「主体、知性、スペキエス」カテゴリーアーカイブ

アナロギア小史

Les Theories De L'analogie Du Xiie Au Xvie Siecle (Conferences Pierre Abelard)先に挙げたエックハルト論と同じく、ソルボンヌでの講演にもとづく刊行シリーズから、ジェニファー・アシュワース『12世紀から16世紀のアナロギア理論』(E. Jennifer Ashworth, Les Théories de L’analogie du Xiie au Xvie siècle (Conférences Pierre Abélard), Vrin, 2008)というのを見てみた。100ページほどの小著ながら、なかなか深い内容なのだけれど、例によって、このところちょっとまとまった時間が取れないので、ザッピング的に荒っぽい読み。中世において「アナロギア」概念の受容と拡大の最初の契機は、これまた12世紀にアラビア文献(アヴィセンナ、アヴェロエス、アル=ガザーリーなど)でもたらされた「帰属のアナロギア」概念にあるという。アナロギア(類比)はもともと語がもつ微妙な曖昧さを、一意性と両義性の中間というかたちで捉えようとするもので、ここから、或るものが他のものと同属である(一方が他方に従属している)、あるいは両者は先行・後続の関係にあるという意味で両者が「似ている」とされる場合に、「アナロギア」の関係が論じられることになったのだという。トマスなどが言う存在の類比などもこの場合に相当し、存在者(有)という概念はそうした帰属のアナロギアに位置づけられる。

その後、今度は比例関係によるアナロギアが登場する(文字通りの「類比」だ)。15世紀のカエタヌスにおいては、それが唯一の真のアナロギアだとされるという。そちらの場合は異種同士であってもよく、それらが同じ機能・役割・状態などを担っていること(たとえば海の「凪」と風の「無風」、線上の点と数における単位)をもって「似ている」とする場合だ。もとになっているのはアリストテレスで、そのラテン世界への翻訳過程で、それらについての考察も深められていったという経緯があるようだ。上のカエタヌスは、帰属のアナロギアは意図(intentio)のみによるアナロギアであって、存在によるアナロギアではないとし、一方の比例のアナロギアは意図と存在の両方によるアナロギアだとしているという。意図とはこの場合、思い描きの性向のような意味らしく、概念という訳語が当てられたりもする。カエタヌスよりも前に比例のアナロギについて言及している論者としては、トマス・サットン(ドミニコ会士、14世紀)がいるとされる。また15世紀のトマス・クラクストン(ドミニコ会士)も挙げられている。

さらに、カエタヌスの論に対する反応としては、ドミンゴ・デ・ソト(16世紀)が比例のアナロギアをさらに下位区分し、フランシスコ・デ・トレドもその説を踏襲しているほか、イエズス会のフランシスコ・スアレスがそのアナロギアにメタファーが含まれるという観点を認めているという。ペドロ・ダ・フォンセカはそれが帰属のアナロギアと結びつくと主張し、さらにアナロギアの議論の集大成をなした人物としてアントニオ・ルビオ(16世紀末から17世紀)の名が挙げられている。

人間の創造性(という軸線)

前回のエントリーの末尾で触れた、「人間による創造」云々というあたりに、なにやら個人的にこだわってしかるべきポイントを強く感じている(苦笑)。「人間の創造性」についての系譜というのも、思想史的に追いかけ甲斐のあるテーマという気がする。この関連でまず思い出したのは、クザーヌスの『推測について』。前に触れたように、これの仏訳版の解説によると、そこでのクザーヌスは、人間のある種の創造性・豊穣性を前面に押し出しているとのことだった。そういう側面からクザーヌスを読もうと思いつつ、今年はちょっと時間が取れなかった。これは来年の課題の一つ。

Richard De Mediavilla: Questions Disputees: Questions 1-8 Le Premier Principe-L'individuation (Bibliotheque Scolastique)けれども、それとはまた別筋での注目株なのだけれど(とはいえ、これはまだほんのちょっと冒頭を囓りかけただけなのだけれど)、13世紀のメディアヴィラのリカルドゥス(従来はミドルトンのリカルドゥスと称されていた人物)の『討議問題集』も、そうした人間の創造性という文脈において興味深いものがありそうだ。同書は羅仏対訳が6巻本で刊行されている(Richard De Mediavilla: Questions Disputées: Questions 1-8 Le Premier Principe-L’individuation (Bibliotheque Scolastique), trad. Alain Boureau, Les Belles Lettres, 2012)。メディアヴィラのリカルドゥスはペトルス・ヨハネス・オリヴィの同時代人で、同じくフランシスコ会士。第一巻冒頭の全体解説によれば、オリヴィの著書の審査を担当するフランシスコ会の委員会に所属したりもしていたという。本人もまた実体的形相の複数性などを支持する立場を取り、また興味深い点として、「可能性」を論理的カテゴリーや様態としてではなく、存在の次元として考察を加えているのだとか。そこから、厳密な自然主義と、理性的存在の自由を説く思想が展開するのだという。さらには粒子的人間論(それがどんなものかは不明だが)などもあるといい、これはもう読まないわけにはいかん!という感じ。さらに神以外の現実的な無限を認める立場でもあるという(これは数学的議論が絡んでいるらしい)。なんだか年明けでもないのに、年頭の所信表明みたいになってしまうが、ぜひこれは読み進めたい。

