雑記:組織防衛

サッカーのせいもあってか、このところテレビの視聴時間が増えている(笑)。日本対オランダとか、負けはしたけれど、内容はそんなに悪くなく、個人の技能差がある相手でも組織防衛(「皆で戦う」)が結構利くということを改めて認識させられる。うん、戦い方ってあるのだなあと。それにしてもフランスはかなり迷走しているようで、ドメネク監督に暴言を吐いたとされるアネルカが代表をクビになり、しかも今し方入ってきた速報では、キャプテンのエヴラがフィジカルトレーナーと口論になり、代表チームは日曜の公開練習を拒否。でもってフランスサッカー協会のヴァランタンが辞任。うーん、何やってるんだか……。そんなゴシップよりも試合そのもので話題を作ってほしいんだけれど……。このあたり、組織防衛の対極にある話。

組織防衛といえば、この1年3ヶ月、年甲斐もなくハマったアニメが「ハガレン」こと『鋼の錬金術師』。偶然に第一話を見てしまって、その後は全編録画して見ている(笑)。あと2回で最終回。「ハガレン」は前にまったく別展開のアニメがあったそうだがけれど、今放映しているそれはかなり原作に忠実。荒川弘(ひろむ:女性だそうだ)の原作マンガは9年の歳月を経て今月最終回だったそうで(アサヒコムにインタビュー記事が出ていた)、アニメの終了とほぼ時を同じくして終わらせるというのは新しい形のメディアミックス。うーん、すばらしい。このアニメ(というか原作マンガ)がいいのは、主人公単独ではなく、旅で増えていった仲間たちとともに集団で戦うこと。対する敵側は、たとえ複数いてもそれぞれが単独で戦うので、隙を突かれたり自滅パターンだったりしながら敗れていく。これもまさに組織防衛の利を描いてる感じっすね。そういえば、仲間が増えていく(RPGの王道だけれど)という感じのロードムービーの1つ、クリント・イーストウッドの76年監督作品『アウトロー』を先日、20数年ぶりくらいに観た。BSで放映していたもの。細部はだいぶ忘れていたけれど、「ジョージー・ウエールズ、ついに一人になったな」と敵が言うと、イーストウッド扮する主人公の背後から仲間達が「一人じゃないぜ」と援護射撃をするシーンなどは、わかっていても爽快(笑)。あ、これってネタバレかも(失礼)。

「正統派をめぐる戦い」 3

アタナシアーディ『後期プラトン主義における正統派をめぐる戦い』から。第四章はプロティノス。「イアンブリコスを貫くのがヌメニオスであるとするなら、プロティノスを貫くのはアンモニオスである」と著者。神秘主義的な啓示の伝達を口承にのみ限定し、安易に広めることを禁じたアンモニオスに対して、プロティノスたちその弟子たちはいずれもその約束を守ろうとはしなかった……。それだけ社会情勢は流動的だったということか。著者によればプロティヌスの立ち位置はヌメニオスのそれに類似する。プラトンを絶対的な権威とし、その曖昧な物言いを明確にすることが継承者たちの責務だとする。ただし違いもあって、ヌメニオスが過去の人々に対して自分の立ち位置を確立していたのに対し、プロティヌスは同時代の人々、しかも自分の陣営内にいる異種の人々に対立せざるをえない……。

それはつまり、キリスト教系(プラトン主義の陣営内にはキリスト教徒もいた)のグノーシス主義との対立だ。プロティヌスのトーンは教育的で、戦闘的な姿勢を見せているわけではなく、誤謬に陥ったそれらの人々を、怒りではなく悲しみで見ているという。とはいえ、世界の美を認めようとしない感性の怠惰さや妬み・憎しみ(グノーシス派がそれなりに社会的に勢力を拡大したのは、人々の間にあるルサンチマンを汲み上げていたからだと言われる)についてはそれを厳しく批判し、魂を強く持てと説く。奨励されるのは、グノーシス派が怠っている鍛錬だという(だからプロティノスはグノーシス派をエピクロス派の亜流と見なしているのだとか)。けれども、プロティノスはそれをあえて広く説教しようとはしない。そこが、積極的な拡張策を取るグノーシス派との違いで、プロティノスの場合はあえて自分たちの陣営内に入り込もうとするグノーシス思想を批判するにとどまった……。なるほど、このあたりの戦略の欠如が、エリート主義的とも言われるプロティノスの一派の限界なのかもしれない。

「ローマの遺産」

このところフェデリコ・ゼーリ『ローマの遺産 – <コンスタンティヌス凱旋門>を読む』(大橋喜之訳、八坂書房)を眺めている。美術史家ゼーリの講義録。見事な博学をおなじみ大橋氏の訳業で。これはなかなか贅沢な読書かもしれない(笑)。ローマにあるコンスタンティヌス凱旋門を読み解くという趣旨の講演は、まずもってその凱旋門そのものに至るまでに長大な迂回を経ていく。私たちが美術を見ていると信じつつ目にしていない様々な側面が、まずは次々に言及される。宮廷文化、軽視されてきた諸ジャンル、ビザンツ社会、イタリア絵画とオランダ絵画、修復と破壊の問題……。無色で残る古代や中世の彫刻が、当時にあっては豊かに彩色されていた事実、また近年の修復で蘇ったルネサンス絵画の色彩などをとってみても、私たちは作品を真の姿で捉えていないことは明らかだ、と。逆にそこから、そうしたすべてを総動員した美術へのアプローチが示唆される。で、いよいよ本題のコンスタンティヌス凱旋門へ……。

