「通史の風景」カテゴリーアーカイブ

対象という幽霊

少し前にも触れた山内志朗『「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013)を読了。これまた、とても興味深いものだった。タイトルの「誤読」にも重層的な意味合いが込められていて、単に現代思想のスターたちによる中世や近世の哲学の誤読が問題になっているのではない。

「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へスコトゥスからオッカムへといたる流れでよく話題になることの一つに、可知的形象・可感的形象(知的スペキエス・感覚的スペキエス)の排除と直観的認識の台頭の問題があるのだけれど、考えてみるとそうした認識論的図式において、認識の対象となるものそのものが実際にどういう「もの」なのかは緩やかに曖昧なままだったりする。とくにその対象がどこに位置づけられるのか、つまり外的事物の側なのか知性(精神)の側なのか、それともいずれでもない第三の項として立てられるのか、といったあたりはテキストを漫然と読んでいても、なんだかよくわからないままだったりする。で、凡百の読み手ならば、そのあたりはスルーしてしまうか、曖昧なままにさしあたりの整理をしてやり過ごしてしまいがちだ(うう、個人的にもまさにそう)。ところが同書の著者は、その曖昧さに徹底的にこだわろうとする。かくして、外部でも内部でもなく、また第三項でもない「対象」、どこか幽霊のごとき「対象」こそが、同書を貫くメインテーマに据えられる。(うーむ、あるいはそのこだわりの違いは、哲学史に哲学という側面から追体験し迫ろうとするか、それともあくまで史的事象として引き離して扱うかというスタンスの違いもあるかもしれない。圧倒的に魅力的なのは前者だと思うのだけれど、それは誰もが通れる道にはとうてい見えない。並みの読み手では、すぐさま後者の罠に絡め取られて身動きできなくなってしまうような気がする……)

アプローチの方法も特徴的だ。後世の時点での過去の哲学への言及をもとに、その過去の哲学へと遡及する。ドゥルーズからスコトゥスへ、フーコーからアルノーやマルブランシュの「観念」論へ、ライプニッツから後期スコラへ、というふうに。さらに中盤でも、ジョン・ノリス(17世紀末のケンブリッジ・プラトニスト)からスアレス、フォンセカ(16世紀のポルトガルの神学者、イエズス会士)あるいはカエタヌス(16世紀のトマス主義者)へなどなど。様々な思想家を渉猟しながら問われ続けているのが、デカルトが用いた「観念」の、いわば前身となる用語の内実だ。それが「対象的概念」「形相的概念」で、とくに後者が問題とされる。同書の後半では、その出自から終局までが追い求められていく。「対象的概念」の成立(この用語の使用は、年代的にスコトゥスとオッカムのあいだに位置するペトルス・アウレオリが嚆矢だとされている)から、やがてそれが知解作用そのものと同一視されて(その転換点はスアレスにあるという)、いつしか不要なものとして費えてしまうまで(近世スコラ学、著者が言うところのバロック・スコラだ)が見据えられている。散りばめられた枝葉の数々(馴染みのない名前なども多々)や、行きつ戻りつする晦渋な語りなど、決して普通に読みやすいとはいえない考察だとは思うけれど、その全体像からは、同氏のこれまでの著作がそうだったように、著者のこれまでの歩みが反映されているらしい思考の手触りと、その道を歩む苦渋や痛みが浮かび上がる。でもだからこそ、(これもまた以前の著作もそうだったが)この先の展望をわずかながら先取りした末尾に、この上ない期待感の充溢が感じられて救われた気分にもなる。対象という幽霊の正体についてだけれど、それはこの著作に不在な部分、つまり神学的なものを取り払ったがゆえに生じた影、ということはないのかしら、という思いも個人的には強く残ったり……。そんなこんなで、個人的にはいろいろな反省を突きつけられる一冊でもある。

