「日曜哲学」カテゴリーアーカイブ

破壊的可塑性

新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考えるカトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳、河出書房新社、2016)を見ているところ。とりあえず、冒頭部分の第一部。マラブーの本は、以前ちょっとだけ読んだことがあるけれど、脳がもつ可塑性という概念を、どこか形態的なもの(神経系の再編など)から機能的なもの(心的機能)へと話をすり替えるような議論で、しかもそれをなにか新たな可能性の発現としてのみ解釈している感じで、正直ちょっと抵抗を覚えたものだった。それからずいぶん経って、その解釈(その書きっぷりも)が大きく変化していることを知る。アルツハイマー症による人格の激変(著者の祖母だという)を間近で見たというのがモチーフの一つになっているようなのだが、そのような「別の誰かになってしまう」という現象の存在を、外傷による人格の変化などの事例と合わせ、内的・外的原因の区別をいったん取り払って、両者を同じ分類で俎上に載せるというのが、同書の特徴的な出発点だ。両者は「破壊的可塑性」と著者が呼ぶ概念で括られる。そこから、脳科学、認知論、精神分析などの諸要素について新たな読み替えを提唱する、という戦略のようだ。

ここでの可塑性はリハビリなどで発現する形態的・機能的な組み替えなどではなく、まさに破壊による急激な、突発的な変容。その状態から「脳の苦痛」の表現が発せられているのではないかという。たとえば認知症患者には、一種の退行現象が見られるとされるのが一般的だけれど、著者によると、それは世間的によく言われるような「子供への回帰」ではない。幼年期に帰ったように見えて、それは患者本来のものではない幼年期、生きられるはずのない幼年期でしかないと著者は言う。なるほど、認知症の患者に対して、発症前との連続的な相を重視して接するというのが現行のケアの基本になっているが、ここではそれにあえて、徹底的に断絶の相を導入し、そこから見ようとしているところがとても共感できる。とくに親族など、過去の患者を知る者がその患者に接する実地体験からすると、この断絶の相を無視することはできない。患者は端的に、過去から切り離されているように見えるからだ。ここでの議論では、むしろその断絶の相を重視することで、新たな解釈(および治療?)の可能性を見いだせないかと問うている。また、脳損傷における脳の自己触発という考え方も興味深い。破壊を触発するものが脳みずからの内部に潜んでいること、なにがしかの内的力学の達成を、損傷後の患者の振るまいが語ってはいないか、という問いかけだ。かつて神経科学的に否定されたフロイトの「死の衝動」議論を、別様に復権できるかもしれない可能性が示唆されている。

ハイブリッド倫理学へ

技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)これまたざっと前半を見ただけだが、なかなかの好著。ピーター=ポール・フェルベーク『技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)』(鈴木俊洋訳、法政大学出版局、2016)。原著は2011年刊。著者はオランダの技術哲学者とのこと。技術哲学と倫理学の結合を目論むというもので、ここでも人間とモノを一体・ハイブリッドとして捉え、それを倫理(道徳性)の主体もしくは担い手として据えようと提唱している。というわけで、これもまた一種のマニフェスト本だ。けれどもその筆致はとても手堅く、安易に横滑りなどはしていかない。それが好印象をもたらしている。主要な着想源の一つにはラトゥール(「道徳性は事物にも宿る」)があり、さらにポスト現象学もある(主客の二分法からの脱却)。技術が媒介的な存在であるとする点で、先に挙げた昨今の実在論などからすれば媒介主義的ということになってしまうのかもしれないが(現象学がベースにあることからしてもそう)、全体的な流れとしては、そうした主客の二分法を逃れ、技術的産物と人間とが渾然一体となった世界観を提示し、そこから再び倫理学を再構築しようとしているあたり、ある種同じ方向性を向いている(旧来の学知から同じように距離を取っている)ように思われる。

で、そうしたハイブリッドの考え方を突き進めていくと、当然ながら従来の諸概念の解釈にも様々な変更が必要になってくる。まさしくそこが読みどころ、考えどころという感じだ。同書の議論の途上では、たとえば「自由」の再定義が提案されている。自由とは任意の規定から逃れるということなどではなく、「自分を決定づけているものに対して関与する能力」(p.106)であるとされている。人間の「実存の居場所」において、「物質的文化によって実存が共形成される仕方に関わる」(同)ことだというわけだ。このスタンスはまた、フーコーの議論を敷衍したものであることが、第4章で克明に示されている。

