アウグスティヌス再び

今年の「書物復権」でとりわけ気になったのが、ジルソン/べーナー『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』(服部英次郎・藤本雄三訳、みすず書房、1981-2010)。ジルソンのビブリオグラフィーでこのタイトルのものは見あたらないなあ、と思っていたのだけれど、これ、なんと『キリスト教哲学』(1954)からの抄訳だった。なあんだ。でも、さっそく前半のアウグスティヌス部分を見ているのだけれど、なかなかに端的で面白い記述になっている。デカルトの「cogito ergo sum」のはるか先駆としてアウグスティヌスを挙げる論考をたまに見るけれど、これのソースがあっさりと判明(『自由意志論』、2.3.7)。さらには、「種子的原理」(rationes seminales)の話が『創世記注解』や『三位一体論』のどこにあるかとか、アウグスティヌスが形相の新しい発生をどうして否定することになるのかといった点なども端的に説明されていてよくわかる。うーむ、この本、個人的にはこれまでまったくスルーしていたけれど、とても有用なまとめの書という感じで気に入ってしまった。「書物復権」に改めて感謝。

天地創造ミサ

例によってこのところあまり時間が取れない。そんな中、ハイドン/ガッティ『天地創造ミサ』(”Schöpfungsmessen – Lugi Gatti – Joseph Haydn”, Carus, 83.245)を聴く。ルイジ・ガッティとハイドンそれぞれの「天地創造ミサ」を収録。前者の作曲家はよく知らないのだけれど、ハイドンとほぼ同時代人らしい。ハイドンからの旋律を引用というか借用というかしているというので、これは「天地創造ミサ」と称されるらしいのだが、ハイドンのほうも、これは自作の「オラトリオ・天地創造」からの一節がグロリアに流用されたことで「天地創造ミサ」と言われているのだそうな。個人的には、華やかだけれどちょっと脳天気な感じもしないでもないガッティに対して、そういう部分を抑え気味にして深みの要素を加えたハイドン、というような対比になっている気がする……(ホントか?)。いずれにしても、この時代の特徴だというトランペットの使用がなかなかに面白い効果を出している感じで興味深い。演奏はドレスデン聖十字合唱団+ドレスデン・フィルハーモニー、指揮はローデリヒ・クライレ。去年のハイドンイヤーに出た一枚。

「正統派をめぐる戦い」4 イアンブリコス

アタナシアーディ『後期プラトン主義における正統派をめぐる戦い』もあと少し。第5章はイアンブリコス。先のヌメニオスやプロティノスの思想は、後の世代にそのまま継承されることがなかったわけだけれども、著者はまず、これら二人(とくにプロティノス)の周辺化の理由を探ることから始めている。キリスト教が反グノーシス主義を通じて異端と正統派を明確化させていったように、プラトン主義においても、ポルピュリオスによるプロティノスの著作の整備が、イアンブリコス流の魔術思想の台頭への対抗策だった可能性があるという。ところがそれは聖書のような、信者集団にとっての焦点となることがなかった。なぜか。著者は、当時の趨勢だったアリストテレスの取り込みに背を向けていたこと、実像と離れたプロティノス像が流布されたこと、従来の伝統への曖昧な態度などがあるとしているけれど、それに大きく影響を与えたのはポルピュリオスやイアンブリコスの動向だった。折しも新たな宗教性が求められつつあった時代にあって、『カルデア神託』を取り込んだそれら二人の思想動向こそが世間的にはウケていく。うーむ、弟子はやはり師匠を踏んづけ曲解したりしながら、それを踏み台にして飛躍していくものなのね(笑)。イアンブリコスもやはりシリアのアパメアで活動している。

イアンブリコスはもとよりどこか宗教家的な雰囲気を湛えていたようで(著者はその出自の周辺をシリアの歴史に関連づけてまとめているが、ここでは割愛)、儀式的神秘主義の側面は本人の思想内容とは別に一人歩きしていたらしい。とはいえ、一方ではプラトンの「ピュタゴラス化」を決定づけ、その正典化を図ったことが大きな足跡ではある。アリストテレス思想をも取り込み、またプラトン主義の門をくぐる者へのカリキュラムを整備したとされる。また、『カルデア神託』を聖典へと引き上げた功績もある。イアンブリコスは全体としては宗教思想的で、魂の再上昇を儀礼的方法で実現することを主張し、そのコミュニティも当時のシリアにあったらしい様々な派と同様、一種の教団として、絶対的一者のまわりに神的存在を配するという拝一神教的な性格をもったものではなかったか、と。こうして教団的に画定された宗教的思想そのものは、さらに後代のダマスキオスなどにも引き継がれていく……。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 -10

