オリヴィというかフランシスコ会系の感覚論について調べる一方で、対照するためにドミニコ会系の議論も見ておきたいと思って入手してみたのが、カルラ・ディ・マルティーノ『部分的理性 – アヴィセンナからトマス・アクィナスまでの内部感覚説』(Carla di Martino, “Ratio particularis – Doctrines des sens internes d’Avicenne à Thomas d’Aquin”, Vrin, 2008)。内部感覚というか、知覚全般についてのアリストテレスの議論を、アヴィセンナ、アヴェロエス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスがどう受容しどう変奏したのかを割と細かく、手堅くまとめ上げた一冊。目を惹くような斬新な議論こそないものの、実に堅実な筆運びで(博士論文がベースだとか)四人それぞれの論点の違いや微細な差異を描き出している。特に各人の著作別の記述的変化(前二者については医学系の著作なども含めて)にも目配せがされていて好印象だ。全体としてはいろいろ勉強になる。
占星術系の話になるけれども、アルベルトゥス・マグヌスについての論考から、ニコラ・ヴェイユ=パロ「星辰の因果性と中世の<形象の学>」(Nicolas Weill-Parot “Causalité astrale et « science des images » au Moyen Age : Éléments de réflexion”, Revue d’histoire des sciences, Numéro 52-2, pp.207-240, 1999)というのに目を通しているところ。天空の星が地上世界に影響するという考え方はもちろん古くからあるわけだけれど、中世盛期においてはそれまでの「星を読む」という象徴論的な考え方から、アリストテレス思想(と『原因論』)の浸透で、上位の存在から下位の存在へと影響の連鎖が続くという因果論的な考え方にシフトしたとされる。そこでは(たとえ稚拙なものでも)多少とも「科学的な説明」がなされるようになり、たとえばアルベルトゥス・マグヌスは、一部の宝石など(護符として用いられる)に宿るとされる力の源泉を天空の力によるものと説明したりしている。同様に、異形の人間の誕生とか、人間の顔をした豚、さらには人間や動物の姿が自然の岩(宝石)に刻まれる場合があることなども同じ系列の作用で説明づけられる。で、これまた同様に、占星術的な作法にもとづいて人為的に像を刻む場合(それがすなわち<形象の学>)にその石が同じような効力をもつ、という場合についても、アルベルトゥスは考察をめぐらしているのだという。
久々に天使の意思疎通論を読む。ハーム・ゴリス「天使的博士と天使的発話」という論考(Harm Goris, ‘The Angelic Doctor and Angelic Speech: The Development of Thomas Aquinas’s Thought on How Angels Communicate’, Medieval Philosophy and Theology 11 (2003))(→PDFはこちら)。13世紀半ばにもてはやされた「天使はどんな言葉を交わすか」という問題をトマス・アクィナスはどう考えていたかについて、その経年別の思想的変遷を中心に手堅くまとめたもので、とても参考になった。ここで考えられている天使のコミュニケーションとは天使同士の意思疎通の場合。コリント書13.1の「もし私が人間や天使の言葉で話しても……」というのが、聖書での「天使の言語」に関する唯一の出典なのだそうだけれど、これをめぐって、すでにヘイルズのアレクサンダーの『神学大全』、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥス・マグヌスなどが議論していたという。彼らはいずれも、天使の言語を人間の言語とパラレルなものと見なしていて、知的スペキエス(像、形象)のあり方として、理解(概念化)、獲得(定着)、伝える意志および表出といった段階があると考えていた(これはアレクサンダー、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥスでそれぞれ用語が異なる)。トマスも初期には、アウグスティヌスを踏まえて心的概念、内的言語、知解可能な徴という区別(もしくは段階)を考えていた。アウグスティヌスを踏まえてとはつまり、思惟というのは内的言語だという考え方を前面に出すということ。しかしトマスはやがて、今度はアリストテレス的な可能的・常態的(獲得された)・現勢的知識という区別を適用して、天使における知性内の知解対象のあり方を、常態(獲得)、当人にとって現実態(理解)、他者にとって現実態(表出)という三区分とするようになる。理解(概念化)と内的言語を切り離し、三つめの外的な表出においてのみ言語が関与するという立場に転じたらしい。