「ナラティブ論」カテゴリーアーカイブ

ひげなし/ひげありのキリスト像

これも結構面白い論考。クロディーヌ・A・シャヴァンヌ=マゼル「民衆の信仰とひげのないキリストの像」(Claudine A. Chavannes-Mazel, Popular Belief and the Image of the Beardless Christ, Visual Resources, Vol.19, No.1, 2003)(PDFはこちら)。全体をまとめておこう。西欧のキリスト像の伝統には、ひげのあるキリストと、ひげのないキリストの二種類が大別できるとされる。どちらもかなり古くから(3世紀ごろから)あり、ひげのないものは古代神話のアポロンやディオニュソスに模され、永遠の若さを表しているのに対し、ひげのあるものはユピテルのような知恵の表象を意味している、などと言われてきた。古典的イメージの継承だというわけだ。また古い時代の神学者たちは、その二種類の像は、創造以前のキリストと受肉したキリストという二種類のキリストの本性に対応する、などと説明していたともいう。その二種類にアリウス派と正統派との対立を見る向きもあった。とはいえローマ教会自体は「キリストの顔は知りえない」というアウグスティヌスの見解を採択していて、どうやら「ひげあり/ひげなし」は結局教会の教義とは関係なく、神にはそれと知られる顔があってほしいという人々の願いを反映した、世俗文化的なものでしかないらしい。

6世紀後半あたりになると、徐々に東ローマのほうで、長い黒髪とひげを湛えたキリスト像が優勢になっていき、偶像破壊運動の後に、イコンのキリスト像としてひげありのイメージがほぼ定着する。一方の西欧側はひげあり/ひげなしの混在状態がしばらく続く。これになんらかのパターンや意味合いがないのかが気になるところだけれど、同論考は一概には言えないことを具体例で示している。ひげなしも13世紀ごろまで普通に見られるようなのだけれど、一方で、「人の手によらない」キリストの像とされるもの、つまりエデッサのマンディリオン(記録があるのは10世紀ごろ)や、ヴェロニカのヴェール(記録は12世紀)、さらにトリノの聖骸布(記録は14世紀)などを通じて、東ローマに倣う形でひげありのイメージがほぼ定着していく。そんなわけで同論考は、世俗の伝説などが原型を作り上げていく(教会はというと、曖昧な立場を示しながら流れに追従していった)というプロセスを重視している。

ハンス・メムリンク《聖ヴェロニカ》、1470年ごろ(ナショナル・ギャラリー・オブ・アート所蔵)

伝説の創成

キャロル・ヒレンブランド「西欧におけるサラディン伝説の進化」(Carole Hillenbrand, The Evolution of the Saladin Legend in the West, Mélanges Louis Pouzet, 2006)という論文を読む。十字軍との戦いを繰り広げ、ヨーロッパ勢からエルサレムを奪回したサラディンは、なぜか敵側のヨーロッパで英雄視され、後にそれを介する形でアラブ世界でも希有の英雄として再発見されることになるらしい(19世紀になってから?)。そのヨーロッパでの受容の変化を駆け足で辿ろうとするのがこの論考。サラディンはまず、エルサレム王国の歴史を記したギヨーム・ド・ティールの年代記において聡明で寛大な人物とされ、それに続く年代記作家の筆においても、敗北したキリスト教側への慈悲深さなどが称賛されていた。そのわずか2世代程度のタイムスパンで、サラディンの武勇伝を語る古仏語文献(年代記、騎士物語など)が登場し、さらに後のダンテによって例外的な高評価が与えられ、さらにボッカチオにも引き継がれる。論考はここでいきなり18世紀のレッシング、19世紀のウォルター・スコット卿によるサラディン評へと飛ぶ。いささか目まぐるしすぎる展開だけれど、個人的にはむしろこうした伝説というか、伝承の創成が気になるところ。これはテキストそのものを見ないとちゃんとはわからないけれど(この論考でも触れられていないが)、継承されていたなんらかの語りの枠組みにサラディンが合致した可能性があるような気がする……。

