ヴェベール『13世紀における人格』から。第一部は13世紀の魂論についてまとめられている。中世において「人間学」が流行るのは13世紀の半ばごろなのだといい、ちょうど1250年あたりを境に(と言うと語気が強すぎるけれど)微妙に議論の中心が変わっていくのだという。要は、それ以前(つまりは12世紀)なら心身二元論が広くかつはっきりと支持されているのに、それ以後になると形相は単一か複数かといった問題が前面に出てくるというわけだ。で、第一部の前半では、まずその1250年以前の心身二元論をクローズアップしている。その典型例として、著者ヴェベールは最初にヘイルズのアレクサンダーを取り上げている。アレクサンダーが典型的なのは、魂と身体とをそれぞれ端的に別種の実体として規定しているから。この立場はもとはアウグスティヌスにまで遡れるわけなのだけれど、アレクサンダーも引用し中世において頻繁に参照されているのは、偽アウグスティヌス文書の『聖霊と魂について(De spiritu et anima)』なのだという。これはかなり厳密に心身二元論を展開したテキストのようなのだけれど、実際のところアウグスティヌスは、初期には心身二元論的な考え方だったものの、思想的な成熟期にあっては魂と身体の結びつきに力点を置いた一元論的な見解を示していたという。そのはるか後世(12世紀)においても、たとえばサン=ヴィクトルのリシャールなどが、そうした一元論的な心身の結びつきを強調したりしているというが、とはいうもののそうした成熟期のアウグスティヌス思想はどうやら受け継がれず、ひたすら二元論的議論ばかりが、ほかの新プラトン主義的伝統(マクロビウス、マメルトゥス・クラウディアヌス、カッシオドルスなどなど)でもって強化され、一般的に流布することになった……。著者は各派(サン=ヴィクトル派、シトー会系、シャルトルの一派、パリの諸派など)の代表的な論者とその見解を総覧的に列挙しているほか、ミクロコスモスとしての人間観についてもそれぞれの見識をまとめている(詳細は煩雑になるので割愛)。
エドゥアール=アンリ・ヴェベール『13世紀における人格』(Edouard-Henri Wéber, La personne humaine au XIIIe siècle, Vrin, 1991)を入手し読み始める。予想とはやや違って、これは1277年のタンピエの禁令(アヴェロエス思想の追随者などを糾弾し、パリ大学などでのアリストテレス講義を禁じた教会側の禁令)が引き起こしたある種の知的分裂を、当時の人間観(魂論や知性論など)を軸に描き出そうという一冊らしい。序文ではそのタンピエの禁令と、それに前後するアリストテレス思想の受容、禁令に至る動きなどが概観される。禁令に至る動きというのは大まかには次のような流れ。まず1210年にパリ司教会議がディナンのダヴィドのいた学芸部に対して、アリストテレスの『自然学』関係の講義を禁じ、それに呼応する形で1215年には枢機卿カーソンのロバートがカリキュラム編成を論理学だけで固め自然学を排除する。ダヴィドの場合がそうだったように、12世紀以降に刷新されたアリストテレス文献の受容において、決定的な役割を果たしたのは医学だったといい、自然学はまさしくその基礎とされ、その新しい自然観が問題とされたらしい。1210年の禁止はその後1231年ごろまでにだいぶ形骸化し、1240年代にはその新しいアリストテレス文献が定期的に講じられるようになり(ロジャー・ベーコンなど)、1255年にはパリ大学学芸部がカリキュラムを正式に変えて、アリストテレスの翻訳のほぼすべてを取り入れる方向に舵を切る。1259年にはヴァランシエンヌで開かれた説教修道会(ドミニコ会)の総会にて、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスを含む5人の委員が、哲学研究を違反行為とする旧来の決定を廃し、アラビア語の学校をスペインに開設するほか、哲学文献の研究を必要に応じて開設することなどを決定した。この後に、いよいよ保守系のパリ司教タンピエほかによる、いわば反動がやって来る……。
西欧での魔術の受容と、アラブ世界やユダヤ世界での受容は当然違うはず。となると、その違いとはどのあたりにあるのかが気になってくる。というわけで、そちら方面の関連論文を二つほど見てみた。一つはアラブ世界のピンポイント的な論文。ヘメーン=アッティラ「イブン・ワッシーヤと魔術」(Jaako Hämeen-Anttila, Ibn Wahshiyya and Magic, Anaquel de Estudios Árabes X, 1999)。イブン・ワッシーヤ(10世紀、イラク)はナバテア(北アラビアの遊牧民族)の文献を多数翻訳したという人物。一応は農学者ということになっている(のかな?)。ナバテアの文献には魔術などに関するものも多々あるといい、論文は当時の社会的な魔術の受容と絡めてイブン・ワッシーヤの立ち位置を考察している。イスラム世界ではイスマーイール派(シーア派)が神秘主義的傾向で知られているけれど、10世紀のイラクはちょうど様々な伝統的信仰(思想)への関心が高まった時期で、とりわけ新プラトン主義がもてはやされていた。イスラム教の学僧たちも土着信仰など過去の遺産の発掘に心血を注いでいた。そんなわけで、当時は社会が魔術に寛容だったらしい。とはいえ、ナバテアの異教(多神教)については、訳者のイブン・ワッシーヤはある種の距離を置かなくてはならなかったようだ。イブン・ワッシーヤは新プラトン主義的な世界観を抱き、世界において実際に作用する力として魔術を捉えていたという。自著の農業書にも魔術的な世界観が反映されているという。魔術と農業とフォークロアが渾然一体となっているギリシアのボーロス(デモクリトス)の書に影響されている可能性があるのだとか。地理的にも多様なイスラム世界の全体での魔術受容とか、歴史的経緯とかに触れているわけでないけれど、この論考は10世紀イラクの割とオープンな信仰世界を垣間見させてくれる気がする。もっと詳しく知りたいところ。
一方、ユダヤ教圏についてはより総論的な論文がちょうど紹介されている。ガブリエラ・ノール「キリスト教世界におけるユダヤ魔術」(Gabriella Knoll, Jewish Magic in a Christian World, Columbia Undergraduate Journal of History – Published Online, 2008)。中世のキリスト教世界では、様々な象徴的要素が働いてユダヤ人は魔術使いと見なされていた(キリスト教の拒否が悪魔の手先とのイメージを作ったとか、宝石商が多くいたために、石に秘められた力に詳しいとされたりとか、ユダヤ人の伝統的風習が謎めいていたりしたとか……)。実際のところユダヤ教の世界では魔術に一定の認知・理解があったわけだけれど、それはキリスト教的西欧のものとはだいぶ異なっていたらしい。まずその魔術観はまったく逆で、西欧においては自然魔術は許容され、超自然に訴えるいわゆる黒魔術が敵視されていくのに対して、ユダヤ人の場合、超自然の力を借りないような魔術こそ排除の対象になっていたという。超自然、すなわち神の力(つまりは天使の力)を借りないということは、術師自身に内在する力があることになってしまうからだ。悪魔の位置づけも違っていて、キリスト教世界が堕天使もしくは天使と人間から不自然に生まれた子などとするのに対して、ユダヤ教での悪魔は神が意図的に創造した種であるとされ、そのぶん悪の度合いが低くなっているという。で、そこからの保護のために天使の力に訴えることも許容されるのだ、と。西欧ではエリートと大衆との間で落差のある魔術観も、中世のユダヤ人社会ではさほどの差はなく、学知的な思想を中心に知識の獲得のために魔術の実践が広く共有されていたのだとか。