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ディドロの「一般意志」

一般意志も解釈様々


 未読本から、今度は岩波『思想』2013年12月号(特集;ディドロ生誕300年)を見ているところです。

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 ルソーもそうですが、ディドロの著作もまた、個人的にはどちらかというと純粋に文学として見てしまうことが多く、思想家としての側面からのアプローチはこれまであまり真剣に考えてみたことがありませんでした。なので逆に、政治思想の観点から見据えるというのが、とても興味深く感じられます(いまさらかよ、とは言いっこなしで(苦笑))。

 で、同書。冒頭の座談会(「今、ディドロを読むために」)も刺激に満ちていますが、それにつづく王寺賢太「一般意志の彼方へ——「諸意志の協調」とディドロ晩年の政治的思考」が個人的にはグッときました。ルソー的な一般意志とは異なる一般意志概念を、ディドロは打ち出しているという話です。ディドロの一般意志は、ルソーのように個人が自分の権利を譲渡した総体的な意志に従属するというような安定化の契機ではなく、君主に対して団結・抵抗・蜂起するために突きつけるものだとされるのですね。

 少々乱暴にまとめるなら、選挙を通じて制度に与するような一般意志(ルソー的)と、君主に対する対抗力とするための、異議申し立てをなすような一般意志(ディドロ的)があるということです。後者があればこそ、君主制が専制に堕落することを防ぐことができるのだ、というわけですね。こうした異議申し立ての一般意志という発想だけでも、ディドロを改めてちゃんと読んでみたいと思わせるに十分です。

「世界の終わり」は終わらないが……

抽象的な破局論vs感性的なもの


 このあいだまで読んでいた会田誠の青春小説『げいさい』(https://amzn.to/34PvQe2)に、チェルノブイリの原発事故について学生たちが、ほとんど対岸の火事のような感想を述べ合うシーンがありました。遠すぎてピンと来ない、という感じのものいいです。当時の日本では、実際にそういう感じだったかもしれません。でも、ならば地理的には比較的近い欧州では、これまでどんな感じで受け取れられてきたのか、今現在ではどうなのか、といった疑問ももちろんあります。

 ちょうど昨年、気になるタイトルの本が出ていたので、取り寄せてみました。ジャン=ミッシェル・デュラフール『チェルノブイリアーナ』がそれです。副題が「放射能時代の美学とコスモロジー」となっています(Jean-Michel Durafour, “Tchernobyliana – Esthétique et cosmologie de l’âge radioactif”, Vrin, 2021)。

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 まだ冒頭の序文を読んだだけですが、すでにして破局論的な考察になっていて刺激的です。著者は「対岸の火事」的な見方はもっと普遍的なものだと考えているようです。事故や災害は、「世界の終わり」を思わせるけれども、「世界の終わり」は世界の中にあってこそのものであって、そもそも世界の終わりというのは言葉の矛盾ではないか、というのですね。たとえ世界の終わりが絶望であるとしても、絶望に意味があるのは希望を信じ続ける(たとえ希望を否定するのであっても)場合のみであり、破局の概念にはつねに・すでに、そうした終わらない世界、あるいは継続する希望が内包されているのではないか、というのです。

 こうして西欧人にとっても、破局は必ずやどこか「対岸的」、あるいは抽象的なものでありつづける、という話になります。彼らにとって比較的近い事象だったチェルノブイリの一件も、まさにそのような終わりのない世界に属する事象だというわけです。

 同書の著者は、一方でチェルノブイリが、西欧の人々のイメージの実践(芸術活動)、まなざしの実践を変貌させ、新しい見方をもたらしてもいるとも指摘します。破局は様々な知的立場を喚起し(原子力への賛否や国家の対応の是非、なんらかの意識の覚醒などなど)、破局にまつわるなんらかの美学は、そうした立場を抜きには考えられない、というわけです。チェルノブイリは、政治的なものに対する、感性的なものの新しい布置(アジャンスマン)を秩序づけているがゆえに、美学的な価値を内包している、と。

 その意味で、チェルノブイリすら対岸とみる、のほほんとした破局論に、そうした新たな布置の感性的なものは対立します。後者を前者に突きつけ、前者を揺さぶること。これが同書の基本線になっていくようです。フクシマすら薄れつつある現状の日本にとっても、同書の基本的考え方は、忘却にあらがう仕方の指針の一つになってくれるでしょうか?

