「日曜哲学」カテゴリーアーカイブ

存在論の前線

アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)トゥオマス・E・タフコ編『アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)』(加地大介ほか訳、春秋社、2015)を読んでいるところ。とりあえずざっと3分の2ほど。アリストテレス的な形而上学の現代的な刷新をテーマに編んだ論集で、各章を構成する論文の数々は、どれも結構読ませる。各議論の全体的な基調をなしているのは、E.J.ロウが提唱する四カテゴリー存在論。アリストテレス的な分類を同じ精神でもって刷新したものということで、アリストテレスの一〇のカテゴリーに代えて、四つ(実体的普遍者、属性(トロープ)、個別的実体、様態)を提唱しているという。これをベースに、その問題点の指摘や修正意見、逆方向の拡張の可能性などを各論者が様々に繰り出していく。というわけで簡単なメモ。

ローゼンクランツ「存在論的カテゴリー」(五章)によれば、形而上学というのは「高い一般性のレベルで存在者が相互にどのような仕方で関係しているかを吟味する」学問とされる。そのため、形而上学は存在論(存在者をカテゴリーに分ける)と宇宙論(秩序を備えた体系としての実在の特徴を記述する)とがありうる。後半のほうにはいくつか宇宙論的な論考もあるようだけれど、やはり論集の比重としては問題の多い前者が焦点となっている。アレクサンダー・バード「種は存在論的に基礎的か」(六章)では、形而上学の試みとは「もし科学の教えが真であるなら、世界はどのようでなくてはならないかを明らかにすること」だと規定されている。上のロウの四カテゴリーに関しては、ジョン・ヘイル「四つのカテゴリーのうちふたつは余分か」(七章)が、普遍者とその属性は実際のところ何を指しているかわからないという根本的な疑問を発していて興味深い。その上で、ウィリアムズのトロープ説(普遍者は個別例の内部にしかなく、抽象的な個別者すなわちトロープにほかならない、とする穏健な実在論)とロウの立場との意外な親近性を指摘していたりする。逆にピーター・サイモンズ「四つのカテゴリー—そしてもっと」(八章)は逆に、カテゴリーを析出するための根拠付け(同著者はこれを因子と称している)を考えていくなら、カテゴリーはもっと多くなければならないのでは、という別の問題を提起している。

ウィリアムズのトロープ説での普遍者は、真に「存在する」と言えるのかという問題があるわけだけれど、それにも関連して、実在しないものの量化を問い直しているのが、ティム・クレイン「存在と量化について考え直す」(三章)。フィクションの登場人物など実在しないものを量化できるのか(つまりsomeなどの量化子をつけて命題にしうるかということ)が基本問題になっているのだけれど、クレインは談話の対象という、存在者を直接意味しない概念を提唱し、それが量化可能なのだと論じている。エリック・オルソン「同一性、量化、数」(四章)は、水などの不可算名詞とされるものも、それをさらに一般化したネバネバ(gunk)のかたまりなどであっても、非同一とみなすことや量化は可能であり、数として数えられる(!)という可能性を指摘している。なにやらこのあたり、なんともいえず面白いのだ(笑)。

空疎なものの空恐ろしさ

明治の表象空間前回のエントリでも触れたけれど、ハイエクは保守というものは本来、内実がない空疎なものだとして一線を画そうとしていたという話だったが、そうした空疎なものは、逆にそこに様々なものが備給されて、いかようにも利用されうるという怖さがある。これも年越し本として読んでいる(まだ半分)、松浦寿輝『明治の表象空間』(新潮社、2014)は、まさに明治時代のそうした空疎な表象の数々を、その成立から分析していて大変興味深い。ちなみにこれは電子本で読んでいる。序章からして、扱われるのは「国体」なるものの空疎さの指摘だ。「外部からの脅威に反応して華々しく立ち騒ぐ過敏なシニフィアン(中略)は、その内包するシニフィエに関するかぎり甚だしく貧弱で、ほとんど無に等しいとさえ言ってもよい」(序章、5.7%)という。ところがそれは、「明治から昭和にかけての日本人の意識を呪術的に拘束してきた」(同、5.8%)。国体は意味のインフレを起こして、「どのような文脈、どのような主張にも奉仕されうるように」(同、5.9%)なっていく。このことを的確に見抜いていたのが北一輝だった、という話が続く。