スコラ的論争形式の略史

ヨハン・フォン・アルムスハイムによる1483年の木版画。キリスト教とユダヤ教の神学者たちの論争を描いている
ヨハン・フォン・アルムスハイムによる1483年の木版画。キリスト教とユダヤ教の神学者たちの論争を描いている
アレックス・ノヴィコフ「スコラ的論争の文化史に向けて」(Alex J. Novikoff, Toward a Cultural History of Scholastic Disputation, The American Historical Review, vol. 117(2), 2012)という論文を読む。スコラ的な論争形式の成立から発展、隣接領域などを含んだ拡大などを、文化史的な見地を絡めて捉えようという意欲作。なかなか面白い。というわけで、全体の流れをまとめておこう。そこでは論争形式の発展を5つのステップで描き出そうとしている。まず一つめは成立期だ。スコラ的な論争の形式はもともと、古代からの対話篇・雄弁術の伝統がキリスト教世界に受け継がれ(アウグスティヌス、ボエティウスなど)ていたものを、11世紀末から12世紀初頭にかけて、アンセルムスが修道院内での教育のための方法として整備したのが始まりという。アンセルムスの師匠でもあったランフランクスその他にもそうした方法を用いていた人々はいたようなのだが、対話形式での文章の多さなどを根拠に、論文著者はアンセルムスに転換点を見ている。第二のステップは発展期だ。対話形式はアンセルムの周辺から広がり、11世紀から12世紀にかけて一気に花開くことになり、多くの文献がその形式で書かれるようになる。神学的論争にとどまらず、北イタリアやフランスなどで盛んになったローマ法の研究においても活用されることになる。第三のステップとしては、アリストテレスの新論理学の翻訳が進んだことが挙げられている。これが12世紀半ばにかけてスコラ的な論争形式に多大な影響を及ぼす。アリストテレスの重要性をいち早く見出した人々には、バルシャムのアダム、アレクサンダー・ネッカム、ソールズベリーのジョンなどがいた。論文著者によると、12世紀において修道院神学者とスコラ的神学者を分けることになるのが、この論争の実践にあったという。それは日々の自由学芸の訓練の中心をなしていた、というわけだ。パリ大学の正式な成立前(成立は1215年)にあたる12世紀末には、すでに講義室が論争の場となるなど、論争が活用される場は十分に整えられていき、大学成立後はいっそうの制度化が図られるようになる(自由討論の創設など)。これが第四のステップ。

さらにその論争形式・対話形式は、教会がユダヤ教などの異教に対峙する際にも大いに活用されたともいう(1240年の、通称「タルムード裁判」ことパリでの公開討論会など)。これが第五のステップだ。裁判の結果タルムードは焚書となるが、これが教皇庁側からユダヤ教側への大規模な攻勢の発端となり、その先頭に立つことになったのがドミニコ会だというわけだ。そのための手段はもちろん論争だ……。一方で著者は、そうした対話や論争の考え方はより広い文化的文脈に影響を与えていて、その一つが音楽におけるポリフォニーの開花だと指摘している。12世紀末のパリという成立時期・場所も同じなら、モテットなどの内実(まさしく声による対話だ)もまさにそのことを示しているのではないかという。この、音楽との絡みという話はごくわずかに触れられているだけなのだけれど、このあたり、もっと深めることができそうなテーマのようにも思われる。

