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【要約】アリストテレスの音楽教育論 2

Politics (Loeb Classical Library)様々な種類の音楽によって、人の魂はなんらかの熱意をかき立てられる、とアリストテレスは言う。その最たるものは、ミメーシスの場合だ(情感をなぞった音楽、ということか)(1340a.13)。音楽は快をもたらし、徳は快や愛憎をめぐるものなのであるから、判断の正しさとか性格や行為の善良さとかよりも、そちらをこそ学ぶべきなのだ、とされる(1340a.15)。ここでは音楽が、徳性の基礎に関わっていることが示唆されている。続いてアリストテレスは、リズムや旋律には猛々しさや穏やかさ、勇ましさや中庸さなど、相反する性格の表象が含まれるし(1340a.18)、実際にそうした情感を感じるときに近い追体験をもたらす、と記している(1340a.23)。

要は、視覚芸術などと違って、音楽の場合にはそれ自体の中に、性格の再現が含まれているということだ(1340a.39)。旋律一つとってみても、そこには喚起される情感の異なるいくつかの種類(旋法)があり、悲しげで抑制的なミクソリディア、より穏やかで落ち着いたドリア、より熱意を喚起するフリギアなどがある(1340b.1)。リズムについても、より落ち着いたものもあれば、より情感的なものもあり、この後者はよく知られたものや、より自由なものに分かれる(1340b.8)。

このように音楽がある種の情感をもたらすのは明らかなのだから、子供を音楽へと促し、音楽教育を施す必要は明白である(1340b.12)とアリストテレスは言う。そしてまた、その教育も若者の性質に適したものとしなければならない(1340b.14)、若者の年代は、なんらかの口当たりの良さがないものを受け付けないが、音楽はもとよりそうした快を含んでいるものなのだ、とされる。ここから次に(ここから第6章)、具体的な教育の方法などへと話が展開していく。(続く)

【要約】アリストテレスの音楽教育論 (1)

『理想』のアリストテレス特集号(理想 第696号 特集 アリストテレス―その伝統と刷新、理想社、2016)にざっと眼を通してみた。注目のトピック(流行の?)としては「無抑制(アクラシア)論」などがあるようだけれど、個人的には立花幸司「哲学業界における二つの不在−−アリストテレスと現代の教育哲学」という論考が気になった。これによると、アリストテレスにはまとまった教育論のような著作がないせいか、その教育哲学をめぐる研究もまたさほどなされてはこなかったのだという。うーむ。でも、個人的には、つい先日まで読んでいた『政治学』の末尾部分など、なかなか面白いように思われたのだけれど……。というわけで、ふと思い立ったので、その末尾部分の中心をなす音楽教育についての話を何回かにわけて要約してみることにする。『政治学』第8巻第4章の中程からだ。

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アリストテレスはまず、目的がはっきりしている読み書きや体育とは異なり、音楽の場合、なぜにそれを、とりわけその演奏を学ぶのかが問題になると指摘する。それがどのような潜在性(δύναμις)をもっているのか、睡眠や泥酔のときのような安楽と休息のためなのか、それとも音楽にはなんらかの徳性をもたらすことができるのか、が問われる(1339a.11)。この設問に、アリストテレスはまず一般論的な見地から、学ぶことというのは本来安楽ではなく苦しいものだと述べ、楽しみの追求は不完全な存在である子供らに知的な快楽を与えるのは適当ではないと自答している。ではなにゆえに音楽の演奏技術を(他人が演奏する音楽を楽しむのではなく)学ぶのか(1339b.6)。

(ここから第5章)この問題にアプローチすべく、アリストテレスは、音楽というものがそもそも教育に含められるべきなのかどうか、音楽は教育、遊び、娯楽のうちのどの利用において効果的か、を問うていく。ありうべき解答の一つとして、まず音楽は最も喜びをもたらすものの一つに数えられるのだから、そのことをもってしても、音楽は子供の教育に含められてしかるべきだ、という議論が取り上げられる。喜びは最終的な目標(教育の?)にも適合するが、安楽の獲得にも適合する(1339b.25)。そのためこの安楽のほうに、人は流されていきやすい。喜びそのものが目的化してしまう、あるいは最終的な目標がもたらす快(それは将来的な快だ)と、その刹那的な喜び(それは苦役などの過去的なものから反動的に生じる快だ)とを取り違えてしまう(1339b.32)。ここでのアリストテレスはそうした喜びによる議論に否定的に見える。

けれども音楽の場合には、単にそれだけにとどまらない。演奏もまた安楽をもたらす源となるからだ(1339b.40)。その場合の快は、そうした苦役からの解放といった意味での快にとどまらず、別様の快、人の性格(エートス)や魂にまで影響する快でもありうる(1340a.6)。音楽はそれを学ぶ者に、そうした影響力をもちうるのではないか、と。こうしてアリストテレスの分析は、ここから音楽がもたらす心的作用のほうへと移っていく。(続く)