その後、本論では警察制度、戸籍、刑法などの諸概念が続いていく。そしてこの空疎さについての議論が、天皇が用いる一人称「朕」の特殊性などの話、さらにはその教育勅語の話において再度取り上げられていく。起草者たちは勅語を「現実とは無縁の「空言」であり、またそうでなければならぬ」と考えていたといい、「ただし、「顕教」としての天皇の権威が保たれることこそ明治政府のイデオロギー的基盤である以上、いかなる場合であれその「空」は「至尊」のオーラをたなびかせた言説として組織されなくてはならない」(29章、49.7%)というのだ。「徳目自体は(中略)五倫の徳程度」と、空疎なものだった教育勅語は、一方でそれらの徳目が「「皇祖皇宗」の建立した「深厚い」なる始原の徳の上に基礎づけられることによって初めて存立」するとされ、つまりは「普遍性を特異性に読み替えるというこのトリック」によって、「(中略)特異性の顕現を逆にいよいよ際立たせることに」なったという(以上、30章、51.2%)。まさにそこから、戦前期の教育勅語の意味論的な簒奪なども生じていく……ということか。

中道の政治?

昨年からLoeb版でアリストテレス『政治学』をちびちび読んでいる。統治形態について記した第四章をほぼ終えて、全体の半分ほどにまで来たところ。この第四章はなかなか面白くて、寡頭制と民主制を両極とする軸を考えて、現実世界のさまざまな政治形態はその軸線上に位置づけられると見ている。また、寡頭制も民主制も、そのままではその政治形態の主要な構成者たち(前者なら貴族や裕福な者、後者なら一般大衆や貧しい者)の利益誘導に陥って堕落してしまうとし、理想としては両者の中間層が政治を担う体制が望ましい、としていたりする。民主制を手放しで喜ばず、そこに堕落の契機を見出して、むしろその体制を相対化しようとするところが、まさにアリストテレスの中道思想の真骨頂という感じになっている。

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】で、これに関連して(というわけでもないが)、年越し本の一つとしてハイエク『隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】』(西山千明訳、春秋社、2013)を読んでみた。昨年、ジュンク堂がいったんやめた「自由と民主主義のための必読書50」に入っていたのに、結局フェアの再開時に外されたものの一つが同タイトルで、とても気になっていた。実際に読んでみると、社会主義的な動きの中に全体主義の芽があるとして、計画経済的なものを「集産主義」と括って一蹴している強烈な一冊。返す刀で民主主義が必ずしも理想(ハイエクの言う自由主義)を導くものではないことをも主張する。

ハイエク - 「保守」との訣別 (中公選書)これを読むための参考書として楠茂樹・楠美佐子『ハイエク – 「保守」との訣別 (中公選書)』(中央公論新社、2013)というのも眺めてみたが、ハイエクはやはり、民主主義を絶対視しておらず(そこに全体主義が結びつく可能性があるからだという)、それがハイエクにおいて最も反発を受けている主張の一つなのだという(民主主義によらない自由主義?)。民主主義を相対化しているという意味では、上のアリストテレスの路線にどこか重なるスタンスでもある。レーガン政権やサッチャー政権で盛んに参照されたことなどから、保守派の論客とされてきたハイエクだけれど、本人は保守主義というものは本来、形のないものだと喝破し、そこから一線を画しているという。ハイエクが寄りどろろとするのはあくまで自由主義であり、それは社会主義と保守主義の「中間のどこか」(同書p.206)をなすとしている。これまたすこぶるアリストテレス的だ。

アルゴリズム的惨事とは?

先日のウーギルトの本を見つつ、漠然とだけれど、テロルの潜在性について考えているところ。そんななか、多少の関連はなくもないと想われる、技術哲学系の論考を久々に読んでみた。ユク・フイ「アルゴリズム的惨事—偶発の報復」(Yuk Hui, Algorithmic Catastrophe – the Revenge of Contingency, parrhesia 23, 2015)(PDFはこちら)というもの。現代思想系の論考。 アクシデントには不慮の事故の勃発という「偶発」の意味と、アリストテレス以来の実体(本質が現働化したもの)に対する「偶有」(本質以外の部分)の意味とがある。技術論においては前者の意味が、また形而上学的には後者の意味が、従来は前面に出てきていた。けれどもそれは実際にはときとして交差・錯綜しうる。そのことを技術論の側から検証していくというのが大筋の流れになっている。もちろんこれまでにも、それらの意味を哲学的に考察する論考はいろいろとあった。前者寄りの議論を展開した人物として、たとえばポール・ヴィリリオがいる。ヴィリリオは「技術が引き起こす惨事は、それ自体が技術の進歩をもたらす契機でもあり、惨事は構造的な必然として技術に組み込まれている」みたいなことを言っていた。また、ベルナール・スティグレールが述べていたように、人間の内的機能を外在化する(偶然への抵抗として)という契機が技術、ひいては西欧思想の始まりなのだとするなら、そうした偶発的事象もまた、結果的に技術、そして西欧思想の根幹部分を成していることにもなる。