εἰ γὰρ ὁ πρῶτος «Πατὴρ» ἁρπάζειν «ἑαυτὸν» λέγεται τοῦ νοῦ καὶ τῆς «δυνάμεως», τίς ὁ μηδὲ οὕτως ἁρπάσαι δεηθεὶς ἑαυτὸν, ἀλλ᾿ ὑπερηρπασμένος ἀπὸ πάντων ἁπλῶς καὶ θεὸς πάντων ὑμνούμενος; εἰ δὲ καὶ περὶ τοῦ πρωτίστου Πατρὸς ἐν ἄλλοις εἴρηται · «καὶ δύναμιν πρώτην ἱεροῦ λόγου», τίς ὁ ὑπὲρ τοῦτον καὶ οὗπερ οὗτος μετέχων ἱερὸς λέγεται; καὶ εἰ ὁ ἐκφαίνων ἀρρητότερον ὄντα λόγος ὀνομάζεται, δεῖ πρὸ τοῦ λόγου τὴν τὸν λόγον ὑποστήσασαν εἶναι σιγήν, καὶ πρὸ παντὸς ἱεροῦ τὴν ἐκθεωτικὴν αἰτίαν.

第一の「父」は知性と「可能態」から「みずからを」取り除くと言われるが、では一体何が、そのようにみずからを取り除かずともよく、一方で端的にすべてから超独立的で、かつすべての神と讃えられるというのだろうか?また、あらゆるものの第一の父について、他の箇所で「聖なる言葉における第一の可能態」と称せられるが、では一体何がそれを越え、かつそこに与るものが聖なるものと言われるというのだろうか?現れながらも言葉にできない存在がロゴスと名付けられるのなら、そのロゴスの以前に、ロゴスを下支えするような沈黙がなくてはならず、またあらゆる聖なるものの以前に、神格化の原因がなくてはならない。

「スアレスと形而上学の体系」 5

少しペースが落ちているけれど(苦笑)、相変わらず読んでいるクルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』。第二部第二章は、主著の『形而上学討論集(Disputationes metaphysicae)』の序論部分を読んでいくという趣向。この『Disputationes』は1597年刊ということで、スアレス49歳のころの書。その序文では、スアレスは神学と形而上学との状況について規定しようとしているという。それ以前の議論とは逆に、スアレスは神学すらも、理性にもとづいて予め確立された哲学的な原理に根ざさなくてはならないとの立場を取るのだという。著者クルティーヌはこれを大きな転換だと見ている。なるほど、これは確かに中世の神学と哲学の関係の逆転だ。かくして形而上学は完全な自立性を達成することになるのだと……。これが第一点。

続いて、やはり同じく序文の議論を追いながら、クルティーヌはスアレスが考える形而上学の対象が何なのかを見ていく。スアレスはその際に、形而上学の歴史的な展開を念頭に、従来型の6つの立場をそれぞれ批判していく。全体的に、スアレスは先の「哲学的対象への神の落とし込み」を継承・発展させる立場にあるようだ。その意味ではそれはトマスの見解に対立するし、一方で神すらも存在神学的な「論理」に従属させることにもなるという。では神をそういう学知に取り込むには、それはどういう学知でなくてはならないということになるのだろうか?神をも取り込む学知の「対象」とは何か?ここでスアレスが批判する6つの立場は、形而上学の対象をそれぞれ(1) 抽象的な存在全般、(2)理性における存在を除く存在全般、(3)最も個的な存在者、(4)神および被造物の知性、(5)範疇で分割される限りでの存在、(6)実体そのもの(これはビュリダンの立場とされるもの)となる。最初の2つはその対象のあまりの広さが、続く2つはあまりの狭さが、最後の2つは学的な威信に満たない点が批判される。で、そうした批判の中から反照的に浮かび上がる(6つの合間をぬって見出される)スアレスの見解では、「実在である限りにおいての存在者こそがこの学知の適切な対象」(ens in quantum ens reale esse objectum adequatum huis scientiae)となるのだという。この、一見内実の空虚な規定を擁護することにこそ、この『形而上学討論集』全体が費やされていくのだと……。うーむ、この規定の内実がもっとよく知りたくなってくる……。