ホワイトヘッドと「思弁的実在論」

モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何かこれも最近出たばかりのスティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』(上野俊哉訳、河出書房新社、2016)。前回のエントリと同じく実在論ものではあるのだけれど、こちらは例の「思弁的実在論」がらみの話。先のドレイファス&テイラーの本が、主体と客体のはざまの問題を取り上げ、前概念的なレイヤーを考えるところにとどまっているのに対して、シャヴィロはメイヤスーやハートマンなどと並んで、ホワイトヘッドとダシに、はるかに先にまで行き着く思弁的実在論の擁護を試みる。ま、それが成功しているかどうかはまた別の話なのだけれど。

主体・客体のような二分割は、当然ながら人間とそれ以外といった分割に重なり、結果的に人間中心主義になるわけなのだけれど、ここでの基本スタンスはその中心をずらしていって、結局どこにも中心はないというところにまで行く。果てはモノそのもの(生物と非生物の垣根も取っ払われて)にある種の主体性、内面性、あるいは外部とのやり取りを認めるところにまでいく。一見して、これがIoTなどの概念を先取り(後追いかもしれない?)して敷衍していることがわかる。けれどもそのような議論の文脈で取り上げられているホワイトヘッドの「モノ」の議論は、それとはだいぶズレている印象なのだが……。個と全体とのコスモロジカルな連関を主眼に据えている(トップダウン的に?)ように見えるホワイトヘッド(個人的に読み囓り程度なので、もしかしたら違うのかもしれないけれど)に対して、思弁的実在論のほうは「モノが他のモノを対象として扱う」というような言い方で、インタラクションのレイヤーを考えようとしている、というか、そういうレイヤーを考えたいとの希望をひたすら語っている印象を受ける(ボトムアップ的に?)。けれども、これはどうなのか。やはりそういうインタラクションは、どこか有機体と無機物との複合体のような状況でしか考えられないのではないか、結果的に有機・無機の二分法は温存されてしまうしかないのではないか(個人的にはシモンドンあたりもそんなふうだったと思うのだが)、仮に無機物が有機体を誘うというアフォーダンス的な面があるのだとしても、だからといって無機物は真に主体化できるのか、モノ対モノの(モノが対象であると同時に主体にもなる)一元論的な関係に帰着させることには無理があるのではないか……などなど、多少とも古いタイプの読み手としては、そのあたりの思考回路から出られず、どこか遠い目でそうした議論を見ているしかないのだけれど……。

うーん、それにしてもここではホワイトヘッドが本当にダシでしかないのもちょっとなあ……(笑)。というわけで、個人的にはホワイトヘッドを改めてちゃんと読もうかと思っているところ。

宗教と哲学の構え方?

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)思うところあって、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)』(桝田啓三郎訳、岩波書店、1969 – 2016)を読み始める(気分はもう夏読書という感じではある)。早速ながら、この第二章がなかなかよい。大上段に構えた「宗教の本質」といった抽象概念から話を進めるのではなく、ボトムアップ的に「宗教的感情」というものを個別のケースから分析していこうとしている、その姿勢にまず共感する。そこから、考察の対象に据えるのはあくまで個人的宗教で、制度的なものではないというスタンスが浮かび上がる。神的なものを感じるという内的体験はどこから来るのか、どのような精神状態がもたらすのかという問題をめぐって考察が展開することが、ここで宣言されているわけなのだけれど、ジェイムズはさしあたりここではそれを「宇宙を受け容れる仕方」と規定し、その際のありようを、ストア派の哲学者とキリスト教の聖者でもって対比してみせている。前者の代表とされるのはマルクス・アウレリウスで、その受け容れ方は「冷たい」「情熱と歓喜がない」とされる。一方の後者は、『ドイツ神学』なる文書の14世紀の逸名著者に託されている。そちらは「高級な感情の興奮をもって」(「熱く」?)受け容れるとされている。その差異は、前者が神の計画(宇宙のありよう)への同意、後者が神の計画との合致呼応だとジェイムズはまとめてみせる。うーん、だけれど個人的には、マルクス・アウレリウスの構え方にも、抑制されてはいるのかもしれないが、どこか沸々とした熱いものが感じられないわけでもないと思われるのだが……。確かに、表出の違いはあるだろうし、受け容れに際しての感覚の巻き込みをどれほど伴うのか、という点の違いもあるのかもしれないが、その「熱いか冷たいか」というテーマ系自体にも、内実を開いて細やかな分析を施すことができそうにも思える。また、そうした感情の巻き込みがどこから生じるのかという、よりストレートな問題設定も当然ありうるだろう。そんなことをツラツラ思いつつ、次の章へ……。

