「ナラティブ論」カテゴリーアーカイブ

ロビン・フッドの「出世」?

ラッセル・クロウ主演の映画『ロビン・フッド』(リドリー・スコット)では、ロビンは十字軍帰りの兵士で、最終的にはフランス軍と戦うことになる。これを観たとき、その設定を「なかなかぶっとんでいるなあ」と思ったものだが(ケビン・コスナー版はちゃんと観ていないし、ショーン・コネリーの『ロビンとマリアン』はすっかり忘れていたのだけれど、それらも結構似たような設定だったらしい)、そういう設定はどこから、いつごろ生じたのかという疑問は以前からあった。で、最近になってそういう話を取り上げた論考に出会った。スティーブン・ナイト「ロビン・フッドと十字軍:いつ、なぜ民衆の射手は領主のごとく馬にまたがったのか」(Stephen Knight, Robin Hood and the Crusades: When and Why Did the Longbowman of the People Mount Up Like a Lord?, Florilegium, vol.23, No.1, 2006)というもの。それによると、50年代の英国製ドラマ『ロビン・フッドの冒険』でも、ロビンはすでにして十字軍帰りの貴族で、しかも騎手でもあったという設定なのだという。で、論考はこの馬に乗るロビンとか、十字軍絡みの設定がどこから生じているのかを検証しようとする。その先には意外な結論が……。以下ネタバレ(笑)。

実はそうした造形はかなり新しいものらしい。きっかけとなったのではないかとされる印刷本ですら16世紀のもの。それ以前の伝統的なバラッド(物語詩)に描かれたロビンは、領主ではなく自由民で、義賊ですらなく、権力に逆らいこそすれ、ごく少数の集団で森で生活している盗賊でしかない。当然移動も徒歩だ。それが、1500年ごろにアントワープで印刷された『ロビン・フッド武勲詩』になると、馬にまたがった射手のイメージが冒頭に挿絵つきで載っているのだという。とはいえ、その木版画の挿絵はキャクストン版『カンタベリー物語』からの流用なのだそうで、また作品内の挿絵として見た場合でも、描かれてるのはロビン本人ではなく、ロビンが手助けをした貴族なのだというが、いずれにしてもこれがイメージ的にもつれていく一つのきっかけになっているのは間違いなさそうだ。論文著者はここに、印刷本のマーケットを意識した意図的な戦略を見ている。印刷本の読者は基本的に上流階級だから、導入部で彼らにウケるキャラをイメージさせるというのは、まさしく掴みとして重要だ、というわけだ。さらにその貴族は没落した貴族とされ、それはその人物が十字軍に従軍したためだということも示唆されているという。こうして十字軍もイメージ圏内に入ってくる。

一方、従来の伝統的なロビン像も、17世紀にいたっても続いていたそうだが(印刷本として刊行されたバラッドなど)、17世紀後半になると、ロビンを領主として描くような上品な版も登場し、それに伴う形で騎手としてのロビンを示唆するようなものも出てくるのだとか。とはいえ、十字軍帰りとか騎手としてのロビンが公然と描かれるようになるのは、なんと20世紀の映画やドラマを通じてなのだそうで(!)、その先駆けになったのが、19世紀の上流社会向けのフィクションであり、その背景をなした帝国主義だった……と話は進んでいく。うーん、なんとも意外なこの展開。時代ごとに様々な政治的(?)意味を担わされる中世の人物造形が、どこか哀れな気もしないでもないが……(苦笑)。