……そう思えたのは、もう一つ、イェルカ・レジェップ「コソボの伝説」(Jelka Ređep, The Legend of Kosovo, Oral Tradition, 1991)(PDFはこちら)という論文を最近見たせいかもしれない。コソボ紛争のときに報道などでも取り上げられていた「コソボの戦い」。これはセルビア側が激戦の末オスマン帝国に敗れた戦い(1389年)だけれど、これが14世紀末以降に伝説を生み、またセルビアのラザル侯が神格化され、18世紀には国民的英雄として崇拝の対象になる。で、論考はその伝説の具体的な初期のテキストをもとに、裏切りのモティーフなどが徐々に肉付けされていく様子を丹念に追っている。その中で、伝説がいったん口承(大衆の詩など)を挟むことで、たとえば1389年の戦いと1448年の戦いとが混同されていくといった現象が確認されるという。うーん、サラディン伝説についても、なんとなく個人的にはそのくらい細やかな分析を期待したいところ(ハードル上げすぎても問題だろうけど)。

説話の中のネロ

ローマの皇帝(在位54年から68年)だったネロは、一般通念として暴君とされているけれど、そのイメージが先鋭化したのは中世盛期であったらしい……という論考を読む。グリニス・M・クロップ「中世フランスの伝統における皇帝・暴君ネロ」(Glynnis M. Cropp, Nero, Emperor and Tyrant, in the Medieval French Tradition, Florilegium, vol 24, 2007)。ローマの歴史家タキトゥスなどはネロを必ずしも暴君として扱ってはいないものの、スエトニスあたりになると、古典的な暴君像(プラトンが示したような)が注入されるようになるというが、そうしたイメージが大きく前面に出るのはどうやらはるか後世を待たなくてはならないらしい。12世紀のソールズベリーのジョンは著書『ポリクラティクス』においてネロを暴君の一例として示していたが(同書は14、15世紀の政治思想に広範な影響を及ぼしたとされている)、一方でネロが音楽を愛する人物だったといった記述もあって、ネロの評価はやや両義的だという。同時代のコンシュのギヨームによるボエティウスの『哲学の慰め』への註解(改訂版)では、ネロは即位前と後で善人から悪人へと評価が変わっていて、こちらもある意味両義的。これが『哲学の慰め』の仏語訳(1230年頃)あたりになると、訳者がネロについて暴君呼ばわりする一節を「追加」しているほどで、悪しき評価へとだいぶシフトしているらしい。『ポリクラティクス』の仏語訳(ドニ・フールシャ、1372年)でも、もとのラテン語よりも訳語の軽蔑的なトーンが強まっているという。13世紀あたりからそういう評価は強まっていて(13世紀イタリアの哲学者ブルネット・ラティーニなど)、『薔薇物語』のジャン・ド・マンなどもそうだといい、そうした評価のいずれもが『ポリクラティクス』が描くネロ像に呼応しているのだという。

キリスト教的な文脈からすれば、ネロがセネカのほかペトロやパウロを殺害したことは大きな要因とされ、実際に武勲詩などの民衆文学の伝統では、ネロはピラトと同様に悪魔の手先として描かれたりする。シャルルマーニュがサラセンからローマを解放したというフィクションをもとに、「ネロの系譜」という言葉が異教の敵サラセン人を指すために使われたりもしたという。また、キリスト教からすると大罪である自殺で生涯を閉じた点も、そうしたイメジャリーに寄与しているということらしい。

『哲学の慰め』注釈小史

またしても面白い論考だ。「『プラトン主義者はアリストテレス主義者より偉大なり』:12世紀から17世紀までの、『哲学の慰め』におけるボエティウスのプラトン主義解釈」(Lodi Nauta, “Magis sit Platonicus quam Aristotelicus”: Interpretations of Boethius’s Platonism in the Consolatio Philosophiae From the Twelfth to the Seventeenth Century, in The Platonic tradition in the Middle Ages: a doxographic approach, Walter De Gruyter, 2002)(PDFはこちら)は、ボエティウスの同著作についての注釈小史をまとめたもの。ボエティウスはキリスト教の伝統において重要な人物とされるものの、その最後の著作である『哲学の慰め』においては、キリスト教の教義に触れていないことと、身体に入る前の魂の存在がたびたび暗示されることにより、後世の注釈者たちを大いに悩ませることになる。ある人々は、ボエティウスが示すプラトン主義がキリスト教の教義に沿うものであることを、プラトンの言葉の意味解釈を深めることで示そうとし、また別のある人々は、そうしたプラトン主義とキリスト教の摺り合わせを拒絶しようとした。さらにほかにも、ボエティウスのプラトン主義への忠誠を低めようとする論者もいたり、文献学的な注釈だけに留めようとする動きもあったり、また17世紀ごろにはプラトン主義をまるごと真摯に受け止めようという向きもあったという。

