「トマス研」カテゴリーアーカイブ

トマスによる「怒り」

トマス・アクィナス 肯定の哲学山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会、2014)を読んでいるところ。前半は『神学大全』に見られる感情についてのトマスの詳細な分析を辿り直しているのだけれど、どうやら重要なポイントは、諸感情の、とくに否定的感情と肯定的感情の非対称性にあるようだ。「愛」とか「喜び」といった肯定的感情は、「憎しみ」や「悲しみ」といった否定的感情に先行し、後者のそもそもの拠り所をなすとともに、その解消・浄化をもたらすものでもある、と。面白いのは、11に分類された感情のうち、最後のものとして示されているという「怒り」については、対をなす感情がないとされる点。「すでに現在のものとなった(回避が)困難な悪」を対象とするのが怒りであり、それは「差し迫った未来の困難な悪」を対象とするものとは異なるのだという。前者が怒りと悲しみをもたらすのに対して、後者は怖れと大胆さをもたらすとされるのだというが、トマスのそうした分析に従うならば、怒りはまだ来ていない悪に対しては生じることができないことになる。そういえばちょうど先日の選挙について、事前にその投票率の低さを予想しつつ、なぜ投票率が高まらないのかを、「怒り」の感情に結びつけられないという日本特有の(?)心性でもって理由づけようとする議論をネットで見かけた。それは本当に日本的な心性なのかという疑問もあるし、選挙との絡みで言いうるようなものなのかという疑問もあるけれど、さしあたり上の話からするならば、選挙のような未来の選択について怒りをもって臨むというのは、端から構造的に無理な話だということになってしまいそうだ。そう考えると、これまたなにやら腑に落ちないところでもある。人間の感情はトマスが想定するような分類ですんなり腑分けできるようなものなのか、という反論は当然聞こえてきそうだ(笑)。ま、それはさておき。

同書はトマスの『神学大全』が、とりわけ罪を強調しどちらかといえば後ろ向きで無秩序的だった当時の説教用の「司牧的マニュアル」に対して、むしろ体系的な神学を構築しようとして書かれたものだと見ている。ゆえに、後ろ向きな倫理に対して「肯定の哲学」をトマスは唱えたのだ、というわけだ。なるほど、これは解釈の格子としてはとても興味深い設定。けれども、同書を貫くキータームの「肯定」の意味合いが、やや広すぎるような印象も受ける。たとえばスコラ学的な論述形式において、異論に援用された権威者の引用をトマスが論駁において再解釈するようなことをも「肯定」の意味に含めるとすると、それはトマスに限ったことではないのではないか、といった疑問も生じてくる。とはいえ、肯定的倫理という観点でトマスのテキストを眺め直してみるというのは、確かにひょっとするとたいそう刺激的なアプローチではあるのかもしれない。

復活の肉体論 (2)

トマスが人間本性ということで魂と肉体のセットを重んじていたことはわかったけれど、すると疑問になってくるのが、ではキリスト教において復活するとされる肉体にはどんな役割があるというのか、という点。で、これを扱った別の論文を見てみた。ジョン・メデンドープ「完全なる安息を見出す:復活の肉体に関するトマス・アクィナスの論」(John Medendorp, Finding Perfect Rest: Thomas Aquinas on the Resurrected Body, 2013)というもの。これはずばり上の問いを考察していて、復活した肉体がトマスの議論ではどのように扱われているか詳述している。トマスにおいては魂は肉体の形相(単一形相)であるとされ、これによって肉体が滅んだ後の魂の存続も容易に説明される。けれども、では「当人」(人格としての)は肉体が朽ちた後もどのように存続しうるのか。死にいたって肉体は滅ぶ以上、それは復活後も連続したものとはならない、とトマスは言う。その当人の人格は不死の魂においてこそ温存されるのだ、と。形相としての魂が復活において再び質料と結合すれば(質料そのものが破壊されるのではないので)、その当人そのものも修復されることになるというのだ。

でも、ならばそもそも復活においてなにゆえに肉体が必要とされるのだろうか。トマスは、魂が恒久的に肉体なしでいることは不自然で不完全な状態だと主張する。トマスのこの主張は死後の審判についても貫かれており、審判は魂のみに関わるものと、魂と肉体の両方に関わるものとで二重になっている、と考えているほどだ。死後に神とまみえること、すなわち至福直観(それには肉体は必要とされない)は完全な至福であるとされるわけだけれど、トマスはさらに「最上位の完全な至福」があると見る。どうやらその後者こそ、「栄光体」が付与される段階を言うらしい。肉体の復活は啓示の上では必要とはされないが、人間の自然本性ゆえに形而上学的に必要とされるのだ、というのがトマスの見解なのだという(同論考によれば)。もともと地上世界での肉体は、魂が最終的な目的(至福直観)へと進むことを助けるという重要な役割をもっているとされる。では復活した肉体はどういう状態にあるのかというと、魂との関係が逆転し、至福直観にいたる魂から肉体へと至福と愛とが注がれるようになるのだという。肉体はそのとき全くの安息のもとに置かれ、なんら苦役を背負うことがなくなる……と。これが論文のタイトルにある「完全なる安息」ということらしい。

