か。スアレスによれば、「原理」は「原因」よりも広義で、なんらかの形で何かをもたらすものであればなんでもよい。「原因」はというと、他の事物に個別に「作用する・影響する(influere)」ものでなくてはならない。したがって、まず原因をなす事物がなくてはならず、原因をなすという作用それ自体がなくてはならず、その結果生じる関係性がなくてはならない、ということになる。「原因とは、他のものの存在にみずから作用する(他のものの存在をもたらす)原理のことである」。

著者によれば、この「作用・影響」という語を使った時点で、スアレスが作用因に大きな比重を与えていることはすでに伺い知れるという。実際スアレスのこの定義では、質料因などは「厳密には」事物の存在に関わらないので、とりあえず原因から排除されることになる。さらにこの定義では、原因に対する結果は別の存在ということになり、原因は外的なものだということにもなる。まさしくこの外因性という点で、目的因などに対する作用因の優位がほぼ確定されることにもなる……。うーむ、なんだか論点先取りな感じもしないでもないが……。

スアレスにおいては、「原因」という場合、一種の代称として、あるいはその筆頭の位置づけから、「作用因」を意味するのが普通になっているという。さらには、原因の他の区分を排除して「作用因」だけを温存するという意向をはっきりと打ち出してさえいるという(アウグスティヌスやセネカを引きながら)。スアレスはそこからさらに、具体的に「原因」の縮減を図っていくらしい。形相因や質料因はもとより原因の定義に合わないので簡単に撤廃される。問題はやはり目的因なのだけれど、これも基本的には「意志的・潜在的な因」にすぎないとして、実際の作用に際しては作用因と一体になっていなければならないとし、やはり作用因への縮減が可能だ、と……。この最後の部分は、形而上学の考察対象に神をも含めているために、若干すっきりとしない構図にならざるをえない。当然ながらというべきか、目的因(としての神)はまだ完全には駆逐されない……。

全体として著者カローの議論は、スアレスのテキストを様々に引用しながら再編し、螺旋を描きつつ核心に向かうような構成になっている。そんなわけで、同じような説明が繰り返されながら、それでいてその都度別の問題を開いていきながら、当初の目的だった「目的因から作用因への転換」を大筋のところで描き出すという感じになっている。そのため、読む側からすると、議論としては面白いけれど、スアレスのテキストの構成そのものなどについてはよくわからないままになってしまう……。ま、後はきちんとスアレスを読んでくれということかしらね。年明けからはここでもやっていくことにしようか、と。で、カローのこの大部の著書は、さらに引き続き原因の解釈をめぐってデカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツを巡っていくわけだけれど、ま、こちらはひとまずここで了ということにしておこう(笑)。

(↓先日のデューラー展時の西洋美術館のロダン「地獄の門」)

「原因すなわちラティオ」より 6

因果関係と存在論の結びつきの続き。因果関係を形而上学的な考察対象に据えるとなると(前回の(3))、そこには大きな躓きの石が。形而上学は存在の成立について考察するわけなのだけれど、すると存在をその原因との関係で考察しなくてはならなくなる。けれども、ここで形而上学が考察する存在は神の存在まで包摂するものとされる。一方で神には原因はないとされる。とするなら、その学自体のもくろみが頓挫することになるのでは?、というわけだ。さあ、どうする?

スアレスはなんとも絶妙な(?)回答をひねり出す。「なるほど確かに個別の事象には個別の原因があるのに対して、神には原因はない。けれども事象には、個別のラティオとは別に、みずからの存在をもたらす別のラティオもある」というのだ。そしてそのラティオは、個別の事象にも共通するラティオであり、神にもそのラティオはある(というか、神がそのラティオをなしている(?))。「神には原因はないけれどもラティオはある」……こう宣言することによって、神は一気に形而上学の考察対象に入ってくる。うーむ。存在ならぬラティオの一義性と言わんばかりの議論か。著者いわく、こうしてスアレスは存在の一義性を標榜してトマスと袂を分かち、同時に原因論を存在の一義性に組み入れてスコトゥスとも袂を分かつ……。スアレスは両巨人の合間の細い道をたくみに進んでいくかのようだ。

ラティオとは何かというと、要するにこれは理(ことわり)、つまり認識や存在を媒介する(司る)知的な働き(このあたり、ちょっと微妙なのだけれど……)。スアレスにいおいてはこのラティオこそが「原因のような価値を持つ」(著者)とされる。それを原理と称する場合(つまり形而上学で扱う場合)には、(1)認識上の原理(複合原理)と(2)存在上の原理(非複合原理)とに分かれるのだけれど、この後者はさらに、(2a)その原理が真に原因とイコールになる場合と、(2b)原因と直接イコールではないものの、原因に類するとされる場合とに分かれる。形相因、目的因はどうやらこの2bに該当するらしい(質料因も?)。2aは作用因ということになる……のか?いずれにしても、こうして神を含むいっさいのものには、少なくともこの2bが適用され、神もまたそのラティオを介して認識や論証の対象になる、という仕掛けだ。

「原因すなわちラティオ」より 5

スアレスの形而上学の大きな特徴は、事物が存在する上での原理(principium)ではなく原因(causa)を決定的に押し上げたことだ、と著者ヴァンサン・カローは言う。もはや形相とか本質とかの自己展開ではなく、存在をもたらす外的な要因こそが問われるのだ、というわけだ。その転換点を、スアレスの著書『形而上学論考(Disputationes metaphysicae)』に読みとろうと(確認しようと)するのが、スアレスを扱う第一章ということになるらしい。

最初にスアレスは、アリストテレス的な四原因の一般概念を探るのだけれど、そこで作用因こそが原因全体の定義を表しうることに着目する。これはつまり、自然学に属する「運動因」を形而上学のほうへと拡張することでもあるわけだ。もともと13世紀以来、作用因は伝統的に運動因の一般概念と見なされてきた。この捉え方の嚆矢はオーベルニュのピエールで、その後ドゥンス・スコトゥスによって作用因が超越論的に(存在の産出因として)展開されるという経緯があるという。自然学的な原因の見方は、存在する事物の物質性に重きを置き、運動や変成を吟味する。一方の形而上学的な見方では、存在する事物は抽象的に捉えられ、そこでの原因は存在に結びつけられて検討される。

スアレスはこのスコトゥス的な方途を取り、こうして原因の理(ratio causae)は存在の理(ratio entis)に結びつけられる。著者によると因果関係と存在論の結びつきは、(1)存在するものに参与する要因として、(2)存在するものの(超越論的)属性として、(3)形而上学的考察の対象として、それぞれ議論される。とくに(2)の属性(厳密には疑似属性)としての議論では、スアレスは原因と結果の関係を「存在の分割」概念(「無限」「有限」の区別などと同じような)の一つであると捉え、しかも原因の理をその分割に先立つものと考えていて、ここから、因果関係という関係性は、存在を成立させる根源的な要因(存在の理)にもなっている、と著者は言う。

うーむ、自然学的な原因が形而上学的な原因の議論に、しかも作用因という形で拡張されていく契機というのは、ここまででは今一つ明瞭ではないような気もするが、ともかく先に進むことにしよう(笑)。