「生命、自然、コスモロジー」カテゴリーアーカイブ

ナイルの洪水

ストラボンが示していたナイルの洪水の原因の話。ちょっと気になったので調べてみた。校注者による註では、アリストテレスの説というのは、今では偽アリストテレスの書ということになっているという『ナイルの洪水について(De Inundatione Nili)』からのものだという。どうやらこれは後世のラテン語訳のみが伝わっている、失われたアリストテレスの著書の梗概らしい。で、その内容はというと、少々古いけれど、スタンリー・バースタイン「アレクサンドロス、カリステネス、ナイルの源流」(Stanley M. Burstein, Alexander, Callisthenes and the Source of the Nile, 1976)(PDFはこちら)という論考に端的にまとめられている。それによると、古代に3世紀にわたって続いた、現実から遊離した説(エジプトの土壌はスポンジのようで、冬にしみこんだ雨水が夏に滲んでくる、というエフォロスの説など)に、その梗概は終止符を打ったのだという。そこでは、観察にもとづく所見だとして、次のような話がなされているようだ。エチオピアでは冬以外の時期に大量の雨がふり、その雨水が徐々にたまって洪水となる。洪水は結果的に夏季のエテジア季節風(北風)のころに生じる。エテジア季節風やそれに先立つ夏季の風が雲をもたらし(isti enim nebulas maxime ferunt ad regionem et quicunque alii venti fiunt estavales ante hos)、それが山地にぶつかって雨が発生し、ナイルが発する湿地にそれが大量に流れ込むのだ(quibus offendentibus ad montes defluunt aquae ad stagna, per quae Nilus fluit)、と。論文著者によれば、このアリストテレスの説明(ということにここではなっている)は、新旧をないまぜにした説明だという。前5世紀にデモクリトスやトラシュアルケスは、エテジア季節風がエチオピア南部に豪雨をもたらすと考えているといい、クニドスのエウドクソスはエジプトの聖職者がエチオピアでの夏季の豪雨について証言していると報告しているのだとか。エウドクソスの記述はアリストテレスの『気象学』の記述のソースになっているかもしれないとのこと。

同論文はこのあと、誰がそうした現象を実地で観察したのかという問題へと進んでいく。これもまた大変面白い。セネカの『自然の諸問題』(Naturales Quaestiones)の失われた部分を引用しているリュドスのヨアンネス(6世紀)は、その引用部分で、逍遙学派のカリステネスの『ヘレニカ』第4巻に言及しているのだという。で、その箇所には、「自分(カリステネス)はマケドニアのアレクサンドロス(大王)の遠征に同行したが、エチオピアで、ナイルの洪水がその地域の豪雨の結果であることを発見した」ということが記されているのだとか。この三重引用(?)が果たして正しいのかどうかを、同論文はひたすら追っていく。なにしろヨアンネスによるセネカの引用には二つほど大きな誤りがあるといい、すでにして色々な要素が錯綜しているようだ。さて、その真相は……。

デジタルとアナログの接合

ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)小泉義之『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)』(講談社、2015)をKindle版で。もとは2000年に出た新書。今回の講談社学術文庫版では、数学的経験の哲学がよかった近藤和敬氏が解説を書いているのだけれど、これが前半部分の中核部分、つまり数学的な事象をめぐる考察のよいまとめになっている。これだけ読んでもよいくらいな感じ(笑)。小泉氏が読み解くドゥルーズの数学がらみの議論のアウトラインはこんな感じか。ごくわずかな差異を生み出す大元として、ドゥルーズは微分方程式を念頭に置くわけだけれど、現実世界においては、微分方程式を積分して特定の解が得られるような事象はまず「ない」。現実問題としての微分方程式は「解けない」のであって、それを解こうとするには場合分けをして変数を相当に絞り込んで限定しなければならない(コンピュータシミュレーションの世界だ)。けれどもそうした操作とは別に現実世界の事物は実際に存在する。で、ドゥルーズは、そのような解けない問題に対して自然は、生命は、なんらかの不可知的な様態で答えを出している(答えを出すプロセスは全体としてたたみこまれている)と見ている……というわけなのだけれど、ここに少なからず誤解の芽というか、ある種の倒錯、突き合わせの無理があるようにも思われる。数学はおびただしい現実的要素を捨象して成り立っているわけだけれど、それを反転させて、そちらから現実世界を導くのはほぼ不可能(捨象した現実的要素の全貌は計り知れないから)であり、その意味で数学と現実世界はどちらも相互に異質なものであるほかなく、比喩として用いるのでもない限り、もとよりそのままでは接合しえない……。確かにドゥルーズは数的なもの、微分的なものと称して、これをどこか比喩的に処理しているきらいがある。けれども、それにしても人為的に作り込んでいるものから現実世界を再構成できるというのはその人為性ゆえに無理があるだろうし、単にデジタルなものとアナログなものとの接合が問題なのだとしても、これだけ異質なもの同士(微分方程式と生物)を持ち出してくると、後者が前者をたたみこんでいるという仮説の有効性も判然としない(判然としようがないのでは、という気もする)。