ノッティンガムのロビン・フッド記念碑
ノッティンガムのロビン・フッド記念碑

中世の災害記述から−−グラニエ山崩落

IMG_0382ジャック・ベルリオーズ『中世の自然災害と災禍』(Jacques Berlioz, Catastrophes naturelles et calamités au Moyen Age, Sismel-Galluzzo, 1998)は、主に中世盛期以降の各種災禍の記録をめぐる個人論集。その中の第四章として扱われているのが、1248年あたりに起きたとされるグラニエ山崩落で、これが同論集のうち最も長い論考(pp.57-139)になっている。これがなかなかの読み応え。グラニエ山というのは現在のフランス東部(ローヌ・アルプ地方)サヴォア県のシャンベリー(県庁所在地)近くにあった岩山だとされる。この山が大規模な土砂崩れを起こしたという話は、マシュー・パリス(ベネディクト会士)の複数の年代記のほか、エティエンヌ・ド・ブルボン(ドミニコ会士)の説教用の訓話(exemplum)、フラ・サリンベーネの年代記、マルタン・ル・ポロネ(ポーランドの聖職者)の年代記、エルフルト修道院(チューリンゲン、ドミニコ会)の編年史など、いろいろな史料に残されているというのだけれど、論文著者はこれらすべてを丹念に比較検証し、その「説話の構造」のようなものを描きだしている。

当然ながら、当時の災害記述においては聖書へのリファレンスが色濃く、この場合には山が動いたということで、ヨブ記一四章一八節「山は崩れてしまい、岩は場所を変える」が、説教用の訓話などではそのまま引き合いに出されたりする。一方でマシュー・パリスの年代記ではそうしたトーンはやや薄まっているようで、より「写実的」な面を強調した記述になっているともいう。面白いのは、原因の考察において、アリストテレス『気象論』での地震の説明(「地震は海流が激しい場所や、空洞が多々ある場所で起こる」)を取り込む形で(とくにパリスが)、グラニエ山の崩落前に高波があったことや、その山に多くの空洞があったことを記しているという話。『気象論』はヴァンサン・ド・ボーヴェ『大鏡(Speculum maius)』などを介して広く伝えられていたらしい。とはいえそれのあたりの自然学的な話は、原因としては副次的な扱いで、前面に出ているのはやはり神の罰という考え方。パリスの場合には、サヴォア人たちを快く思っていないこともあって(イングランド王妃エレノールの伯父にサヴォア伯がいて、そのあたりの絡みでサヴォアの人々がイングランドの封土を買い占めていたという現実があった)、「罰」という側面が記述に色濃く出ているのだとか。一方、訓話の場合には「祈りによって山を止める」話に力点が置かれているという。いずれにしても記録の書き手は伝聞にもとづいてその事象を記しているわけで、聖書その他の文献で伝わるもののほか、口承伝承の諸エレメントも、すでにして付与されている。代表例として悪魔と聖母との戦いのモチーフが挙げられているのだけれど、論文著者はこのあたりに当時の民衆の「期待の地平」(破壊とその救済)を見て取ることもできると指摘している。

中世盛期の「異常発生」論

これも年越し本になってしまった一冊。まだ途中まで(三分の二ほど)なのだけれど、年末年始からとても得した気分になるほど面白いので(笑)さっそく記しておく。マイケ・ヴァン・デル・ルクト『虫、悪魔、処女−−中世の異常発生論』(Maaike van der Lugt, Le Ver, Le Démon et La Vierge – Les Théories médiévales de la génération extraordinaire, Les Belles Lettres, 2004)。ちょっとエキセントリックな題名で、なんとなく敬遠していたのだけれど、読んでみると中身はしっかりした研究だった。12〜13世紀の中世の動物発生論、とりわけ「異常発生」(つまり通常の生殖によらない発生)の問題圏めぐって、当時の議論を手堅く整理している感じだ。人口に膾炙した伝承の類や聖書にもとづくエピソードなどについて、当時の識者たち(主として神学者たち)がどのように解釈していたかをまとめ、わかりやすく紹介している。この、説話と学識層の議論とを行き来する様がとてもいい。というか、対象の選定としても論考の展開としても、ある種理想的な研究に思える。こういうのがやれれば本当にいいよねえ、と思う(笑)。

