ロリ・A・ウッズ『修道院制度と医術:500年から1100年までの治療行為におけるジェンダー的活動』(Lori A. Woods, “Monasticism and medicine: Gendered activities in healing practices, 500-1100”, University of Calgary, 1998)という修士論文を眺めているところ。聖人伝などのテキストをもとに、初期中世のいわゆる治療師(ヒーラー)について多面的にまとめたもののよう。まだ最初の章を見ただけだけれど、なかなか面白そう。冒頭では、序論ということで、まず13世紀後半ごろの盛期の医学状況に簡単に触れている。当時は大学での医学が制度として確立されつつある頃で、そのため、それまで医療を担っていた修道院や民間の女性の治療師が徐々に迫害されていく途上にあったという。その一例として、アルマニアのジャコバ・フェリシ(Jacoba Felicie de Almania)という女性治療師の裁判(1322年、パリ)が挙げられている。1271年の法律により、外科医、薬剤師、薬草商などが処方することなどは禁じられていたものの、この人物はそうした治療行為を行った廉で告発されたという。記録からは、民間人だったジャコバの治療は成功例も多く、経験的な知識に根ざしたその知見もかなり精緻なもので、病気の診断に採尿まで行っていたという。彼女が体現していたとされる知識の根っこは、ギリシア・ローマ時代からの伝統と西欧独自に展開した薬学・薬草の知識、さらにはより新しいスコラ学ベースの自然学。ジャコバが適用しなかったのは、せいぜい医療占星術的な知と、四大体液の理論くらいだったという。結局、教会から破門宣告を受けることになってしまうというが、まさに制度と個人とのせめぎ合いの一例だ。しかも著者はそこに、ジェンダー的な視点も入れている。女性が正規の学問的医術にアクセスするのは難しかったものの、それまで伝統的に教会で治療行為を担っていたのは女性だという事実もあったという。こうして著者は、いよいよそれ以前の治療師(主に女性の)の記録として聖人伝を読むという、なかなか大胆な(?)探求に乗り出すことになる……。そちらも面白そうだが、この13、14世紀ごろの治療師の裁判記録というのもとても気になる。モノグラフを探してみようかしら。
スイユ社から三巻本で出ているロシュディ・ラシド編『アラビア科学史』の第一巻(“Histore des sciences arabes”, dir. Roshdi Rashed, Seuil, 1997)を囓り読みしているところ。三巻の構成は、第一巻が天文学、第二巻が数学・自然学、第三巻が技術・化学・生物学となっているけれど、記述の上では当然多少他分野も重なってくる。というわけで第一巻。複数の著者による論集の体裁を取っており、概説書などよりはずいぶん細かい歴史記述が続き、いろいろと勉強になって楽しい。知らない固有名詞や文献がふんだんに登場し、久々に心地よく混乱する(笑)。中盤すぎまでの各論考は東方のアラブ世界における天文学の発達史。当然と言ってしまえばそれまでだけれど、イスラム以前のアラブ世界が、なによりもまずインドの天文学を受け入れ、その後でギリシアの学知を受け入れていったといったあたりが興味深い。学知の対外的な受容とそれに続く独自展開は、古くからいつも繰り返される事象なのだ、と。
とりあえず個人的に関心があるのは前半。ドリス・ルーエ「中世の占い、理論と実践」(Doris Ruhe, ‘La Divination au Moyen Âge – théories et pratiques’)は、中世の代表的な文献を通じて、教養層(神学者)と大衆のいずれについても未来の予言について関心が深く、占星術も一般化していたことを改めて論じている。西欧の場合、マルティアヌス・カペラの「メルクリウスとフィロロギアの結婚」の影響のせいで占星術(=天文学)は詩的・寓意的な側面が強かったといい、「アルマゲスト」などをもとに数学的な面の教育が主流となるのは13世紀後半からだという。代表的なものとして挙げられているのは、サクラボスコのヨハネス「天球について」、ジョヴァンニ・カンポ・デ・ノヴァラ「天文学の鑑」、サン=クルーのギヨーム「王妃の暦」、メスのゴスアン「世界の像」、さらに逸名ものとして「天文学入門」「シドラックの書」などなど。うーむ、どれも面白そうだなあ。ちなみにこの「シドラック(インド人の意)の書」は、前半の最後にエルネストペーター・ルーエという人が詳しい論文を寄せている。
また、個人的に眼を惹かれたのがアレッサンドロ・ヴィターレ・ブルアローネ「予言者が正しいとき – 長い伝統」(Alessandro Vitale Brouarone, ‘Quand le prohète a raison – une longue tradition’)の一節。セム系の預言者の特徴が、未来予知というよりも、深い洞察力にあるとされるのは、セム語の時制が過去、現在、未来を基本的に区別せず、むしろ完了か進行中かの相だけを問題することと関係しているのでは、としている。なるほど、これは面白い着眼点(笑)。論考そのものは、予言に否定的だったキケロから、キリスト教での預言解釈(ペトルス・ダミアニが引かれている)を経て、後にそれが風刺詩などの対象になるまでを俎上にのせ、特にこの最後の、世俗化していく中での予言者像が、揶揄と批判との狭間で揺れ動いている様を示してみせている。