久々に論理学系の論考を眺めてみる。カタリナ・ドゥティル・ノヴァエス「嘘つきのパラドクスの中世の解法から学ぶ、真理についての教訓」(Catarina Dutilh Novaes, Lessons on truth from Medieval Solutions to the Liar Paradox, The Philosophical Quarterly Vol.61 No.242, 2011)というもの。ブラッドワーディン、ビュリダン、ザクセンのアルベルトなどによる真理論を、「嘘つきのパラドクス」の場合を中心に概観するという内容。枝葉を端折ってメインストリームだけを追っておくと、まず著者によれば、命題の真偽解釈に量化(命題に「すべての〜」とか「ある〜」とかいった量化詞を付す)を持ち込んだ最初の中世人は、14世紀の英国の神学者ブラッドワーディンだったという。ブラッドワーディンは文(論理式)の真偽を、それぞれ文が意味する中身が「普遍量化詞」(すべて)を伴うか、それとも「存在量化詞」(少なくとも一つ)を伴うかに対応させて説明しているという。前者が真の場合で、後者は偽の場合だというわけだ。14世紀にはそうした量化詞をともなう文のヴァリアントを考えることが一般化していく。ところがこれに対してビュリダンは、共代示(co-supposition)というまったく別の枠組みから真偽問題を検討する。つまり、項の意味論にのみ注目し、主辞と賓辞の代示が同じものを指すことをもって真、そうではない場合を偽と考える。なるほどこれは実在論と唯名論の、形を変えた対立のようでもある。
しかしながらその意味論的なアプローチは、「嘘つきのパラドクス」においては問題となる。そうしたパラドクスを前に、中世の論者たちは様々な解決策を模索してきたといい、オッカムなどは単純に自己参照を禁じている。ビュリダンはこれを批判し、共代示の基準を拡張して対処しようとする。共代示は、問題の文のみならず、その文が仮構的に含意するすべての文において満たされなければならないという、強化型の共代示条件を導入するのだという。これにより「嘘つきのパラドクス」は乗り越えられるものの、今度はあらゆる文が真理表明文のようになってしまい、直観に反する結果が生じてしまう。ザクセンのアルベルトなどは(開き直ってというわけでもないだろうけれど)、むしろ積極的に、共代示理論をあらゆる文に適用しようとし、ほとんど循環論法に陥ってしまう。で、こうした難点はブラッドワーディンにも同様に見出され、そちらでは真であることの定義付けができなくなってしまう(なるほど、ビュリダンのアプローチは純粋に意味論的ながら、ブラッドワーディンのような量化的なスタンスとほぼ重なり合う)。論文の著者はそれでもなおブラッドワーディンの量化アプローチを評価できるとし、ただそれには含意による文の閉包を解く必要があるだろうと述べている。うーむ、論考が扱っている個々の議論の検証はすぐにはできないけれど、分析哲学系の読みというのは思想史的な読みとはこだわりどころが違っていて、これまた捨てがたいことを改めて確認した(笑)。