もし生物学を持ち出してくるのであれば、たとえば先に挙げたアリストテレス的現代形而上学所収の、ストール・マコール「生命の起源と生命の定義」などのように、異質ではあってもなんらかの共通基盤が見いだせる層において、デジタルとアナログの接合問題を考えるほうが生産的に思えてくる。同論考では、原生動物の一つラッパムシが切断されても自己再生・再構成することに関して、DNAの関与とは別に、縞模様のパターン(動的な4Dパターン)が時空間的に決定されていて、それにしたがって制御されている可能性、もしくは仮説を取り上げている。DNAが離散的(デジタル的)だとすれば、そのパターンのほうはアナログ的で、あくまで前者を補完する関係にあるとされている。しかも予めそのパターンが厳密に決まっているというのでもなく、置かれた時空間の中で動的に作動するというモデルを考えているようだ。これなどはまさに上のドゥルーズ論で言う「転倒したプラトニズム」を堅実に捉えているかのようだ。なるほど確かにドゥルーズはなんらかの点で先進性を見せてはいる(あるいはそれを読む小泉氏も)だろうけれど、それはそれとして、より細やかに、こうした個別の探求や議論でもって補完されていくべきものなのかもしれない……。

ホワイトヘッドの再評価へ?

具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考明けて2016年、謹賀新年。とはいえブログの1本めは、当然というか年末の読了本から(年越し本はまた後で)。森元斎『具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社、2015)は、ホワイトヘッドの哲学を、「抱握」概念などを中心に整理・再評価しようというもの。難解なプロセス実在論の見通しをいくぶんなりとも良くしようという意図は好感できる。その一方で、ドゥルーズのホワイトヘッド論やハーマンの議論の検証や、あるいはラトゥールなどとの対照とか詩論とか、多面的なアプローチのせいかいくぶん散漫な印象も。もっとも、ホワイトヘッド自身がどこか散漫(そう言うと語弊があるけれど)かつ多義的であり、こうした多面的アプローチを唆していると言えなくもないのかも……。いずれにしても個人的には、ホワイトヘッドの全著作に見る総体・全体像へといっそう踏み込んでいってほしかった気もする。

キーワードとなっている「抱握」だが、要するに連続体から抱握という過程によって現実的存在が個体化し対象となる、という図式。いわば他の現実的存在を巻き込んで個体が成立し対象として認識されるプロセスにほかならないようなのだが、そのプロセス自体を直接認識できるわけではなく、対象が成立した後から遡及的に推論するしかないもの(ゆえにそれは一種の抽象物)とされるようだ。このあたり、なにやら第一質料から形相によって複合体が生じるというアリストテレス以来の質料形相論と重なり合うようだが、そこに時間と空間の諸条件が絡んでくるところがホワイトヘッドの真骨頂らしい。抱握概念が出来するおおもとにバークリがあったというのも興味深いところ。

魂と物体(アヴィセンナの場合)

中世イスラムにおける心身問題(霊魂と身体の結びつき問題)に、ちょっと変わった角度からアプローチしている論考を見かけたので読んでみた。扱われているのはアヴィセンナ。ヤシン・R・バシャラン「アヴィセンナによる霊魂の物体操作力」(Yasin Ramazan Başaran, Avicenna on the Soul’s Power to Manipulate Material Objects, Eskiyeni, vol 30, 2015 )。「これって超能力話?」とか思ってしまうけれど(笑)、要は、霊魂が離在的に物質に働きかけることができるかという問題を、アヴィセンナがどう捉えていたか検証する論考。基本を押さえたストレートな論文という印象。前半は先行研究からの関連箇所をまとめていて、グタス、グッドマン、ドリュアールなどの研究から、そうした離在的な働きかけについて考えるアヴィセンナの諸前提を抽出している。