ヴェスコヴィーニ編著から:その他の論考

引き続き前回の『14世紀ヨーロッパにおける哲学、科学、占星術』(Filosofia, scienza e astrologia nel Trecento europeo. Biagio Pelacani Parmense)から、ほかの注目論考についても簡単なメモ。同論考には伊語のほか、仏語、英語論文などが混在している。で、まず注目どころは、リシャール・ルメー「トレチェントのイタリア人文主義の着想源としての反アラブ主義−−あるいはスコラ学的スタイルの拒否」(Richard Lemay, De l’antiarabisme – ou rejet du sytle scolastique – comme inspiration première de l’humanisme italien du Trecento)。これはまだ序説的なものにすぎないようなのだけれど、13世紀にアラブからの学問流入に沸いたヨーロッパは、その後14世紀になって独自文献を自前で産出できるようになると、よりおおもとのギリシア文献に目を向けるようになり、かくして人文主義が勃興し、結果的に反アラブのスタンスを取るようになったという流れを描き出そうとしている。ここではとりわけ占星術関係の文献に着目していて、アラブの(占星術系の)文献とその教えに関する13世紀初頭の紛糾(1210年のパリの禁令など)は、アルベルトゥス・マグヌスが『天文学の鑑』を刊行した1250年ごろを境に鎮静化していき、一方で1277年の禁令以降は反アラブ主義が頭をもたげ、たとえばそれはダンテの『神曲』などにも散見される……というのだけれど、その反アラブという捉え方はとくに定義も具体例も示されておらず、厳密に何をそう称しているのかちょっと不明。とはいえ、力点がシフトしていったことは確かだろうし、文化・学術史的にみたアラブ世界の比重の減衰はとても興味深い問題ではある。

もう一つ、ダニエル・ジャカール「14世紀前半のパリにおける医学と占星術」(Danielle Jacquart, Médecine et Astrologie à Paris dans la première moitié du XIVe siècle)は、医学と占星術の併用・融合が、時代と場所によって実に様々だったことを指摘しつつ、14世紀前半のパリに限定する形で、文献から両者の関係性を明らかにしようと健闘している。14世紀前半においては、占星術の医学的な活用を疑問視する者もいれば(ニコル・オレームなど)、それを大いに奨励する者もいて(一時パリに滞在していたアーバノのピエトロなど)、全体として大いに錯綜している感があるようなのだけれど、同論考では次のような興味深い指摘がなされている。つまり、当時の宮廷付きの医師というのがたいてい占星術師で(代表格はモーのジェオフロワ)、占星術に懐疑的なパリ大学の医学部の関係者はそこに入っていけず、両者はいわば互いに没交渉の二つの医学世界を作っていたらしいことだ。その状況はペスト禍が起きる1348年以降劇的に変化し、医学部出身者の間から宮廷付きの医師が徴用されるようになるという。うーん、このペスト禍前後の状況の変化などは、もっと詳しく知りたいところ。

ガレノスとプラトン主義の結節点?

ちょっと古典的な趣きすら感じられる、でもなかなか興味深い1976年の論考を読む。セオドア・トレーシー「プラトン、ガレノス、および意識の中心」(Theodore J. Tracy, Plato, Galen, and the Center of Consciousness, Illinois Classical Studies vol. 1, 1976)(PDFはこちら)というもの。ガレノスが『ティマイオス』の注解を著したりして、プラトン主義に馴染んでいたことはよく知られている。でも論文著者によれば、『ティマイオス』にプラトンが取り込んでいた当時の解剖学・生理学・心理学・病理学などの知見は、その後の医学的権威たちによって真剣に受け止められ、かくしてプラトンはアリストテレスを通じて間接的に学術的伝統に影響を及ぼしていただけでなく、医学の専門家たちからはその筋の権威として崇められていたことが見出されるのだという。で、ガレノスもそういう一人だったとされる。ガレノスは著書の随所で、プラトンをそういう権威として引き合いに出しているという。ではなぜガレノスは、アリストテレスやその他のギリシア・ローマの権威を差し置いて、プラトンを選んでいるのかという疑問がわく。その一つの契機として、ガレノスの神経解剖学的関心と、「意識の中心」がどこかという当時決着のついていなかった問題があったのではないか、というのが同論考の中心的な仮説だ。