これがまた、トライアヌスやハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの記念碑から取った部分をもち、さらにその首をすげ替えたりしている折衷的な建造物なのだとか。そうなると、なぜそんなことになっているのかとか、その建造物が造られた当時の社会状況、文化史的な意味合い、宗教的文脈など、いろいろな面が問題になってくる。時として、いわば底流・地下水脈のほうへと降りて行かなくてはならないわけだけれど、ゼーリの講義はそういう話を目くるめく伽藍のように配置しながら進んでいく。なかなか核心的な部分にたどり着かないのだけれど、このあたり、読み応えは十分。というわけで、重層的な解読の面白さを久々に堪能中。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 – 9

«Ἐὰν δὲ», φησίν, «ἐπεγκλίνῃς σὸν νοῦν», τοῦτο ἔστιν, ἐπερείσῃς ταῖς νοεραῖς ἐπιβολαῖς εἰς τὴν πρὸς ἐκεῖνο συναφήν, καὶ οὕτως «ἐκεῖνο νοήσῃς» τὸ νοητόν, «ὥς τι νοῶν», τοῦτ᾿ ἔστι, κατὰ τι μέτρον εἴδους καὶ γνώσεως ἐπιβλητικῶς, «οὐκ ἐκεῖνο νοήσεις» · κἂν γὰρ ὧσιν αἱ τοιαῦται νοήσεις ἁπλαῖ, ἀπολείπονται τῆς τοῦ νοητοῦ ἑνιαίας ἁπλότητος καὶ εἰς δευτέρας φέρονταί τινας νοερὰς φύσεις εἰς πλῆθος ἤδη προελθούσας. Οὐδὲν γὰρ γνωστὸν δι᾿ ἐλάττονος γιγνώσκεται γνώσεως · οὐ τοίνυν οὐδὲ τὸ ὑπὲρ νοῦν, διὰ νοῦ · ἅμα γὰρ νοῦς ἐπιβάλλει τινὶ καὶ τοιόνδε λέγει τὸ νοούμενον, ὅπερ ἐστὶ τοῦ νοητοῦ δεύτερον · ἀλλ᾿ εἰ ἐν τῷ ἄνθει τοῦ ἐν ἡμῖν νοῦ τὸ νοητὸν τοῦτο νοοῦμεν, ἐπ᾿ ἄκρῳ τῆς πρώτης νοητῆς τριάδος ἱδρυνθέν, τίνι ἂν ἔτι συναφθείη μὲν πρὸς τὸ ἕν, ὅ ἐστιν ἀσύντακτον πρὸς πάντα καὶ ἀμέθεκτον;

「もしあなたが自分の知性をそちらに傾けるならば」とそれは言う。つまり、あなたが知的な直観をそれ(一者)との結びつきへと向け、かくしてあなたは認識対象を「何かを思惟するものとして」思惟するならば−−つまり、形相と知のなんらかの尺度に即し直感的に、ということだ−−、「あなたはそれを思惟しないことになる」のである。というのも、そうした思惟は、その単純さにもかかわらず、認識対象の一性の単純さからは隔たっており、なんらかの二次的な知的本性へと向かわされ、すでにして多へと進んでいるからである。なぜなら、いかなる知の対象も、低位の知によっては知られないからである。したがって、いかなるものも、知性によって知性を越えることはできないのだ。というのも、知性が何かに達し、それを知解されたものと称するやいなや、その当のものは二次的な知解対象に堕してしまう。では、もし私たちの中にある知の花において、そうした知解対象を、知解対象の最初の三対の先端に置いて思惟するのなら、あらゆる者にとって合一も参与もできない一者に、それはいかにしてなおも結びつくことができるのだろうか?

今年のロバート・バルト

今年も出ていたロバート・バルト(リュート走者)のヴァイス録音「リュートソナタ集」。もう10巻目になるのか〜。S.L.Weiss: Lute Sonatas Vol.10。今回はジャケット絵が従来のリュート奏者を描いたものではなく、帆船の絵(ピーター・モナミーの作品)。で、この絵の趣向が変わったのに合わせてか(?)、内容も少しこれまでとトーンが違うような……。従来の実に求道的な、ひたすら深く沈潜していくかのような重厚な音づくりではなく、何かその先にいきなり明るい開けた空間が現れたかのような印象。もちろん収録曲が長調なので(ソナタ28番ヘ長調「名だたる海賊」(上の帆船の絵はこれに関連してということか)、ソナタ40番ハ長調)、そのせいも若干あるだろうけれど、それにしてもどこか突きつけた明朗さを感じさせる。その後に入っているもう一曲、「ロジー伯の死を悼むトンボー」も、以前のようなただひたすら重厚な感じとは違っている。少し路線が変わってきたのかしらね。でも確かなタッチやたたみかけるような音は以前のままで、この新路線は個人的にもなにやらとてもいい感じだったりする(笑)。今後にも大いに期待。