第一部は中世盛期の発生論のまとめ。ガレノス流に女性にも種子を認める立場と、アリストテレス流の男性のみに種子や形成力を認める立場との対立として各論者たちの布置を描き出しているのだけれど、個人的にエギディウス・ロマヌスのテキストなどはもっと錯綜感があったような印象があり、そんなにきれいに分かれるんだっけかなあと思ってしまった(笑)。いずれにしてもこれは序の口。本論は第二部から。まず紹介されるのは、アヴェロエスの『医学集成(Colliget)』にある話。近隣の女性の証言としてアヴェロエスは、悪意ある男性が射精した湯に浸かったら妊娠したという話を記しているというのだけれど、これに関連した様々な論者の説がまとめられていく。もともとその話はユダヤ起源のものとされ、反ユダヤ的な姿勢に結びつけられて(たとえば尊者ペトルスなど)一蹴されていたものの、やがて、性交がなくても女性の妊娠があり得るかという議論に移り変わり、多くの論者たちがその可能性を認めるにいたったという。続いて、動物の場合(たとえば雌馬)の「風による妊娠」話など、単為生殖にまつわる伝説とそれらをめぐる識者たちの議論が紹介される(サレルノのウルススやアルベルトゥス・マグヌスによる反論など)。生物の自然発生の伝説も俎上に乗る。たとえばエボシガイ(barnacle:貝)からコクガン(barnacle:野生の雁の一種)が生まれるという中世起源らしいとされる伝承。サレルノのウルスス(ウルソ)がその話に合理的説明を付けようとしたりするものの、13世紀になるとアリストテレス説に基づきそうした伝承は否定されていく。

そうした伝承についての議論で問われるのは、どこまでそうした自然発生を認めるかという限度の問題だ。一部の動物に自然発生を認めるという考え方(アリストテレス)は、アヴィセンナなども継承しているわけなのだけれど、西欧においてはそのコスモロジー思想の最下層に位置する「形相付与者」(dator formarum)の考え方が問題視される。それを認めてしまうと天使や悪魔にも創造の力があることになってしまうとして、後に糾弾されることになる(タンピエの禁令など)。とはいえ、やはり急進的な考えをもつ人もいないわけではなく、なかなか事態は複雑だ。ちょっと個人的に面白そうだと思ったのは、14世紀末ごろのパルマのビアッジョという人物。ラディカルな合理主義・自然主義を貫き、魂の不死を否定し、知的魂すら質料の中から引き出されると考えていたという。発生論的には、一部の動物は空気の中間領域から生じるとしていたらしい(!)。

続く第三部は悪魔がらみの発生について。ここでまず問題になっているのは、中世の説話に登場する魔術師マーリンの出生譚。母親が悪魔(夢魔:incubus)によって受胎したとする説話だ。さらに聖書に出てくる巨人族の出自が悪魔にあるとする教説もある。これらはいずれも神学者たちからは否定されていくのだけれど、その際に悪魔の身体性が問題とされるようになる。悪魔が人前に姿を現すときの身体は雲の形成に喩えられるような仮の身体(corpus assumptus)とされ(トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥスなど)、実質的には人間への影響を及ぼせないという説が一般化するのだけれど、それ以前からもすでに、そうした仮の身体での咀嚼や生殖は議論の的になっていた。悪魔が生殖に及ぶ場合に擬似的な種子を作るといった説(ヘイルズのアレクサンドルス、オーベルニュのギヨーム)も出るものの、これは後に斥けられ(サン・シェールのフーゴー)、かくして仮の身体や擬似的な種子では人間を形成する力が得られないという議論が大勢を占める(形成力は親の魂に由来するとされる)。代わりに出てくるのが、悪魔が人間の精子を盗み、一種の「人工授精」を行うという考え方で(トマス・アクィナス)、中世末ごろまでそれは定説として一般化する……。こうした諸説はペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の注釈という形で議論されているのだけれど、著者によれば14世紀になると、発生論に関連した注釈はほとんど姿を消してしまう。特にフランシスコ会派がそうだといい、一因は命題集への註解の仕方がそもそも変容してしまうからだというが、とにかく発生論の議論全体が下火になるらしい。15世紀になって悪魔学が天使論から切り離され、魔術の言説と結びつくようになって、オーベルニュのギヨームなどの説がまた引き合いに出されるようになり、発生論がらみの議論も一種のリバイバルが起きるのだとか。

