オーベルニュのギヨーム

オーベルニュのギヨーム(1180頃〜1249)はやはりちょっと面白い存在だ。アラブ経由のアリストテレス思想の受容にも一役買っているし、一方ではアヴィセンナに影響を受け、フランシスコ会で花開くアウグスティヌス主義の嚆矢でもあったりする。前のエントリでも触れたように、自然魔術という概念を初めて用いた人物とされていたりもする。で、このギヨームの「悪魔学」についての学位論文がPDFで読める。トマス・ベンジャミン・デ・マヨ『オーベルニュのギヨームの悪魔学』(Thomas Benjamin de Mayo, The Demonology of William of Auvergne, University of Arizona, 2006)というもの。悪魔学というとなにやら怪しげだが、ギヨームの場合は批判と警戒のために「敵を知る」という意味での学知。ギリシア・アラブ系の哲学・魔術などの文献が大量に流入した13世紀初頭にあって、魅力的な学術語や方法論が偽の信仰を導く危険を見てとったギヨームは、それに抗するべく「悪魔学」を練り上げ、古来の異教から当世の魔術・迷信まで様々な悪魔的信を説明づけ、その虚偽を暴こうと奮闘した、というわけだ。同論文は、ギヨームの生い立ちから語りおこし、当時の時代背景を描き出し、次いでその悪魔学のディテールを検証していくという体裁を取っている。

まだいわば前座の部分しか読んでいないのだけれど、当時広く共有されていたであろうとされる自然観についての説明がとりわけ興味深い。アウグスティヌスの時代から初期中世の頃までは、自然には神の目論みがあって、それが自然に内在していることが強調され、そのため奇跡もまた「自然」なのだと見なされていたという。ところが13世紀初頭にもなると、自然の現象と神が直接引き越す現象とが明確に区別されるようになり、奇跡というのは自然の予め定まった流れの中に神の力が割り込んでくることだとされるようになった。「超自然」という言葉は、近代的な意味と部分的に重なっていたと著者は指摘する。一方で自然という概念は近代のものよりもむしろ裾野が広く、一見不可思議な現象も、基体もしくは物体が隠し持っていた自然な属性の発露のように見なされたりしていた。天使、悪魔、霊などは、そうした自然の範囲内で働きかける存在とされ、真の超自然は神的な作用にのみ認められていた。で、ギヨームの時代には、自然の隠された属性を用いて通例ではない現象を起こすことが、人間にもできるとの考えが人口に膾炙するようになっていたのだという。これがいわゆる「自然魔術」なのであり、ある種の応用科学と受け止められていたのだ、と。このあたりの話は少し端的にすぎるきらいもないではないのけれど、まとめとして押さえておいて損はないでしょうね(たぶん)。

『世界の永続性について』11章

フィロポノス『世界の永続性について』(Johannes Philoponos, De aeternitate mundi, vierter teilband, Brepols, 2011)はやっと11章まで。これも長い章だけれど、質料について述べている重要な箇所。注解のもとになっているプロクロスのテキストはこんな感じだ。質料は何らかの生成を受けるものである以上、質料は生成のためにあり、生成とともにある。つまりは質料は常に形相のもとにあるわけだが、質料そのものを考えれば、それはすべてのものの生成にとっての質料となる。質料そのものには別の質料などないのだから、それは生成したものではなく、また滅することもない。したがって質料のもとにある形相も、それが織りなす世界も永続する……。

フィロポノスはまず、物体が三つの次元に規定されていることを示し、その三つの次元はいわば性質をもたない物体、物体のよりどころとなる物体(物体性)であり、基体としての無定形の質料(非物体)より後に来て、四元素よりも先んじる(論理的に)ものと考える。無定形の質料はもとより変化しないものだけれど、その質料を基体として四元素が相互に変化し流転する(水から空気へ、空気から水へなどなど)とするなら、質料が三次元の規定を受けているからこそ性質を帯びるということになる。物体となっていなければそもそも性質を帯びることなどできないからだ。さらに、たとえば体積・容量の変化(水から空気の変化では、容積が膨らむとされる)では三次元の規定そのものが変化することから、その規定には生成・消滅がありうることになる。質料そのものを取り出せばそれは永続的だとしても、物体としての規定を受けた質料(形相と結びついた質料)には、かくして生成・消滅がありうる(ゆえに物体は、世界は永続するのではない、となるわけだが)。で、この話、実に様々な角度から検討されている。上の四元素との絡みや体積・容量の話のほかにも、質料が形相を受け取る場合の制約条件、分割可能性や個体、現実態と可能態などなど、繰り返し議論が続いていく。いずれにしてもフィロポノスの場合、この質料の次元的規定は生成の原理、アルケーとして描かれているようだ。西欧中世でもペトルス・ヨハネス・オリヴィなど、質料の次元的規定を考えている論者はいるけれど、フィロポノスのはかなり網羅的でかつ徹底している印象(?)。