一方、後者寄りの考察として、論文著者は19世紀末から20世紀初頭のエミール・ブートルーを挙げている。偶然性(contingency)が自然法則に内在し、つねに必然性に挑んでいることを指摘した人物だ(その著作『自然法則の偶然性について』はwikisourceで読める)。同じく論文著者が挙げるハンス・ブルーメンベルクの説によれば、潜在的な偶然性(contingency)の存在論化(つまりは独立化ということ。偶然性が存在から完全に切り離され、偶有として何の法則も担わないものとされたということ)が完成したのは13世紀で、必然性がもはや偶然性を正当化づけなくなり、偶然性は偶発事(accident)と化したのだという(やや誇張された図式的な見方だが)。現代においてそうした偶然性の議論を思弁的思考に適用する著者として、クアンタン・メイヤスーが挙げられている。

で、肝心なのは、両方の接合という話。技術の発展にともない、そこに含まれていた計算的理性はいっそう外在化される。つまりはオートマトン化がいっそう進むということ。同時にそれがまた新たな事故・惨事を引き起こす。これを論文著者はアルゴリズム的惨事と呼ぶ。このいっそうの外在化こそが、自然法則に内在する偶然性にも似て(というか、両者が相互に重なり合う可能性が示唆されている)、いまや形而上学(偶然への抵抗としての)を失効させることにもなる。その中で、メイヤスー的な、偶然の復権、偶然のある種の定常性の獲得がなされ、惨事の到来が恒久的な運動として思惟のいわば中心に据えられる……。論考はどこか素描のようなものにとどまってはいるが、そうした「折り込みずみ」としての惨事・偶発事の考察を通じて、人為的なものと自然との境界線がぼやけ、さらには失効していくような世界観を、著者はその先に見ている印象だ。上のテロルの潜在性との関連で言えば、テロルが突いてくるのはそうした定常化・構造化した偶発事そのもので、今やそれを顕在化させる一つの契機になっているのかもしれない。この顕在化の力学または様態を解き明かすことが、ウーギルト本でも大きな問題になっている。

テロルの基本構造へ

パリの同時テロへの追悼・連帯としてフェイスブックのプロフィール写真をトリコロール化することは、個人的には別に悪くはないと思うのだけれど、中にはそれを「今回の出来事はテロじゃなく戦争だから」として批判する向きもあるようで(もちろん批判の論点はそれだけではないけれど)、どうもそのあたりの議論には微妙に違和感を感じてしまう……。テロル(恐怖)をまき散らすというそのイデオロギーの基本構造そのものを見据えた議論が、「戦争だから」という一言で後景に追いやられてしまう、取り上げられなくなってしまうのはどうか、と思うのだ。

The Metaphysics of Terror: The Incoherent System of Contemporary Politics (Political Theory and Contemporary Philosophy)そういう基本構造に迫ろうという一冊に、ラスムス・ウーギルト『テロルの形而上学』(Rasmus Ugilt, The Metaphysics of Terror: The Incoherent System of Contemporary Politics (Political Theory and Contemporary Philosophy), Bloomsbury Academic, 2012)があるようだ。これ、Google Booksで冒頭の序文などが読める(もちろん、例によって一部のページを除くが)。そこでの主たる議論によれば、テロリズムというのは基本的に政治的な定義以外になく、しかもそれは具体的に指すものを示すことのない無でありながら、恐怖をまきちらすという構造をもつ。それはどうやら、テロリズムが元来もつ「潜在性」の広がりにポイントがありそうだ……と。そのあたりを検討する意味で、著者は形而上学という言葉を出してくるのだけれども、それはかつての第一哲学のような、根源の一者を考えるようなものではもはやなく、むしろ最終哲学、他の科学との連携による形而上学の批判を通して形而上学を再考するといった営みになる、という。そうした批判的立場から、テロリズムが有する「潜在性」の構造を浮かび上がらせ、それによってその構造そのものを無化することができるのではないか、というのが同書の賭けとなる。そのための道具立てとして、同著者は中期以降のシェリングによる「顕在・潜在」の議論を援用する。これはなかなか興味深いお膳立てだ。さて、その後の展開はどうなるのか……。ちなみに同書の書評がこちらに。