シン実存主義?

あるいはシン二元論の試み?


 個人的にマルクス・ガブリエルはピンと来ないのですが、タイトルが気になったので、『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書、2020)を読んでみました。

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 前の『なぜ世界は存在しないのか』もそうでしたし、その後にNHKで放送された連続インタビュー番組などでもそうでしたが、ガブリエルのスタイルは、どこかサンドボックス(砂場ですね)のようなものを作り上げて、それをなんとか一般化しようとするかのようです。そういう操作の妥当性はどうなのか、と思い始めると、微妙に煮え切らない感じが残ってしまいます。

 今回の議論では、心的なものを脳の機能に還元するような、自然科学にもとづく一元論(近年優勢な立場ですね)に対して、人間の精神活動の異次元性を唱え、あえて二元論を擁護しようとしています。これを新実存主義と称し、かつての実存主義の即自(つまりはモノですね)と対自(人間固有の自己認識的主体)に重ねるかのように、自然種(自然科学の対象)と精神(人間固有の説明構造)とを別次元のものとして対比しています。

 この立場そのものは結構面白いと思うのですが、喩え話などがサンドボックス的で、たとえば自転車とサイクリングの違いなど、卑近な例をもってくるのですけれど、それを一般的な話へと敷衍する段になって、微妙に話をそらすというか、煙に巻くというか……。自然種と説明構造は、どちらも全体化できないとされ(二元論ですから当然といえば当然かもしれませんが)、翻ってどちらもどこかフラット(均質的)で曖昧な印象を与えます。

 おそらくは哲学の独自性を確保しようとするための二元論戦略なのでしょうけれど、かえって哲学の占める場所(こういう言い方に、ガブリエルはすぐに応酬してきそうですが)や深みが縮小していくことにならないか、と心配です(誤解であるなら余計な心配かもしれませんけれど)。

拙速な一般化への批判

『反逆の神話』を読む


 文庫化されたということで、ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター著『反逆の神話』を読んでみました。アメリカの左派系のカウンターカルチャーを、より俯瞰的な観点から総合的に批判するという一冊です。この「俯瞰的な観点」というところがミソで、カウンターカルチャーが消費文化を批判するどころか、それにどっぶりと浸かって抜け出せないということを、多彩な事例を引きながら具体的に示してみせます。

 俯瞰的というのはつまり、対象から適度な距離を取ることで、個々の対象にこだわるでもなく、拙速に一般論に傾くでもない、ニュートラルに近い立場を維持するということです。

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 個人的に読みどころと思ったのは、フランスの現代思想やそのもとになっている様々な思想書などが、次々に俎上にのせられていくところでしょうか。それらも逐次、一貫して俯瞰的な視点で捉え、批判していきます。

 ちょっとだけ例を挙げるなら、たとえばこんな話。社会の契約もしくはルールに関する近代的な議論の始祖ともいうべき、ホッブスやルソーですが、彼らは別に現代的な無政府主義を論じていたわけではありません。ホッブスなどはルールがなければそもそも人間の協働はありえないと考えているし、ルソーも社会制度やルールの縛りに反対などしていないといいます。フロイトなどの(暴力的な)人間像や協働の考え方とは、ずいぶん異なっている、というわけです。

 あるいはマルクスの話。マルクスは一般的な過剰生産によって恐慌が起きると主張しているというのですが、市場経済は基本的に交換のシステムなので、総需要と総供給は同じにならなくてはならず、過剰生産は生じない、と同書の著者たちは考えています(セーの法則ですね)。すると、たとえばボードリヤールが、人々が本当に必要としていないとして批判する消費財の過剰論なども、まさにその「ありもしない」過剰生産の理屈によるものにすぎない、ということになってしまいます(しかもボードリヤールのその不要リストは、中年の知識人の価値観でしかない、などと痛罵されています)。