知的活動の局所問題について、同論考は略史を示してくれている。思考や感情がどこに宿るのかというのは古来からの大きな問題だった。紀元前5世紀のクロトンのアルクマイオン(初の人体解剖をしたとされるピュタゴラス派の解剖学者)はそれを脳に位置づけていたが、その後の世代にあたるエンペドクレスなどは、思考や感情を心臓の周りの血に関連づけていた。ヒポクラテスは脳が意識や知性の中心だと主張していたが、文献的にはやや曖昧なところもあったりするようだ。で、プラトンだけれど、そちらも理性的魂を脳に位置づけている。ところがアリストテレスにいたると、生命原理を心臓に一元的に求めるようになる。アリストテレスの同時代の医者だったディオクレス(アテネで第二のヒポクラテスと呼ばれていた人物)とその弟子筋も心臓説を採用し、さらにはストア派やエピクロス派がその説を採用するにいたって、心臓説は広く人口に膾炙するようになった。一方の脳中心説はどうなったかというと、アリストテレスの死後半世紀たったころ(紀元前3世紀前半)、ヘロフィロス(神経解剖学を進展させた医者)とその弟子などが脳中心説を擁護したりもするのだけれど、結局それはガレノスの時代の直前まで、約300年の長きにわたり進展もなく、ひたすら無視され続けることになる。ガレノスは独自に解剖学の研究を重ね、思考が脳に依存していることを訴えてストア派や逍遙学派に対抗する立場を取るようになる。ガレノスはこうして、いわばごく自然にプラトンへと接近し、プラトンの立場を擁護するようになったのではないかというわけだが、そうはいってもガレノスの生涯とプラトン主義の関わりは不明瞭なままで、そのあたりはやはり難しい問題なのだなということが改めて窺える。

中世スペインは寛容?それとも……

これまたほんの数日前に紹介されていた論考だが、マリア・イエスス・フエンテ「現在の眼を通じて過去を構築する:中世スペインの諸国は寛容のモデルだったか?」というペーパー(María Jesús Fuente, Building the past through the eyes of the present. Were the Kingdoms of Medieval Spain a model of tolerance? Paper given at the 3rd Global Conference, 2009)を読む。中世スペインにおいて異なる宗教共同体同士は、果たして相手に対して寛容だったのか、それとも対立的だったのか?この古くからの問題を改めて考察し、2000年代に出た「寛容論」の書籍を批判的に取り上げている。そうした書が出てきた背景には、同時多発テロ以降の宗教的対立の文脈で、対立の緩和のためのより対話志向の議論を目した一部の論者たちが、過去の「寛容」の事例を探し求めたことにあるという。結果として出てきたのが中世スペインというわけなのだけれど、論文著者はこれにもっとニュアンスをもたせるべきだというスタンスを突きつける。実際のところ、そうした議論を考える上で考慮すべき点は多く、一口に中世スペインとして括るのは難しい(そりゃそうだ)。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の関係性は状況によって絶えず流動的で、たとえばアラブ統治期(8世紀から13世紀)とその後のキリスト教統治期で違うばかりか、地域ごとの違いもあるという(これももっともなこと)。文化の上層・下層の差などもあり、詩や文学、音楽、美術といったいわゆる「ハイカルチャー」での交流はあっても、より低次の、たとえば宗教儀式や慣習といった固有の文化は各共同体が死守・温存しようとする。また、そもそも「寛容」という言葉の意味も昔と今とでは異なっているという。中世末期頃の文献からは、当時の「寛容」(tolerance)が「持続、存続」を意味し、同化が不可能であるようなものに対する唯一可能な態度が、その存続を許すという姿勢だったという。なるほどこれは面白い指摘。昨今の寛容という言葉に込められている「大目に見る、異なるものを積極的に受け入れる」という意味合いとはだいぶ異なっているというわけだ。調和(conveniencia)や共生(coexistencia)という言葉を使う研究者もいるとはいえ、文化的な側面以外、つまりは社会的な関係性を広く見る場合にはそうした概念も必ずしも一様には適用できない、と論者は述べている。

実際の歴史研究が描き出すのは、単純に中世スペイン社会を寛容のモデルと見なすようなシンプルな像ではない。「現代的アイデンティティや社会にとっての、中世スペインの妥当性」を強調しようとすることは「複雑な歴史的過去をより現在志向の議題のためにねじ曲げるリスクを冒すことだ」と論者は述べている。末尾の締めの一言がとてもいい。「現代への関心に即して過去を構築しようとする歴史家は、このトピックが迷路であることを肝に銘じるべきだ。つまり入るのは簡単だが、出口を見つけるのは難しいということを」。