「スアレスと形而上学の体系」1

さてさて月も変わったことだし、個人的にはスアレスについても(フランシスコ・スアレス:16世紀後半から17世紀初めにかけて活躍したイエズス会の神学者)もうちょっと取り組みを本格化したいところ。そんなわけで、まずは手始めにジャン=フランソワ・クルティーヌの『スアレスと形而上学の体系』(Jean-François Courtine “Suarez et le système de la métaphysique”, PUF, 1990)を読んでいくことにした。メモ風にまとめていくことにする。この本、裏表紙に「これはスアレスについてのモノグラフではなく、<スアレス・モーメント>を形而上学の歴史に、つまり様々な変貌に彩られたアリストテレスの形而上学の伝統に位置づけるべく、長大な期間を扱った研究である」と記されている。少し搦め手のような感じもするけれど、逆に哲学史的にはまっとうで面白そうなアプローチかも。

まずは第一章。これは序章なのでスアレスはまだ登場せず。形而上学の伝統という点から常に問題になるのは、それが他の学問とどう違うのかということ。言い換えると、形而上学はいったい何を「sujet」(主題)にするのかという問題。もちろんそれは「神」ということとされるわけだけれど、これに関してはアヴィセンナがほぼ規範となる定式化を行い、スコラ学とそれに続く長い伝統がそれに準じるのだという。で、そのアヴィセンナの定式化だけれど、まず彼は「神が形而上学固有の主題にはならない」と言い放つところから始める。限定的な個別の学問がその存在を論証したり、対象として理解したりすることはできないというのだ。とはいえ、形而上学は「神についての」探求であるということを認めるアヴィセンナは、結局、学知の「positum」(基本前提 = 主題?)と、探求の対象とを区別するのだという。つまり敷衍するならば、学問(一般)は基本前提が統一されていさえすれば個別の学問の対象がいろいろ異なっても構わないというわけで、そこには神(つまりはその存在)も含まれるということになる。形而上学は、あくまで限定的なアプローチで神の存在を捉える営み、という感じになるのだろうか。そしてこれゆえに、神学者が考える「聖なる教義」としての神学とは異なる、哲学者にとっての「神学」がきっちりと区画されることになるのだという。うーむ、なるほど。このあたり、異教的な「神学」と、カトリックの教義としての神学とが併存している中世のある種独特な混在状況の、背景説明の一端をなしているかもしれない……(?)。

「「スアレスと形而上学の体系」1」への1件のフィードバック

  1. 現在アヴィセンナの『治癒の書』の形而上学の部分を、アラビア語から日本語に訳するプロジェクトが進行しているようです。

    小林春夫、「イブン・スィーナー著『治癒』文献解題」、『イスラーム地域研究ジャーナル』、vol. 2、2010年、57-63頁。

    肝心の翻訳は次号から掲載されるようです。ご参考までに。

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