いや〜、実に面白い。キリストの受胎を扱う第四部についてはいずれまた。

キリスト生誕論の数々

今年も25日前後には、クリスマスに関連する論考が各種紹介されていた。やはりというか、日付設定に関するものが多い印象なのだけれど、旧来の異教の祭りとの関連(「無敵の太陽(sol invictus)」崇拝、ミトラ教信仰、サトゥルナリア祭など)の指摘に加えて、創造と救済の重要な出来事は日時が一致するという「同一日付説」(ユダヤ起源だという)を指摘するものが目につく。たとえばアンドリュー・マクゴアン「クリスマスの日付決定」(Andrew McGowan, Dating Christmas, Originally published as “How December 25th Became Christmas,” Bible Review Vol.18:6, 2002)では、もともと1月6日とされていた生誕の日を12月25日に移したとする12世紀の写本の記述が紹介されているほか、1月6日を生誕の日とする伝統に言及している著者としてアレクサンドリアのクレメンスが挙げられている。で、同著者は、この移動の背景にキリストの死亡日をめぐる問題があるとしている。テルトゥリアヌス(160〜225ごろ)はキリストが死んだ年の過越の祭り(Nisanの月の14日)を3月25日と計算し、それがキリストの亡くなった日だろうと推測した。一方で東方教会は、Nisanの月の14日ではなく、アルテミシオス(ギリシア暦の最初の春の月)の14日、すなわち太陽暦での4月6日を採用した。これに、受胎と死が同日にあったとする2世紀ごろのキリスト教徒の考え方(上の同一日時説)が加わり、キリストの出生はそれぞれの9ヵ月後とされ、東方教会では1月6日、西方教会では12月25日という形になった……。またジョゼフ・ケリーのアーティクル「クリスマスの誕生」(Joseph F. Kelly, The Birth of Christmas, Center for Chrsitian Ethics, Baylor University, 2011)では、やはり同時代のセクストゥス・ユリウス・アフリカヌス(160〜240ごろ)が、キリストの受胎は3月25日だったとする説を唱えたことが示されている。とはいえユリウスは影響力のある書き手ではなかったといい、そこに異教の太陽神崇拝への対応という政治的配慮が介在した可能性が示唆されている。いずれにしても4世紀には、12月25日を生誕日とすることがローマ教会では定着しているという。

……とまあ、これらもなかなか面白いのだけれど、そんな中、ちょっと毛色の変わった論考が、スティーブン・シューメイカー「クルアーンの中のクリスマス」(Stephen J. Shoemaker, Christmas in the Qura ̄n: The Qura ̄nic Account of Jesus’ Nativity and PalestinianLocal Tradition, Jerusalem Studies in Arabic and Islam, Jan 1, 2003)。クルアーン(コーラン)に描かれたキリスト生誕場面(19マルヤム、22〜27)では、ナツメヤシの木に寄りかかり陣痛に苦しむマリアに、腹の中の子(イエス)が慰め、ナツメヤシの実を食するよう諭すというものなのだけれど、これが実は聖書の外典の、正典とは別のキリスト生誕譚の伝承にもとづいていることを、この論考は示そうとしている。ここで言う外典とは『偽マタイ伝』と『ヤコブ伝』で、とくに後者の2世紀ごろの版では、キリストの誕生はベツレヘムに到着する前、砂漠の中でだったとされているのだとか。ナツメヤシを食する話は『偽マタイ伝』においてエジプト逃避のエピソードとして描かれているという。論文著者によると、これら二つの伝承が混じり合って、クルアーンの記述に影響していたのではないかという。エジプト逃避から生誕へと、伝承のどこかの時点でエピソードが移しかえられた可能性があるというものの、文献学的な証拠はまだ見つかっていないのだとか。