アヴィセンナの場合は流出論が基本で、上位のものは下位のものに原則働きかけることができる。したがって魂は物質(身体を含めて)に働きかけることができることになる(心身問題的に、魂が身体にどう結びついているかという点は不可知とされるものの、その結びつきは基本的にどうでもよくて(偶有的なことだとされる)、要は前者が後者を動かすことができればよい。身体が必要とされるのは、上位の知性界の上下関係の構造を物質世界に再現するためとされる)。魂にもとからある自由意志が行使される際には、上位の知性が参照され(それが魂に刻まれ)、自然の因果関係を踏み越えて物質に働きかけることができるとされる。ただ、魂のそうした自由意志力の強度、密度は人それぞれなので、物質への働きかけがもとよりできる人(預言者など)もいれば、なにがしかの訓練を経なければできない人(一般人)もいる……。いずれにせよ、魂と物質が存在論的に異なっているということと、コスモロジカルな構造が地上世界にも刻まれることが基本的な要件のようだ。

そうしたことを前提に、後半では、アヴィセンナ後期の書の一つとされる『所見と勧告』の第10巻(超自然な出来事について述べている部分)を取り上げて、超自然的な現象についての議論を紹介している。そこでは、超自然的な現象が可能になるケースは三つに分類されているという。一つめが主体に自然の能力としてそうした現象を起こす力が備わる場合(預言者の場合や、たとえばにらみつけるだけで呪いをかけられるという凶眼、魔術などがこれに分類される)、二つめが自然の産物の属性による場合(磁石の働きや、ある種の呪術的効果など)、三つめが天空の力、地上世界の物体、魂などの諸関係によって生じる場合(護符の作用など)。この後半部分の論述は物足りない気がするが、全体としては今後の研究を期待させる感触あり(かな)。

イアンブリコスの霊魂論

Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrinaルクレツィア・イリス・マルトーネ『イアンブリコス「魂について」—断章、教義』(Lucretia Iris Martone, Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrina, Pisa University Press, 2014)を読んでいるところ。イアンブリコスの霊魂論の断章本文の校注・翻訳(同書の中間部分)を含む、総合的な研究書。イアンブリコスの霊魂論がドクソグラフィー的(魂をめぐる諸説を集めたもの)だという話は前から聞いているけれど、その残っている断章を見ると確かにそういう感じではある。アリストテレスの教説に対してプラトンおよびプラトン主義者の説を対置していたり、さらにはプラトン主義陣営内ので異論なども拾ってみせている。もちろんそれら以外の学派や思想家たちについても取り上げている。

たとえば魂がいくつの部分から成るかという問題。アリストテレスが魂のの不可分性を取り上げるのに対して、プラトンは魂が3つの部分から成るとする(断章13)。機能的区分ならば、ゼノンなどは8つを区別し、アルキュタスやピタゴラス派は3つ、アリストテレスも5つを区分しているとまとめている(断章14)。プラトン主義陣営内の異論ということで言えば、運動機能などをめぐって、プロティノスやポルフュリオスは、形相や生命、諸作用が単一の秩序(調和)、単一のイデアに帰結すると考えているのに対して、ヌメニオス、アッティコス、プルタルコスなどは論戦を張っているという(断片23)。このあたりの相違などを詳細を読み解くのが、同書の後半をなす著者マルトーネによる教義についての論考ということになる。もちろんイアンブリコス自身の考え方も復元の対象に。

同書の前半部分は研究史などを批判的にまとめている。それによると、基本的にこれらの断章がドクソグラフィー的なのは、それらを収集・編纂した五世紀のヨハネス・ストバイオスの方針のせいなのだという。本来イアンブリコスは、様々な異論を取り上げた後に自説を展開していただろうというのだけれど、残された断章にはあまりそれが取り込まれていない。そんなわけで、あまりにも長い間、イアンブリコスは折衷主義的(アリストテレスとプラトン主義の)で哲学的には見るべきところがあまりないと一蹴されてきたという。状況が変わったのはつい最近(70年代くらいから再評価の兆しがあり、とくに顕著になったのが1990年代以降)で、そのプラトン神学の議論がプラトン主義陣営内の対立などを反映しているとして再評価を得たのだ、と。霊魂論に限っても、その全体的な構成について、従来のものを批判的に捉え異なるかたちで復元の試みがなされている。

余談だけれど、前回のエントリーで触れた、プロクロスの先駆とも位置づけられるイアンブリコスの『共通数学について』(De Communi Mathematica Scientia)もネット上にある。これも後で読みたいと思っている。