 総じて、抑圧された状況からの解放(すなわち自由の獲得)というスローガンが、ルールの変更ではなく、ルールの縛りそのものを解体することとイコールとされるなど、ルールや自由についてのはき違え、あるいは個別論の一般論への拙速な投影が、問題の所在を見えなくしている、というのが同書の基本的立場です。結局、重要なのはルールを撤廃することではなく、ルールの変更、マイナーリペアなのだ、というわけです。まさに中道的なスタンスです。

 最近、分配を言いつのるようになった日本の現政権について、分配を政策綱領とするのは社会主義を標榜することだ、などと短絡的で乱暴な主張をしている記事を見かけたりしました。これなども個別論の一般論への拙速な投影です。そうした拙速な投影そのものを批判するのは、左派・右派に関係なく、とても重要だと思われます。

ポール・ド・マン

または文学再入門


 積ん読本から、岩波『思想』の2013年7月号を引っ張りだして見ているところです。特集は「ポール・ド・マン:没後30年を迎えて」。ポール・ド・マンってちゃんと読んだことがなく、デリダの脱構築概念を取り込んだ文芸批評家という程度の認識しかありませんでした。でも、この脱構築にしても、デリダの考えるものとはちょっと違っていることなどが、最初に載録されている土田知則・巽孝之・宮﨑裕助の三氏による座談会でも明らかになっていきます。

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 ちなみに、deconstructionの訳語として脱構築をひねり出したのは、由良君美だったといった話が印象的です。

 続く富山太佳夫「ポール・ド・マン再読」という論文も、その脱構築について、デリダやド・マン、さらには事典などの要約的記述なども含めて、概念的な変遷、あるいはその意味合いの広がりを、詳しく追っている感じです。

 個人的にとても刺激的だったのが、座談会にも登場した宮﨑裕助氏の「弁解機械作動中」と題された論考です。前半では、ルソーの記す「自分がリボンを盗み、マリオンという少女に罪をなすりつけた思い出」をめぐるデリダとド・マンの解釈上の対立が、実はさほど違っていないことを指摘します。どちらも告白と弁解の本質的な決定不可能性を論じているのに、デリダは拙速に違いを強調して、ド・マンが告白のふたつの様態を分離して一方から他方へ移行するものと見なしている、というのですね。

 論考の後半では、今度はド・マンの解釈を吟味して、ルソーの「弁解の余地」をさぐり当てています。少女に罪をなすりつけたことについてルソーは、その子が好きで、その子のことを考えばかりいたのでとっさに口をついて出た、と弁解するのですが、それは後付けの理由にすぎず、その子の名前が飛び出してくるのは、あくまで偶然、一種の錯乱状態とも受け取れます。ここにこそ、ルソーのその発話が悪意のないフィクションである可能性、ひいては弁解に開かれている微細な可能性があるというわけです。

 でもその弁解は成功しはしません。ルソーは「罪をひけらかすように」そのエピソードを語っているからです。語られた経験は、つねに虚構的な言説と重なって、それ自体が未決性に彩られるしかなく、ひけらかしの罪をまとってしまうしかないというのです。ひけらかしの罪とは、様々な読み手のありとあらゆる非難を引き寄せてしまうようなものなのですね。この意味で、あらゆるテキストは弁解であり、それはテキストが言わんとする経験を、その経験の事象性・体験そのものから引き離して、結果的に言わんとすることを打ち消してしまう……。このような構造を、ド・マンの解釈は引き出すことができるのだ、というのです。

 うーむ、この解釈の妙味のすばらしさ。しばらく忘れていましたが、文学の(というか文学研究の)醍醐味を、久しぶりに味わった気分です。再入門してみたくなったり(笑)。