トマスが人間本性ということで魂と肉体のセットを重んじていたことはわかったけれど、すると疑問になってくるのが、ではキリスト教において復活するとされる肉体にはどんな役割があるというのか、という点。で、これを扱った別の論文を見てみた。ジョン・メデンドープ「完全なる安息を見出す:復活の肉体に関するトマス・アクィナスの論」(John Medendorp, Finding Perfect Rest: Thomas Aquinas on the Resurrected Body, 2013)というもの。これはずばり上の問いを考察していて、復活した肉体がトマスの議論ではどのように扱われているか詳述している。トマスにおいては魂は肉体の形相(単一形相)であるとされ、これによって肉体が滅んだ後の魂の存続も容易に説明される。けれども、では「当人」(人格としての)は肉体が朽ちた後もどのように存続しうるのか。死にいたって肉体は滅ぶ以上、それは復活後も連続したものとはならない、とトマスは言う。その当人の人格は不死の魂においてこそ温存されるのだ、と。形相としての魂が復活において再び質料と結合すれば(質料そのものが破壊されるのではないので)、その当人そのものも修復されることになるというのだ。
とはいえ、確かにキリスト論を中心としてトマスの神学的全体を見ていくというのはいかにも正道という印象ではある。これに関連して、ちょっと面白い問題を扱った論考を見かけた。ターナー・ネヴィット「キリストの死についてのアクィナスの議論:消滅論側の新議論」(Turner C Nevitt, Aquinas on the Death of Christ: A New Argument for Corruptionism, American Catholic Philosophical Quartely, Forthcoming)というもの。キリスト教の信仰上「人間が死んで復活するその間、その人間はどういう状態にあるのか」という問題についてトマス・アクィナスがどう考えていたかをめぐっては、中世から現代にいたるまで二つの解釈の立場があるのだという。魂は肉体を離れて存続するとされるわけだけれど、ではその人「本人」は存続していると言えるのか、それとも言えないのか。言えると考える一派を「存続派」(survivalist)、言えないと考える一派を「消滅派」(corruptionist)と称すのだとか。で、トマスの立場だが、これは微妙に曖昧らしいのだけれど、この論考はトマスが「消滅派」の側に立っているとして、トマスのテキストからそれを擁護できる箇所を挙げてまとめていくという趣向。神学的な議論なので、個人的にどちらがどうこうと言うことはできないけれど、この問題でもキリスト論からのアプローチが見られて興味深い。つまり、その問題を考える上で、キリストは復活するまでの三日間、どういう状態だったのかという問いが鍵となる、というのだ。トマスは、その間のキリストは人間であったわけではないとしているという。この論考(つまりは消滅派)によれば、トマスの人間観にあっては、肉体と魂は密接な関係性をもつ以上、魂のみとなったときに、それは厳密には「その人」ではないということになる。ただキリストの場合は例外で、その離在する魂と肉体は死後も三位一体の第二の位格に統合されたままになっているので、その意味では死後も魂と肉体は密接に繋がっている、とトマスは説くのだという。なるほど。でも存続派にはまた別の解釈・言い分があるようで、両者の歩み寄りというのは歴史上ほとんどないらしい。
久々に魂論がらみの哲学史的論考を読む。マーティン・トゥイーデイル「知覚は形象の非物質的受容だとする中世の理論の起源」(Martin M. Tweedale, Origins of the Medieval Theory That Sensation Is an Immaterial Reception of a Form, Philosophical Topics, vol.20, 1992)(PDFはこちら)というもの。これはなかなか刺激的な論文。トマス・アクィナスによると知覚とは、質料を伴わない形相を感覚器官を通じて魂が受け取ることだとされる。というか、少なくとも一般にはそう思われているけれど、実はトマスのこの論には曖昧な部分があって、魂が形相を受け取ることを知覚とする一方で、感覚器官が受け取る感覚的な形相が「非物質的に」存在することも否定してはいない。『神学大全』(問14、78、82)では、形相の認識(魂の働き)とその形相が非物質的に存在することとはイコールとされているのだけれど、『霊魂論註解』では、感覚的形相は感覚器官にも媒質にも存在できるとされているという(これはシェルドン・コーエンの議論がベースだという)。この「矛盾」について、実はそれが、トマスの前から綿々と営まれてきた逍遙学派のアリストテレス解釈の伝統に由来するものなのではないか、というのがこの論考の主旨となる。そんなわけで論文著者は、トマスから順に註解の伝統を遡っていこうとする。
スティーブン・L・ブロック「無神論は合理的でありうるか−−トマス・アクィナス読解」(Stephen L. Brock, Can Atheism be Rational? A Reading of Thomas Aquinas, Acta Philosophica, vol. 11 (2002))という論文。中世と無神論というのはなかなか結びつかない部分だけれど、著者は中世が現代人の無神論についてなにも教えをなすことがないというのは間違いだとし、この論考では『神学大全』『対異教徒大全』から関係するリファレンスを読み解いこうと試みる。その中には、たとえば人間の魂に内在する神認識の問題なども含まれていて、そのあたりがまとめとしてなかなか興味深い。トマスの場合には、神の存在は「おのずと」知られる真理なのだといい、その認識はごく自然に(本性的に)なされると考えられている。つまりそうした真理の認識能力が人間の魂に内在していて、それは聖霊によってもたらされる恩寵だとされる(これはフランシスコ会系の照明説その他の議論も基本的には同じだ)。その一方で、当然ながら人間が獲得する知識(認識)には論証のプロセスを経るものもあるわけだけれど、トマスの議論ではその両者は矛盾するのではなくむしろ相補的だとされる。誰にでも備わった認識能力と、論証的にそれを追認・確認する能力というわけだ。そうすると、誰もが神を認識できることになり、そこに無神論というか、否定的な見識が生じる可能性はなくなってしまう。けれども、ということは、物事にはかならず肯定的と否定的の二面性があるという原理に反してしまうのではないか、という疑問が出てくる(著者曰く)。