「声と文字」

遅ればせながら読んだ大黒俊二『声と文字』(岩波書店、2010)。うーむ、これまた、中世の言語状況や文字状況を扱った名著かも(笑)。前半はカロリンガ・ルネッサンスの周辺を、二カ国語併用状況(ラテン語と俗語)という観点で整理するもの。特に文字使用の問題が中心的テーマになる。でも、あまりほかでは扱われない(気がする)、イングランドのアルフレッド王(9世紀末)の学芸復興にも焦点を当てているのが素晴らしい。この時代のいわゆる古英語が、いったんはかなり標準化されていたことなどがなかなか興味深い。後半は一転して今度は13世紀ごろからの実務文書におけるリテラシーの進展が取り上げられている。フィレンツェとかの識字率の高さはまったく驚かされるし、ラテン語こそが書字言語として俗語を文字に導いた、という興味深い指摘もある。また小型本のはしりが13世紀ごろの説教本であることとか、ミクロ流通本(ある種の私家版)の成立の話とか、いろいろ関心を惹く事象が数多く紹介されている。一面から見ると、モノ(書物、文字)との関係でヒト(言語、慣習、態度)がどう変わっていくのかに想いを馳せるための一冊、という感じで、より大きなパースペクティブを予感・待望させたりもする。

新刊ウィッシュリスト番外編

今回のウィッシュリストは厳密には「新刊」じゃないかもしれないので番外編(笑)。なにしろ「書物復権」からなので……。

これも『天使はなぜ墜落するのか』が好調だという「八木雄二氏効果」の現れかしら(?)今年の「書物復権」にはいつになく中世ものが!

勁草書房からはジョン・マレンボンの二冊。『初期中世の哲学』(J.マレンボン著、中村治訳、勁草書房、1992)と、『後期中世の哲学』(J.マレンボン著、加藤雅人訳、勁草書房、1989)。原著はそれぞれ1983年と87年に出たもの。マレンボン(Marenbon)というと、『ルートリッジ哲学史』第三巻中世哲学(“Medieval Philosophy: Routledge History of Philosophy Volume 3”)とかの編者。ほかにアベラールの概説書ボエティウスの概説書などもある。

みすず書房からは『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』(E. ジルソン著、服部英次郎ほか訳、みすず書房、1998)。エティエンヌ・ジルソンものだけれど、原典はドイツ語のよう。

それからこれは中世ではないけれど、岩波書店からも興味深い一冊が復刊。『古代文字の解読』(高津春繁、関根正雄著、岩波書店、1964)。巨匠二人による、19世紀以降の文字の解読の歴史をたどるエッセイ本らしい。いいっすねえ、こういう復刊は大歓迎。

「スアレスと形而上学の体系」 4

形而上学的な抽象知に、神学的な直観知を対立させるスコトゥスは、認識についての理論の新たな途を開いたのだという。つまりこういうこと。直観知では、精神による直接的な把持が問題になるため、対象の「現前性・実在性」(プレゼンス)は捨象される。ところがそうすると、そこから現前性・実在性に依存しない新しい「現実性」の概念が描き出されるようになる。で、はるか先のスアレスにまで至るのだ、と。というわけで、第二部第一章の中心的テーマはその直観知のリアリティだ。抽象知はかならず何かを媒介にする認識形態。当然そこにはスペキエス(認識の媒体)論の長い系譜があるわけだけれど、一方でスコトゥスは、その「スペキエスによる代示」に対して「おのずと現出する対象」を区別する。直観知が把握するのは一般にモノの本質、何性だとされるわけだけれど、そういう本質、何性は「おのずと現出する」というわけだ。でもこれは結構曖昧な規定だ。そしてこの曖昧な規定が、その後長く議論の俎上に上り、直観知をめぐる考察を深化させていくらしい。

たとえばペトルス・アウレオリ(フランシスコ会、スコトゥスの弟子?)。「知解とは一種の運動である」と考えるアウレオリは、その運動はまず「対象との対峙」という現象学的な側面をもつと考える。この現象学的な対峙に、対象の代わりとなる意志が現れるのだとし、そこに対象の現実的な現前が捨象されることを見てとる彼は、「直観知も一種の抽象知なのだ」という説を唱えるようになる。で、そこで対象を媒介するのは、現れるものの「対象性」そのものにほかならない、と彼は主張する。これはまさに一大転換で、スペキエスは「何かを担う」ものではなく、「対象として現れる」ものになる……。この説はリミニのグレゴリウスジャン・ド・リパなどの批判を経て、結果的にスペキエス概念を脱してくのだけれど、一方では精神的な事象からの客観的対象の遊離という議論も出てきて(ミドルトンのリチャードなど)、スペキエスは「偽の形象(figmentum)」という扱いになっていく。そしてこれを事実上葬るのがオッカムの唯名論ということになる。

けれどもオッカムは、経験的「現実」の直接的理解と言うだけでその内実についての議論はしていないという(うん、その話はどこか余所でも聞いた気がする)。そこで持ち出される「esse-existere(実在的存在)」という概念は、逆説的ながらガンのヘンリクスの(アヴィセンナから着想された)「esse-essentiale(本質的存在)」(本質に固有の存在を認める立場)に戻っているようにも見えると著者は指摘する。なにやらとても実在論っぽいというわけだ。その新しい「現実」を精緻化する人物としてあげられているのは、むしろサン=プルサンのドゥランドゥス(ドミニコ会)だったりする。対象がもつ真実性について考察するドゥランドゥスは、対象概念に事物の純粋な外在性ではない中間物、いわゆる縮減的有(ens diminutum)を見るという。これは14世紀以降の思想史的な流れでもあったらしい。

