オッカムの所有権論

Webで公開されているジョン・キルカレン「財産の起源:オッカム、グロティウス、プッフェンドルフその他」(John Kilcullen, The Origin Of Property: Ockham, Grotius, Pufendorf, And Some Others, 1995-2001)という論考を見てみた。これは基本的に、17世紀のグロティウス、プッフェンドルフ、ロックなどの所有権の議論が、教皇ヨハネス22世(在位1316〜34年:オッカムへの異端審問を行った人物)によるフランシスコ会の清貧思想への批判とそれに対するオッカムの対応という歴史的事象に根ざしていることを示す論文なのだけれど、このヨハネス22世とオッカムの応酬を扱ったくだりがなかなか面白く読めた。フランシスコ会は財産をもたないことを信条としていたわけだけれど、それでも生活においてはモノを利用しないわけにはいかず、その点について自分たちは「権利上」の利用ではなく「事実上」の利用をしているだけで、自分たちが使うものは寄進者に、もしくは寄進者が放棄するなら教皇に帰属すると主張していた。で、教皇はこれに対し、「何人たりとも使用権など何らかの権利を伴わずにモノを用いることはできない」「何人たりとも使用による消費されるものを所有権(dominium)を伴わずに単に使うことはできない」と論じていた。したがってフランシスコ会は権利をいっさいの権利を免れるわけではない、というわけだ。

一方のオッカムは、『90日の所業』(同じくキルカレンによる訳業への詳細な序文が公開されている)において、まずは「権利」「利用」「消費」などの言葉の定義から厳密に規定し直していく。オッカムは権利を自然法・実定法に分け、所有権(dominium)は実定法で考える場合にのみ限定的・排他的とされて、財産の意味で使われる。しかしながら、堕罪前にはそうした限定性・排他性はなかった、そして自然法における本来のdominiumはモノを誰の許可無く使える権限だったとオッカムは考える。つまり、堕罪以後の財産の成立によって、そこにdominiumが結びついてしまったというわけだ。しかしながら、自然法の意味でのdominiumはなくなったわけではなく、それは場合により姿を現すという。たとえば所有者が許可を与えるなら、財産とdominiumの結びつきは解かれうるというふうに。したがって、フランシスコ会士らのモノを利用する自然法的な権限は所有者の許可によって解かれ、それで十分に「事実上の」利用が可能なのだ(ただし法的な権利はない)とオッカムは説く。

また消費についても、オッカムはそれを財産の意味での所有権とは切り離しうると考えている。必要があって所有者が許可するなら、消費する側はdominiumをもたないまま財を消費することは可能であるというわけだ。ヨハネス22世の側は、消費は財を毀損する場合があり、その場合はdominiumも毀損されるのだから、財とdominiumは切り離せない(所有者が譲る場合には、dominiumも譲渡される)と論じているというが、オッカムは、dominiumはもとより階層化されていて、消費されるモノには所有者だけでなく、たとえば王とか、あるいは神すらもなんらかのdominiumを有しており、もし財とdominiumが切り離せないなら、所有者が消費によって財を毀損する場合も、他の者のdominiumが毀損されることになってしまうと反論しているという。論文著者によると、オッカムの主要な論点(財産の排他性、自然法の有効性など)は基本的な部分でウィクリフ、ジャン・ジェルソン、コンラッド・ズメンハルト(15世紀)などに受け継がれていき、やがては16世紀、17世紀の論者にまで影響を及ぼしていくのだという。

↓wikipedia(en)より、オッカムの宿敵ヨハネス22世の肖像画