アルフォンソ10世と占星術

ブーデ『科学と魔術の間』は3章・4章。話は占いから12・13世紀の魔術のほうへと向かっていく。12世紀初頭、マルボデゥスの詩『宝石博覧記』(Lapidaires)が石の神秘的力を説き、また同時期のコンスタンティヌス・アフリカヌス訳のコスタ・ベン・ルカ『結びつきの自然学について』(De physicis ligaturus)が医術での魔術の利用(ほとんどプラシーボ効果の先駆のようなものだというが)を説いていたころには、まだ魔術的な作用の説明はほとんどなされていなかったという。それが学問的世界で漸進的に理論化されていく。かくして13世紀にはオーベルニュのギヨームが初めて「自然魔術」という概念を導入する。それと同時期、カスティーリャのアルフォンソ10世は『ピカトリクス』の翻訳を支援し、また同じく支援した翻訳ものの『ラジエルの書』ではユダヤ教の魔術が紹介されたりする。で、アルフォンソ10世はそうしたオカルト学のプロモーターとして一躍その名を轟かせる……。

ヘルメス主義的魔術(占星術がらみ)とソロモン流魔術(いわゆる黒魔術系)の区別とか、いろいろ興味深い話も紹介されているけれど、そのあたりをいったん置いておくと(苦笑)、13世紀の特徴となっているのはやはり、占星術や魔術の裾野が聖職者階級から世俗のほうへと広がったことだとされる。とくに君主や宮廷の中にそういった動き、たとえば占星術の政治利用などが見受けられるようになっていく。フリードリヒ2世などだけれど、その最たる存在はやはりアルフォンソ10世だったというわけで、同書の3章4章では同カスティーリャ王が繰り返し言及されている。

で、これに関連して、アレクサンドラ・ワレコ「アルフォンソ10世、占星術、および王権」(Alexandra Waleko, Ssegunt natura de los cielos e de las otras cosas spirituales: Alfonso X, Astrology, and Kingship, Haverford College, Senior Thesis Seminar, April 2011)という論文を眺めてみた。これによると、アルフォンソの収集・編纂した文献の多くは占星術関連書が占めているものの、従来のアルフォンス研究ではそのあたりのことが意外に考慮されていないという。アルフォンスの占星術への傾倒は個人的なものというよりは政治的なもので、星辰に神のメッセージを読み取るという占星術の基本的な世界観を援用し、みずからの権威・権力を正当化しようという意図があった……そのことを、当時の政治状況やら占星術の学的・社会的受容をもとに、アルフォンソが関わった書(七部法典、十字の書、八つの希望の書)の細かな分析を通して浮かび上がらせようというのが論考の主旨。若干結論が先走っている感じもしなくはないけれど、社会との関連で占星術を捉えようという点がブーデ本と呼応しあう。

↓wikipedia(en)より、『七部法典(Siete Patridas)』の細密画。中央がアルフォンソ10世。

14・15世紀の占星術史概観

再びジャン=パトリス・ブーデ『科学と魔術の間』から。第2章は占星術以外のいわゆる占い・予言についての概観。主に取り上げられているのは、まずは12世紀のソールズベリーのジョン『ポリクラティクス』。これに各種の占いの分類が示されているのだけれど、そのもとになっているのはやはりセビリャのイシドルス。とはいえそれにはなくて、『ポリクラティクス』にある新分類の占いとして、夢占い、手相、鏡占いなどがある。このうちの手相についてはギリシア語文献などもなく、起源がわかっていないそうで、西欧で最も古いのはバースのアデラードに帰されている『小手相術(Chromantia parva)』という書だという。いずれにしても、アラビア経由で入ってきた占い(土占い、へら占い、夢判断、人相占いなど)はどれも占星術に依存する関係にあるという指摘が興味深い。この章ではとくに土占いの中身が紹介されているけれど、土の上に描かれた「テーマ」の解読法は、占星術の解読法に類似している……。

ここから個人的興味に即して、いきなり第6章に飛ぶ(笑)。そちらは14・15世紀の占星術の「社会的」分析となっている。14世紀以降、占星術は天文学の発展にともないさらなる展開を見せる。特に惑星の位置に関して、13世紀のアルフォンソ天文表(チャート)はトレド天文表と拮抗する形で欧州各地に広まる。で、時期を同じくして天文学・占星術はイタリアを中心に大学の教育に組み込まれるようになる。ここでも重要なテキストとなるのはアルカビティウスの『占星術入門書(Liber introductorius)』だ。チェッコ・ダスコリ、ザクセンのヨハネス、ルイ・ド・ラングルなどが注解書を記している……。イタリアが最も盛んだというのが面白いところ。理由はどのあたりにあったのかしら……?