トマス:復活の肉体論

トマス・アクィナス 「存在」の形而上学これまた夏読書の一環だけれど、稲垣良典『トマス・アクィナス 「存在<エッセ>」の形而上学』(春秋社、2014)にかなり大まかに目を通しているところ。うーむ、読み違えているのかもしれないが、個人的には少しこれはなにやら「躓きの石」っぽい気がしている。まずもってその立ち位置のようなものがはっきりと浮かび上がってこないからだ。「現代存在論」への異義を唱えるとして始まる同書だけれど、その「現代存在論」なるものがまずもってよく見えてこない。まさか根本的に前提が異なる分析哲学系の存在論が念頭にあるわけではないだろうし。また、「価値」(要するに「善」?)が「存在」から除外されていることを問題視したりもしているのだけれど、とはいえ単純に信仰への回帰を説いているわけでもない(もしそうであるなら、論点先取りのような話になってしまいそう……)。論じられているトマスの存在論そのものにしても、著者が高らかに宣言するほどには、トマスの生き生きとした核心部分が伝わってこないような気がする……。たとえばその存在(エッセ)論を「受肉の存在論」として受け止める必要がある、という話が何度か出てくるのだけれど、さしあたり議論がその方向に深まっていくようには見えないのだが……。

とはいえ、確かにキリスト論を中心としてトマスの神学的全体を見ていくというのはいかにも正道という印象ではある。これに関連して、ちょっと面白い問題を扱った論考を見かけた。ターナー・ネヴィット「キリストの死についてのアクィナスの議論:消滅論側の新議論」(Turner C Nevitt, Aquinas on the Death of Christ: A New Argument for Corruptionism, American Catholic Philosophical Quartely, Forthcoming)というもの。キリスト教の信仰上「人間が死んで復活するその間、その人間はどういう状態にあるのか」という問題についてトマス・アクィナスがどう考えていたかをめぐっては、中世から現代にいたるまで二つの解釈の立場があるのだという。魂は肉体を離れて存続するとされるわけだけれど、ではその人「本人」は存続していると言えるのか、それとも言えないのか。言えると考える一派を「存続派」(survivalist)、言えないと考える一派を「消滅派」(corruptionist)と称すのだとか。で、トマスの立場だが、これは微妙に曖昧らしいのだけれど、この論考はトマスが「消滅派」の側に立っているとして、トマスのテキストからそれを擁護できる箇所を挙げてまとめていくという趣向。神学的な議論なので、個人的にどちらがどうこうと言うことはできないけれど、この問題でもキリスト論からのアプローチが見られて興味深い。つまり、その問題を考える上で、キリストは復活するまでの三日間、どういう状態だったのかという問いが鍵となる、というのだ。トマスは、その間のキリストは人間であったわけではないとしているという。この論考(つまりは消滅派)によれば、トマスの人間観にあっては、肉体と魂は密接な関係性をもつ以上、魂のみとなったときに、それは厳密には「その人」ではないということになる。ただキリストの場合は例外で、その離在する魂と肉体は死後も三位一体の第二の位格に統合されたままになっているので、その意味では死後も魂と肉体は密接に繋がっている、とトマスは説くのだという。なるほど。でも存続派にはまた別の解釈・言い分があるようで、両者の歩み寄りというのは歴史上ほとんどないらしい。

「知覚とは形相を受け取ること」:議論の起源

久々に魂論がらみの哲学史的論考を読む。マーティン・トゥイーデイル「知覚は形象の非物質的受容だとする中世の理論の起源」(Martin M. Tweedale, Origins of the Medieval Theory That Sensation Is an Immaterial Reception of a Form, Philosophical Topics, vol.20, 1992)(PDFはこちら)というもの。これはなかなか刺激的な論文。トマス・アクィナスによると知覚とは、質料を伴わない形相を感覚器官を通じて魂が受け取ることだとされる。というか、少なくとも一般にはそう思われているけれど、実はトマスのこの論には曖昧な部分があって、魂が形相を受け取ることを知覚とする一方で、感覚器官が受け取る感覚的な形相が「非物質的に」存在することも否定してはいない。『神学大全』(問14、78、82)では、形相の認識(魂の働き)とその形相が非物質的に存在することとはイコールとされているのだけれど、『霊魂論註解』では、感覚的形相は感覚器官にも媒質にも存在できるとされているという(これはシェルドン・コーエンの議論がベースだという)。この「矛盾」について、実はそれが、トマスの前から綿々と営まれてきた逍遙学派のアリストテレス解釈の伝統に由来するものなのではないか、というのがこの論考の主旨となる。そんなわけで論文著者は、トマスから順に註解の伝統を遡っていこうとする。