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 9 – 10

とりあえず、ヘルメス選集XVIII章冒頭の「音楽の喩え」部分から、末尾を訳出しておく。その後の部分は次のようなかたちで神の称賛が続く。まず神は発芽や実りをもたらす太陽に喩えられ、次いで今度は父親に喩えられる。子供たちをあえて褒め称えることはしないが、子供たちの努力を静かに見守る存在だというわけだ。その後はさらに子供に相当する諸王による平定が讃えられ、王の名前がその象徴をなしているとされる。ここまでで16節。で、この章の結論部分は欠損。

9. したがって演奏家は、万物の神たるこの上なく偉大な王のほうを向くがよい。その神は常に不死であり、永遠であり、永劫の昔からすべてを司り、第一の勝利の覇者であって、そこから、勝利を受け取る後続の者たちすべての勝利がもたらされるのである……。

10. したがって、そうした称賛をもってして、言葉は私たちのもとへと降りてくるよう促されるのであり、共通の安全や平和のための諸王の統治へと捧げられるのだ。それらの王には、かつて最上位の神によって最大級の権威が付され、また神の右手の側から勝利が与えられ、あらかじめ審判も下り、戦の前から褒美も準備され、その勝利の記念は乱戦の前から建てられ、王になることのみならず最上の勇者たることも定められ、彼らは軍事行動にいたる前から野蛮人たちを恐れおののかすのである。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 7 – 8

前にも触れたけれど、このXVIII章は基本的に王(ならびに最高位の神)を讃えることがメインモチーフとなっている。それが徐々に前面に出てくるのはこの7節以降から。

7. これはまた、私が自分が被ると感じるところのものである。いと高き方々よ。というのも、まさに今しがた私は自分の弱さを認め、少し前には自分が病弱であると感じていたが、より上位にある方の力によって、王のための歌を仕上げ、歌うことができそうだからだ。したがって、助力によって行き着く果てには諸王の栄光があるのであり、その記念碑からこそ私の言葉の熱意が生じるのである。では先に進もう。それが音楽家の望みなのだから。では急ごう。それが音楽家の意志なのだし、そのためにリュラを調弦したのだから。かくして、与えられた指示がよりよい音を求めるほどに、より甘美な調べを歌い、より心地よい曲を演奏するようになるのだから。

8. 諸王のためにこそ、音楽家はリュラを調弦し、讃える音型を用い、王からの賛辞を目的とするのである。まずはあらゆるものの最高位の王、すなわち善なる神のためにみずからを奮い立たせるのだ。歌はまず高みから始め、神の似姿において支配権をもつ第二の層へと下っていく。というのも、諸王にとってお気に入りであるのは、歌が高みから順に階層を下っていき、彼らに勝利がもたらされたその場所から、継承される希望が導かれることだからだ。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 4 – 6

ヘルメス選集のXVIII章の続き。道具(すなわち身体、物質的なもの)には偶発的な事象がつきもので、だから不安定なのだとし、それが貶められるほどに精神への賛美が高まるというこの一節、まさに西欧世界の思想の根源を見る思いがする……(苦笑)。と同時に、その精神を支配者たる神が助けるという構図も示されている。うち捨てられる道具とつねに上方へと引き上げられる精神の二項対立。

4. 仮に彫刻家のフェイディアスが用いる素材が、作品の完全な多様性にそぐわないなら[……欠落……]歌い手があたう限り全うしようとしても、私たちは原因をその歌い手に帰すわけではなく、無力な弦を咎めるのであり、というのも張力をわずかに弱めたばかりに、張力をたるませたために、甘美な歌のリズムを損なったからである。

5. だが、楽器について偶発的事故が生じても、誰も歌い手を非難しはしないだろう。ただ、楽器が悪く言われるほどに、しばしば弦がちょうどの音程で弾かれるときには、歌い手の栄誉は高まっていくのだった。[欠落]聴衆も、より大きな称賛をその歌い手に送り、その者にほとんど不平など抱かなくなる。そのように、あなたがた高貴な人々もまた、内面の竪琴を歌い手に合わせてごらんなさい。

6. けれども、巧者の中には、竪琴の作用がなくとも、高貴な調べの準備ができていれば、しばしばおのれ自身を楽器のように使い、密かな方法でもって弦の調子を合わせ、必要に応じた調べを荘厳に奏でて、聴衆をたいそう驚かせてみせる者がいることも見て取れる。歌を司る神の寵愛を受けていたあるキタラ弾きの歌い手などは、あるときコンテストで弾き語りをしていると弦が切れ、競技が続けられなくなったが、支配者の采配によって切れた弦が補われ、名声を得るよう恩寵が与えられたと言われている。というのは、弦の代わりに蝉が、支配者の采配によりそこに止まり、メロディを補完し、その場を収めたからである。そのためキタラ弾きは、弦にほどこされた治療により苦痛を癒され、勝利の栄誉を勝ち取ったのだ。