ビザンツにおける「友愛」

ちょっと思うところあって、久々に友愛論がらみの論考2本ほどに目を通す。一つはM.E.ミュレット「ビザンツ:友愛の社会?」(By M. E. Mullett, ‘Byzantium: A Friendly Society?’ in “Past and Present” Vol.118:1 (1998)。ビザンツ社会(とくに神学者や宮廷などのエリート層)の一般的なイメージというと、どこか禁欲的で堅苦しい社会を思い描きがちだけれど(西欧から見たら、ということかしら?)、実は友好的な関係を重んじた社会だったという話が展開する。堅苦しさの固定観念は、一つには文献的に友愛に言及するケースが乏しいからだということなのだけれど、著者によれば、ビザンツの知識階級は古代ギリシア的な友愛の伝統を忘れておらず、友愛についての哲学的議論や賞揚は標準的なトポスとなっていたという。たとえば、友人同士の間で盛んに交わされていた書簡のやりとりは、友愛の感情にあふれたものが一般的で、中には面識はない文通友達の関係も数多くあったという。彼らは「フィリオイ(友人たち)」という言葉は盛んに使っても、あまり「フィリア(友情)」という抽象名詞はあまり使わなかったのだそうで、哲学的議論にしても、友愛とは何かということではなく、どういう人が良き友かといった話に始終しているらしい。著者はまた、ビザンツはいわゆる「コネ社会」で、「手段としての友人関係」が幅を利かせていたとも指摘する。友情の関係にはいわゆるパトロネージの関係なども含まれているのだとか。プセロスには養子がたくさんいたというけれど、これなどは一種のパトロネージ関係だったのでは、と……。

そのプセロスについてのものがもう一つの論考。ストラティス・パパイオアヌ「友情と愛についてのマイケル・プセロスの論−−11世紀コンスタンティノープルにおけるエロス的言説」(Stratis Papaioannou, ‘Michael Psellos on friendship and love: erotic discourse in eleventh-century Constantinople’ in “Early Medieval Europe” Vol.19:1 (2011)。数少ない「フィリア」への言及は、とりわけプセロスにおいて顕著だということで、その手紙の実例を通じてプセロスの性愛論に踏み込もうとしている。プセロスのやや大胆とも言える「レトリック」は、一方で当時の社会的に許容可能な枠内で読まれることを想定したものでありつつ、もう一方では社会的な基準ぎりぎりに挑んでいるのだという。エロスに彩られた友愛関係みたいな部分は、筆者が言うとおり多分に異教的。けれどもそこには、中世においてトポス化・モデル化していたらしいナジアンソスのグレゴリオスとバシレイオスの友情関係なども重ねられているのだとか。うーむ、このあたりのレトリカルな伝統はやはりすごく気になるところだ。

↓wikipedia(en)より、皇帝に教えるプセロス(左)。12から13世紀のアトス山の冊子本より