まずはトマスへの直接的な影響関係だ。師とされるアルベルトゥス・マグヌスの場合、知覚には感覚器官が外部の形象を受動的に受け取るだけではなく、「共通感覚」の器官(?)による能動的な判断・意図が必要だとする(非アリストテレス的な)議論があるという(ローレンス・ディーワンの解釈なのだとか)。知覚する本体を目や耳といった個別の感覚器官よりもより内部に(とはいえ身体に)設定しているという。これに対し、アヴェロエスは意図・判断は魂にしかないとし、形相は魂の感覚機能にのみ非物質的に存在するとしていた。そんなわけでトマスはおの両者を結びつけようとして泥沼にはまったのではないか、という。

トマスへの直接的な影響関係はとりあえずそこまでなのだけれど、論文著者はさらに類似の議論をアリストテレス註解の伝統に探っていく。まずシンプリキオスは魂について二つの概念があるとする。一つは身体の生命をささえる機能としての魂、もう一つは身体を動かし使う実体としての魂。そして知覚は後者の概念での魂で生じるとされる。ヨハネス・フィロポノスは、身体は形相と質料の両方の影響を受けるものの、感覚機能(魂の)は形相のみを受けつけるとする。テミスティオスは感覚器官が感覚対象の形象に対する質料の役割を果たし、対象のもとの質料なしで対象を受けつけるときに知覚が生じるとする。テミスティオスはトマスに近いと著者は記していて、トマスが『霊魂論注解』を執筆していたころ(1267年ごろ)にメルベケ訳を通じてテミスティオスを読んでいたことも指摘しいてる。アフロディシアスのアレクサンドロスは、感覚器官において感覚対象が同化されるプロセスが知覚だとするものの、感覚器官が質料として対象の形相と結びつくのではないとしている。それぞれの立場が多様なのが興味深いが、知覚がどこで生じるかでまとめると、フィロポノス、シンプリキウス、アヴェロエスが魂寄りの解釈、アレクサンドロス(とアルベルトゥス)が感覚器官寄り、中間的なのがテミスティオスという腑分けだ。

その上で著者は、もとのアリストテレスのテキストに戻ってみる。そこで強調されているのは、むしろそれぞれの感覚器官が、対象のもつ特定の性質にのみ選択的に反応する点だという。註解者たちが言うような対象全体の話などしていないと指摘する。つまり全員がそれぞれもとの意図を把握しそびれているという格好だ。知覚全体についてアリストテレスは魂と感覚器官の複合体を考えていて、知覚という運動は器官で生じるものの、魂において終端にいたるという構図になっているのではないか、というのが論文著者が考える本来の議論。この最後の部分で、論考でそれまで取り上げた論者全体がばっさり批判されているのがなかなか爽快かもしれない(苦笑)。

フラ・バルトロメオ(1472-1517)によるトマス・アクィナスの肖像
フラ・バルトロメオ(1472-1517)によるトマス・アクィナスの肖像

トマスの場合の「神認識」

スティーブン・L・ブロック「無神論は合理的でありうるか−−トマス・アクィナス読解」(Stephen L. Brock, Can Atheism be Rational? A Reading of Thomas Aquinas, Acta Philosophica, vol. 11 (2002))という論文。中世と無神論というのはなかなか結びつかない部分だけれど、著者は中世が現代人の無神論についてなにも教えをなすことがないというのは間違いだとし、この論考では『神学大全』『対異教徒大全』から関係するリファレンスを読み解いこうと試みる。その中には、たとえば人間の魂に内在する神認識の問題なども含まれていて、そのあたりがまとめとしてなかなか興味深い。トマスの場合には、神の存在は「おのずと」知られる真理なのだといい、その認識はごく自然に(本性的に)なされると考えられている。つまりそうした真理の認識能力が人間の魂に内在していて、それは聖霊によってもたらされる恩寵だとされる(これはフランシスコ会系の照明説その他の議論も基本的には同じだ)。その一方で、当然ながら人間が獲得する知識(認識)には論証のプロセスを経るものもあるわけだけれど、トマスの議論ではその両者は矛盾するのではなくむしろ相補的だとされる。誰にでも備わった認識能力と、論証的にそれを追認・確認する能力というわけだ。そうすると、誰もが神を認識できることになり、そこに無神論というか、否定的な見識が生じる可能性はなくなってしまう。けれども、ということは、物事にはかならず肯定的と否定的の二面性があるという原理に反してしまうのではないか、という疑問が出てくる(著者曰く)。

で、ネタバレになるけれど、ここから著者はトマスの言う「愚かさ」(stultitia)を検証する。トマスにおいては神の(認識の)否定は必ずや賢慮の反対語となる愚かさと結びついている、と。では合理的な思考から無神論を導こうとする場合も、やはり愚かさが関係するのか?トマスはそのあたりを明示してはいないとして、著者はトマスに立脚し、ありうべき(笑)答えを想像してみせる。このあたりは良い意味での「遊び」。でもそれこそが、中世思想を今ここで再検証することの楽しみにもなりうるし、積極的な有意性をもたらすことにもなりうるんじゃないかなとは思う。

↓wikipedia(en)より、トマスの『神学大全』の写本