で、著者はとりわけ最初の、プラトン主義とキリスト教とを和解させようとする動きに注目し、何人かの論者たちを取り上げ、特に世界創造の問題と魂の先在の議論について比較を試みる。取り上げられるのは、コンシュのギヨーム、ニコラス・トレヴェット、アラゴンのウィリアム(アリストテレス的解釈者)、バディウス・アスケンシウス(16世紀初頭)、ヨハネス・ムルメリウス(16世紀初頭)、レナトゥス・ヴァリヌス(17世紀)ほか。この人文主義者たち以降の解釈も興味をそそるのだけれど、個人的にここで一番惹かれるのは、13世紀末から14世紀にかけて活躍したニコラス・トレヴェット。ボエティウスだけでなく、聖書のほか、セネカ(小)の悲劇、セネカ(大)の『雄弁術』、アウグスティヌス『神の国』、リウィウス『ローマ建国史』などの注釈もあるという。当時はかなり人気の書き手だったとのことだ。ボエティウスの解釈に関しては、コンシュのギヨームと同様に、プラトン主義はその言葉づかいのうちに(キリスト教から見た)健全かつ妥当な哲学が見出されるとの立場に立っているといい、この論考を読む限り、どこか曖昧さを残す箇所があったり、やや強引とも取れる解釈の箇所があったりと、なにやらあの手この手を駆使している印象。そこがまたとても面白そうな気配。

「幽霊」譚の隆盛(16世紀)

ひとつ前で取り上げた論考によると、災害についての認識が宗教色を帯びるのは宗教改革・反宗教改革の時代からだということだったけれど、今回もまた別のテーマで、その時代に認識の枠組みが変化したらしいというお話。で、そのテーマというのがイングランドの幽霊譚。プロテスタント文化圏でそれが活況を呈していくのも近代初期以降で、転換点がどうやら宗教改革にあるのだという。そう主張するのは、アルマンダ・ジェイン・マッキーヴァー『近代初期プロテスタント文化における幽霊』という学位論文(Amanda Jane McKeever, The Ghost in Early Modern Protestant Culture: Shifting perceptions of the afterlife, 1450-1700, University of Sussex, 2010)。とりあえず序文と前半を見ただけだけれど、なかなか面白い。中世においては「煉獄」を中心に、死者と生者とをとりなすシステムがあり、そこでの死者は神の意志によって煉獄から引き戻される場合があるとされ、それは死者・生者のいずれにも恩恵をもたらすという積極的な意味を付されていた。ところが宗教改革において、一部の派(カルヴァン派など)を除き、そうした死者と生者のとりなし装置は一蹴されてしまう。煉獄の教義は否定されて、表向きには「幽霊」なる存在の可能性もなくなるはずだったのだが、やがて、とりわけ17世紀後半にかけて、プロテスタント社会ではエリート層・大衆層のいずれにおいても幽霊への関心が高まり、幽霊譚は印刷文化において一つの独立したジャンルをなすにいたる。結果的に、幽霊譚は魔女や悪魔についての語りと一体化し、中世においてはモラル的にニュートラルだった幽霊は悪魔的なものとされるようになり、18世紀末から19世紀にかけてのゴシックホラーへの道も開かれた。そうなった背景は何なのか。著者はそこに、摂理の教義の影響とか、民衆に残っていた異教的死生観の反動などがあったと指摘する……。

前半部分でちょっと興味深かったのが、「revenant」の伝統が17世紀中盤ごろに幽霊譚に取り込まれたという指摘。revenantというと仏語では幽霊を指すが、原義としては墓場から戻ってくる者ということで、英語ではゾンビの原型というか、腐敗臭を発しつつうろつく亡者の肉体のことを指すという。そうした存在は古代や初期のキリスト教の伝統には見られないといい、むしろキリスト教以前の北欧の伝承がもとになっているという。これが幽霊譚に取り込まれたところに、論文著者は説話のリサイクルという現象を見てとっている。なるほど、それは文化史的に重要なキー概念かも。

↓煉獄の形象としては、なんといってもバベルの塔みたいなこの煉獄山。wikipedia(en)より、「ダンテの神曲」ドメニコ・ディ・ミケリーノ画(1465年、フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)