で、興味深いのは、ベツレヘムとエルサレムの中間地点で1997年の冬に発掘されたというカティスマの聖母教会が、もとは生誕教会として建造されていたのではないかという話だ。6世紀ごろのテオドシウスの巡礼の手引き書が、この教会が聖母マリアの座であったことを示唆しているといい、また420年から440年ごろの礼拝を伝えるアルメニアの聖句集に、8月の15日にベツレヘムとエルサレムの中間地点で祝う聖母の祝日についての言及があるのだそうだ。そうした聖句集などの最近の研究から、8月15日の祝日がもとは生誕の祝いであったことが示されているのだそうで、ではなぜ8月なのかといった問題はあるものの(そのあたりは推測の域を出ない複雑な議論になっているみたいだが)、いずれにしても6世紀ごろには8月15日は聖母マリアの被昇天の祝日として定着したという。(これまた推測の域を出ないけれど)そうした動きとパラレルに、出産のためにナツメヤシの木のもとで休む聖母という伝承が、エジプト逃避の最中の伝承へとすげ替えられた可能性も示唆されている。うーむ、このあたり、今後何かまた新たな資料や証拠が出てくるかもしれないし、大いに興味を沸かせてくれるところではある。

聖人伝と政治性

年末だけれど、相変わらず雑多な論文読み(苦笑)。今回はスーザン・J・ヒューバート「聖人伝の神学的・論争的利用:ボナヴェントゥラの聖フランチェスコ大伝」(Susan J. Hubert, Theological and Polemical Uses of Hagiography: A Consideration of Bonaventure’s Legenda Major of St. Francis, Comitatus, Vol. 29, 1998)という論考を読む。ボナヴェントゥラが著した『聖フランチェスコ大伝』(PDFがこちらに)を、フランシスコ会派内部の政治的・神学思想な文脈に置き直そうという一編で、結構面白い。よく知られているように、当時のフランシスコ会派は聖霊派とコンヴェンツァル派(修道制派)とに分かれて、ある種の内部抗争を繰り広げていた。いわば元の清貧思想を取り戻そうとする一派と、組織化を重視する一派との対立だったわけだけれど、そんな中で、会派のいわば宗主だったアッシジの聖フランチェスコの伝記は、いきおい政治的な色合いを帯びたものとなっていたという。ボナヴェントゥラの著より以前には、チェラーノのトマスによる三種類の伝記と、スペイエルのユリアヌスによるその短縮版があった。前者のうち『第一伝記』(英雄伝の一般的なスタイルに合致していた)などは一時会派の公式な宗主伝とされていた。より独自性を強めたという『第二伝記』は聖霊派の議論を支持していて、実際に聖霊派によるコンヴェンツァル派の批判に使われたりもしていたらしいのだけれど、結局チェラーノのトマスの伝記は年代記的な不備があったり、礼拝に使うには不向きだったりしたことから、ユリアヌスの短縮版が作られることになった。けれども省略部分が多く、結果的にまた別の聖フランチェスコ像が導かれることになってしまう(政治的には両派に対して中立的)。

それらを受ける形で、ボナヴェントゥラの『大伝』が登場する。そちらは先行する伝記を参考に書かれてはいるものの、政治的にはコンヴェンツァル派寄りで、またフランチェスコの生涯を神秘神学的に構造化して示している点でそれまでの伝記とは一線を画しているのだという。神秘神学的構造化というのは要するに、ボナヴェントゥラが別の著書『三つの道』で示した、神秘主義的な上昇の三段階(浄化、天啓、合一)を、聖人の生涯に当てはめているということだという。『大伝』は従来、ボナヴェントゥラが会派の一体性を回復するために記したものとされてきたというのだけれど、実はそこにはボナヴェントゥラ自身のアレンジを経て、神秘神学的な思想が反映されている、というのが論文著者の議論。なるほど。でも、ならば神秘神学的構造化そのものの政治性といった議論にまで、もう一歩突き進んでもらいたい気もしないでもないのだが(無いものねだりか……笑)。