デジタルとアナログの接合

ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)小泉義之『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)』(講談社、2015)をKindle版で。もとは2000年に出た新書。今回の講談社学術文庫版では、数学的経験の哲学がよかった近藤和敬氏が解説を書いているのだけれど、これが前半部分の中核部分、つまり数学的な事象をめぐる考察のよいまとめになっている。これだけ読んでもよいくらいな感じ(笑)。小泉氏が読み解くドゥルーズの数学がらみの議論のアウトラインはこんな感じか。ごくわずかな差異を生み出す大元として、ドゥルーズは微分方程式を念頭に置くわけだけれど、現実世界においては、微分方程式を積分して特定の解が得られるような事象はまず「ない」。現実問題としての微分方程式は「解けない」のであって、それを解こうとするには場合分けをして変数を相当に絞り込んで限定しなければならない(コンピュータシミュレーションの世界だ)。けれどもそうした操作とは別に現実世界の事物は実際に存在する。で、ドゥルーズは、そのような解けない問題に対して自然は、生命は、なんらかの不可知的な様態で答えを出している(答えを出すプロセスは全体としてたたみこまれている)と見ている……というわけなのだけれど、ここに少なからず誤解の芽というか、ある種の倒錯、突き合わせの無理があるようにも思われる。数学はおびただしい現実的要素を捨象して成り立っているわけだけれど、それを反転させて、そちらから現実世界を導くのはほぼ不可能(捨象した現実的要素の全貌は計り知れないから)であり、その意味で数学と現実世界はどちらも相互に異質なものであるほかなく、比喩として用いるのでもない限り、もとよりそのままでは接合しえない……。確かにドゥルーズは数的なもの、微分的なものと称して、これをどこか比喩的に処理しているきらいがある。けれども、それにしても人為的に作り込んでいるものから現実世界を再構成できるというのはその人為性ゆえに無理があるだろうし、単にデジタルなものとアナログなものとの接合が問題なのだとしても、これだけ異質なもの同士(微分方程式と生物)を持ち出してくると、後者が前者をたたみこんでいるという仮説の有効性も判然としない(判然としようがないのでは、という気もする)。

もし生物学を持ち出してくるのであれば、たとえば先に挙げたアリストテレス的現代形而上学所収の、ストール・マコール「生命の起源と生命の定義」などのように、異質ではあってもなんらかの共通基盤が見いだせる層において、デジタルとアナログの接合問題を考えるほうが生産的に思えてくる。同論考では、原生動物の一つラッパムシが切断されても自己再生・再構成することに関して、DNAの関与とは別に、縞模様のパターン(動的な4Dパターン)が時空間的に決定されていて、それにしたがって制御されている可能性、もしくは仮説を取り上げている。DNAが離散的(デジタル的)だとすれば、そのパターンのほうはアナログ的で、あくまで前者を補完する関係にあるとされている。しかも予めそのパターンが厳密に決まっているというのでもなく、置かれた時空間の中で動的に作動するというモデルを考えているようだ。これなどはまさに上のドゥルーズ論で言う「転倒したプラトニズム」を堅実に捉えているかのようだ。なるほど確かにドゥルーズはなんらかの点で先進性を見せてはいる(あるいはそれを読む小泉氏も)だろうけれど、それはそれとして、より細やかに、こうした個別の探求や議論でもって補完されていくべきものなのかもしれない……。