次に取り上げられるのは占星術師たちの社会動向。15世紀末にシモン・ド・ファールという占星術師が著した『著名占星術師文選(Recueil des plus celebres astrologues)』を紹介している。この書は、占い師が糾弾される歴史的局面にあってその擁護のために書かれたものだという。取り上げられている占星術師たちにおいて顕著なのは、「個人占星術(astrologie judiciaire)」(社会とかの大枠を占うのではなく、個人のいわゆる星占いだ)の術師たちが増加していること。そうした術師たちの多くは、聖職に就こうとしてなんらかの理由で就けなかった人々だという。医者と兼業している人々も多く含まれているものの、多くは凡庸な医者ということらしい。アーバノのピエトロなどの見解とはうらはらに、医療と占星術は実践レベルでは必ずしも結びついていたとはいえないようだという。うーむ、なるほど。やはり複雑な計算を要するホロスコープ占星術はエリートのもの、しかも主に中間層的な(?)エリートに担われていたということのようで、確かに社会的に広範に拡がりはしても(とくにイタリアなどで)、実際のところより手軽に巷でもてはやされていたのは、むしろ初期中世に流布していた月の運行ベースの占星術だったりするのだとか(とくにイングランドで)……。

↓上のLiber introductorius(Google Booksのデジタル版)の1ページ

12、13世紀の占星術史概観

ジャン=パトリス・ブーデ『科学と魔術の間:西欧中世(12〜15世紀)の占星術・予言・魔術』(Jean-Patrice Boude, Entre science et nigromance : Astrologie, divination et magie dans l’Occident médiéval (XIIe-Xve siècle), Publications de la Sorbonne, 2006)を読み始める。研究指導資格論文がベースだという大部の一冊。全体としては前半が12世紀から13世紀、後半が14世紀から15世紀で、占星術・予言・魔術の変遷をそれぞれ描いていくという感じかしら。とりあえず序章と一章を見ただけだけれど、とてもよく整理されていて合点がいく。というわけでこれも簡単にメモやまとめを記しながら読んでいくことにしよう。

序章ではダンテの『神曲』から、占い師たちが責め苦にあっている場面から説き起こす。占い・魔術の類の糾弾はたとえばセビリャのイシドルスあたりから長い伝統を形作ってはいたものの、一方で広義の占い師たちは社会的にそれなりの位置を占めていたわけだし、実際ダンテみずからも天文学・占星術的な概念的枠組みの中で詩作をしていたという事実もあり、実情はそう単純ではない……。ところが従来の研究に欠けているのは社会的な側面であり、それをも取り込んだ複眼的な視座こそが重要になる……と。

第一章では、古い占星術から「新たな」占星術への移行が主題となる。前者は11世紀ごろまでの、ギリシアからの伝統を受け継いだ比較的単純な占星術で、とりわけ医療占星術として広まっていたもの。月の運行をベースに、秘数術(アルファベット文字それぞれに恣意的な数字が割り当てられている)と簡単な計算で患者の状態を占うというものだった。ところが12世紀ごろからアラビア語文献の翻訳を通じて、より複雑で洗練された、チャートを作るタイプの占星術が拡がっていく。チャートのうち最も人気を博したのがトレドのチャートで、セビリャのヨハネス(ヨハネス・ヒスパニエンシス)とクレモナのジェラルドに帰されているのが特に有名なのだとか。マルセイユのレイモン『天体の運行の書(Liber cursuum planetarum)』がそうしたトレドのチャートを伝えているという。12世紀にはすでに翻訳ものだけでなくオリジナルの書も出てくるようになり、後にサクロボスコのヨハネス(13世紀)『天球について(『De sphera』)などの「ベストセラー」も登場する。

本文はこのあと、ホロスコープ占星術の基本についての話が、セビリャのヨハネス訳によるアルカビティウス『入門の書』の内容をもとにまとめてあり、さらにマルセイユのレイモンによる占星術擁護の議論、ホロスコープ占星術の実例などが続く。チャートを用いる占星術は、扱う要素が多様になるため、術師の自由裁量の幅が意外に大きいのだそうな。また、現存する中世のホロスコープが少ないのは、難しいせいで一部の知識人しか扱えなかったためだろうという。なるほどね。確かに複雑とうか面倒そうだ(苦笑)。13世紀ごろの革新で最も顕著なのは医療占星術で、グイエルムス・アングリクス『見えない尿について(De urina non visa)』のように尿検査を占星術的に扱った著作のほか、メルベケのギヨームやアーバノのピエトロなどによる偽ヒポクラテス『天文学(Astronomia)』の各種ラテン語訳などが出ているという。