魂と物体(アヴィセンナの場合)

中世イスラムにおける心身問題(霊魂と身体の結びつき問題)に、ちょっと変わった角度からアプローチしている論考を見かけたので読んでみた。扱われているのはアヴィセンナ。ヤシン・R・バシャラン「アヴィセンナによる霊魂の物体操作力」(Yasin Ramazan Başaran, Avicenna on the Soul’s Power to Manipulate Material Objects, Eskiyeni, vol 30, 2015 )。「これって超能力話?」とか思ってしまうけれど(笑)、要は、霊魂が離在的に物質に働きかけることができるかという問題を、アヴィセンナがどう捉えていたか検証する論考。基本を押さえたストレートな論文という印象。前半は先行研究からの関連箇所をまとめていて、グタス、グッドマン、ドリュアールなどの研究から、そうした離在的な働きかけについて考えるアヴィセンナの諸前提を抽出している。

アヴィセンナの場合は流出論が基本で、上位のものは下位のものに原則働きかけることができる。したがって魂は物質(身体を含めて)に働きかけることができることになる(心身問題的に、魂が身体にどう結びついているかという点は不可知とされるものの、その結びつきは基本的にどうでもよくて(偶有的なことだとされる)、要は前者が後者を動かすことができればよい。身体が必要とされるのは、上位の知性界の上下関係の構造を物質世界に再現するためとされる)。魂にもとからある自由意志が行使される際には、上位の知性が参照され(それが魂に刻まれ)、自然の因果関係を踏み越えて物質に働きかけることができるとされる。ただ、魂のそうした自由意志力の強度、密度は人それぞれなので、物質への働きかけがもとよりできる人(預言者など)もいれば、なにがしかの訓練を経なければできない人(一般人)もいる……。いずれにせよ、魂と物質が存在論的に異なっているということと、コスモロジカルな構造が地上世界にも刻まれることが基本的な要件のようだ。

そうしたことを前提に、後半では、アヴィセンナ後期の書の一つとされる『所見と勧告』の第10巻(超自然な出来事について述べている部分)を取り上げて、超自然的な現象についての議論を紹介している。そこでは、超自然的な現象が可能になるケースは三つに分類されているという。一つめが主体に自然の能力としてそうした現象を起こす力が備わる場合(預言者の場合や、たとえばにらみつけるだけで呪いをかけられるという凶眼、魔術などがこれに分類される)、二つめが自然の産物の属性による場合(磁石の働きや、ある種の呪術的効果など)、三つめが天空の力、地上世界の物体、魂などの諸関係によって生じる場合(護符の作用など)。この後半部分の論述は物足りない気がするが、全体としては今後の研究を期待させる感触あり(かな)。

改めてポンポナッツィを読む

Traite De L'immortalite De L'ame Tractatus De Immortalitate Animae (Classiques De L'humanisme)思うところあって、ポンポナッツィをちゃんと見ておこうかと思っている。で、2012年刊行の羅仏対訳本で『霊魂不滅論』(Traite De L’immortalite De L’ame Tractatus De Immortalitate Animae (Classiques De L’humanisme), trad. Thierry Gontier, Les Belles Lettres, 2012)を見ているところ。校注本のよくあるパターンだけれど、これも例によって、訳・解説・校注者のティエリー・ゴンティエによる冒頭の解説序文が結構面白い。霊魂可滅論の重要な論拠になっているのは、アリストテレス『霊魂論』から引かれた一節にもとづく推論。「知解が想像力(phantasma)であるなら、または想像力を伴わずにいないなら、魂は離在することはできない」(大前提)、「魂は想像力なしでは何も知解しない(魂は像なしでは知解しない)」(小前提)。これにスコラ学の伝統から、操作(知解という)の依存関係が存在(知性)の依存関係を導くことを認めるなら、知解は想像力が必要であり、したがって(知的)魂は肉体から分離して存在できない、という結論が導かれるという。ポンポナッツィは、アヴェロエスの誤謬がこの大前提の<または>を<および>と取り違えていることにあるとし、またトマス・アクィナスの誤謬は小前提に関わっている(想像力なしで、という部分の意味論的な広がりを誤解しているのだという)と見ているらしい。解説では、アヴェロエスとトマスがポンポナッツィの対話相手(論敵)だと見ているわけなのだが、具体的な批判部分は細かな検証に値するようで、解説序文著者のゴンティエはこの点にこだわって論を進めている。