スアレスはというと、このドゥランドゥスの議論(中間物の議論)は斥けるものの、「対象性」を前面に出して、それをもとに真実性の文脈に位置づけるという基本的スタンスは温存しているという。結果として、スアレスの「レス」概念はまさにそうした、「対象性」に縮減された限りでの「モノ自体」なるものに帰着するのだという。スアレスは唯名論には批判的なのだけれど、そのレス概念は上のガンのヘンリクスにも似ているし、さらにはオッカムに至る唯名論サイドの議論にもやたらと近いということにもなるらしい。そのためエティエンヌ・ジルソンなどは、「スアレスの本質主義」といった言い方さえしているのだとか。うーむ、このあたり、なかなか複雑そうなだけに、ぜひ原テキストで確認したいところ。さらに、こうなってくると知性論にとどまらないスアレスの形而上学的なスタンスにも関心が出てくる。で、それがまさに次章のテーマらしい。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 – 8

Ὡς γὰρ ἐν τοῖς ἄλλοις οὐκ ἔστι νοῦς τὸ ἀκρότατον, ἀλλ᾿ ἡ ὑπὲρ νοῦν αἰτία, οὕτως ἐν ταῖς ψυχαῖς οὐκ ἔστι νοερὸν τὸ πρῶτον τῆς ἐνεργείας εἶδος, ἀλλὰ τοῦ νοῦ θειότερον · καὶ πᾶσα ψυχὴ καὶ πᾶς νοῦς ἐνεργείας ἔχει διττάς, τὰς μὲν ἑνοειδεῖς καὶ κρείττονας νοήσεως, τὰς δὲ νοητικὰς. Δεῖ οὖν ἐκεῖνο τὸ νοητὸν καὶ κατ᾿ αὐτὸ τὸ ἐνιστάμενον καὶ τὴν ὕπαρξιν νοεῖν, μύσαντα κατὰ πάσας τὰς ἄλλας ζωὰς καὶ δυνάμεις. Ὡς γὰρ νοειδεῖς γιγνόμενοι τῷ νῷ πρόσιμεν, οὕτως ἑνοειδεῖς πρὸς τὴν ἕνωσιν ἀνατρέχομεν, ἐπ᾿ ἄκρῳ τῷ οἰκείῳ στάντες νῷ · ἐπεὶ καὶ ὀφθαλμὸς οὐκ ἄλλως ὁρᾷ τὸν ἥλιον ἢ γενόμενος ἡλιοειδής, ἀλλ᾿ οὐ τῷ ἐκ πυρὸς φωτί · ᾧ καὶ δῆλον ὅτι τὸ νοεῖν ἐκεῖνο μὴ νοεῖν ἐστιν.

他の領域において最も高貴なものは知性ではなく、知性を越えた原因であるが、同じように、魂においても第一の種類の活動とは知的な活動ではなく、知性以上に神的な活動である。そもそも、あらゆる魂、あらゆる知性は二重の活動をもつ。一方は知性に勝る、一者に似た活動、もう一方は知的活動である。というわけで、ほかのあらゆる生命や可能性に目を閉ざし、そうした知解対象を、その現出において、またその現実において知解しなくてはならない。私たちは知性の姿を取るなら知性に近づくが、同じように、一者に似た姿を取るなら、われわれの内なる知性の突端に屹立し、合一へと駆け寄るのである。というのも、目は太陽の姿となることによってのみ太陽を見ることができるのであって、火から生じる光によって見ることは適わないからだ。そこから明らかなように、そうした知解対象を知解するとは、知解しないことにほかならない。

「正統派をめぐる戦い」 2

引き続き、アタナシアーディ『後期プラトン主義における正統派をめぐる戦い』からメモ。まず取り上げられているヌメニオス。アパメアが一大文化拠点となり、様々な哲学・宗教の流派が入り乱れて混在していた当時に、その地にあって、ペルシア、エジプト、バビロニアなどの宗教的伝統、ユダヤ教、キリスト教などをひとまとめにし、人間と神とを繋ぐ道の体系化を図ろうとしたのがこのヌメニオスなる人物。まさに全宗教的な神学を目指していたというわけなのだが、それだけに、属していたプラトン主義陣営の後続の人々からは不評を買っていた。反ヌメニオスの嚆矢はポルピュリオスだといい、イアンブリコス、マクロビウス、プロクロスなど、次第にその敵対関係はヒートアップしていく……と。カルデア神託との関係で言うと、ちょうど同時代的ということで、どうやら最近は、神託とヌメニオスの影響関係が双方向的にあったのではないか、という話になっているらしい。なるほどね。いずれにしても興味深いのは、なにがしかの「原点回帰」を唱えるヌメニオスが、後の時代には多分に折衷的と見なされて主たるプラトン主義陣営から排斥されていくという点。「原点回帰」ということが原理的に孕む微妙な危うさ、というところか?