また、興味深いのは、ポンポナッツィの手にかかると、アフロディシアスのアレクサンドロスもまた批判の対象に据えられているという点。『霊魂不滅論』でのアレクサンドロスへの言及はごくわずかで、しかもアレクサンドロスを「霊魂の可滅性を説く他の哲学者の一人」にすぎないという扱いだといい、フィチーノなどが、アリストテレス主義の世界はアレクサンドロス派とアヴェロエス派に分かれるとぶち上げたのとはずいぶん趣を異にしている。可滅論ってそんなにいたっけかなあ、という感じなのだが……うーん、このあたりをもっと拾い集めてみるべきなのかも。

さらにこれも関連する一篇だが、ジョン・セラーズ「知性に関するポンポナッツィのアヴェロエス批判」(John Sellars, Pomponazzi contra Averroes on the Intellect, British Journal for the History of Philosophy, 2015)という比較的新しい論考も、要領よくまとまっていて参考になる。基本的にアリストテレスの注釈者たちについての概観と、ポンポナッツィの中心的議論、さらにより現代的な視点からのアリストテレス解釈などを紹介している。ポンポナッツィの議論そのものとしては、人間的理性が魂の不死を論証するのは不可能だというのが基本スタンスだといい、また、知性を実体として考えるのではなく、あくまで魂の一機能にすぎないという捉え方をしている点が特徴的だと指摘している。

実在論的表象主義?

久々にトマス・アクィナスについての長めの論考をざっと見てみた。サンドロ・ドノフリオ『表象主義者としてのアクィナス:可知的形象の存在論」(Sandro R. D’Onofrio, Aquinas as Representationalist: The Ontology of the Species Intelligibilis, State University of New York, Department of Philosophy, 2008)というもの。学位請求論文。認識論に関するものなのだけれど、トマスを直接的実在論者であるとする従来の見方に対して、その可知的形象(知的スペキエス)論が、むしろ実在論的な表象主義に合致するのではないか、という仮説を展開している。直接的実在論というのは、知覚される対象とは外部に存在する事象に他ならず、その間に余分な中間物を設定しない、という立場だ。一般にオッカムなどがそうした立場だとされるが、トマスもまた、スペキエスという介在物を仮構するとはいえ、知解に際して把握されるのはそうしたスペキエスではなく、外的事象の本質そのものだという考え方だとされていて、この直接的実在論の範疇に入る、ということのようだ。一方、実在論的表象主義とは、知覚された観念が、外部の事象を指し示しその性質を写し取りながらも、存在論的には外部の事象とは別物となるという立場を言い、この論文著者は、トマスの立場はむしろこちらにフィットするのではないか、という仮説を立てている。なにやら一見細かい議論だが、これはスペキエスの在り方をめぐる議論、ひいては認識論の構図全体にも影響しそうな議論になっている。

ここで賭されているのは、スペキエスは実体的・偶有的な形相(個別的な)を写し取るものかどうかという点だ。もしそうなら、それは介在物としてのステータスに止まる。だがそうでなく、スペキエスが外的事象の本質的な「構造」を伝えるのだとしたら、それは単なる介在物ではなく、精神にそうした「構造」を再現させるものということになる。すると、認識論的にはそのスペキエスは外的事象と同一だが、存在論的には厳密に外部事象と別物ということになる……というわけなのだが、さて、ではトマスのスペキエス論はどちら寄りなのか……?トマスは確かに、複合体の中にある原因的な形相と、知解の原理である本質としての形相(スペキエス)を区別してはいたと思うが、論者が言うようにそれらを存在論的にまったく別ものと見なしていたのかと問われれば、それは至極微妙な問題かもしれない。また、論者みずからが述べているように、この義論はどちらかといえば研究者たちの議論を突き合わせ、その間隙を埋めようとすることに主眼が置かれていて、必ずしもトマスのテキスト解釈にもとづいて立てられているのではないようで(?)、大胆ではあるけれどその点がやや気がかりでもある。とはいえ、問題提起としてはそれなりに面白いのではないかという気もしている。