ホッパー本

中世における数のシンボリズム夏休みからのリハビリを兼ねて(笑)、ヴィンセント・ホッパー『中世における数のシンボリズム』(大木富訳、彩流社、2015)にざっと眼を通す。原著(英語)は1938年刊。訳者あとがきによると、90年代後半から2000年にかけて仏語訳や復刻版が出たりし、その流れで邦訳に至ったということらしい。なるほどこういう企画は貴重。副題(「古代バビロニアからダンテの『神曲』まで」)にあるとおり、古代から中世盛期あたりまでの数のシンボリズムを網羅的に取り上げている。全体的・俯瞰的な視座ももちろん示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、取り上げられている個々の事例がとても興味を惹く。たとえば縁起が悪いとされる13。これが不吉な数と言及される事例は、文献的には意外なことにモンテーニュ以前にはないのだそうだ。学知の世界では13は聖なる数であったといい、それを不吉と捉えるのは民間の伝統・伝承なのだろうという。あるいは長い一章が割かれ、これまた網羅的に取り上げられているダンテの数のシンボリズム。『神曲』が3の数をベースに構成されているといった話は周知のことだけれど、著者によるとその一方で至福の状態の象徴として8の数も屋台骨を支えているのだという。8は「原初の単一性への回帰」「最終的な贖い」を表すというのだが、これなどはとても興味深い論点。こういったことを見るに、できればより最新の知見・解釈なども解説という形で添えてほしかった気がする。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 9 – 10

とりあえず、ヘルメス選集XVIII章冒頭の「音楽の喩え」部分から、末尾を訳出しておく。その後の部分は次のようなかたちで神の称賛が続く。まず神は発芽や実りをもたらす太陽に喩えられ、次いで今度は父親に喩えられる。子供たちをあえて褒め称えることはしないが、子供たちの努力を静かに見守る存在だというわけだ。その後はさらに子供に相当する諸王による平定が讃えられ、王の名前がその象徴をなしているとされる。ここまでで16節。で、この章の結論部分は欠損。

9. したがって演奏家は、万物の神たるこの上なく偉大な王のほうを向くがよい。その神は常に不死であり、永遠であり、永劫の昔からすべてを司り、第一の勝利の覇者であって、そこから、勝利を受け取る後続の者たちすべての勝利がもたらされるのである……。

10. したがって、そうした称賛をもってして、言葉は私たちのもとへと降りてくるよう促されるのであり、共通の安全や平和のための諸王の統治へと捧げられるのだ。それらの王には、かつて最上位の神によって最大級の権威が付され、また神の右手の側から勝利が与えられ、あらかじめ審判も下り、戦の前から褒美も準備され、その勝利の記念は乱戦の前から建てられ、王になることのみならず最上の勇者たることも定められ、彼らは軍事行動にいたる前から野蛮人たちを恐れおののかすのである。

パノポリスのゾシモス

Les Alchimistes Grecs (Collection Des Universites De France Serie Grecque)先月末くらいからズラズラと見ていたのが、パノポリスのゾシモスのものとされる錬金術関係のテキスト(Les Alchimistes Grecs (Collection des Universités de France, Serie Grecque), tome IV, première partie, Zosime de Panopolis, mémoires authetiques, Les Belles Lettres, 2002)。ようやく一通り見終わった。ゾシモスは3世紀から4世紀初めごろの人物で、ギリシア語圏の初期の錬金術師と言われている。ちなみにパノポリスはエジプトの都市で、現在のアフミームにあたるのだそうだ。この版に収録されているテキストは、ゾシモスに帰される「真正な手記」13編の校注版。器具の説明や錬成方法の概要などに加えて、ある種の幻視などを記したものもあり、これらが微妙にオーバーラップしている様子がとても興味深い。客体の操作(金属が段階別に変成を遂げる)と主体の成立(人間も、鉛的人間とか、銀的人間とか段階別に言われる)とがパラレルに描かれ、また強いていうなら、前者から後者が導かれているような(少なくとも着想されているような)記述になっていて、とても興味深いものがある。というわけで、これも夏から秋・冬にかけて、少し時間をかけて訳出していこうかと思っている(たぶん手記1と、手記10あたり)。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 7 – 8

前にも触れたけれど、このXVIII章は基本的に王(ならびに最高位の神)を讃えることがメインモチーフとなっている。それが徐々に前面に出てくるのはこの7節以降から。

7. これはまた、私が自分が被ると感じるところのものである。いと高き方々よ。というのも、まさに今しがた私は自分の弱さを認め、少し前には自分が病弱であると感じていたが、より上位にある方の力によって、王のための歌を仕上げ、歌うことができそうだからだ。したがって、助力によって行き着く果てには諸王の栄光があるのであり、その記念碑からこそ私の言葉の熱意が生じるのである。では先に進もう。それが音楽家の望みなのだから。では急ごう。それが音楽家の意志なのだし、そのためにリュラを調弦したのだから。かくして、与えられた指示がよりよい音を求めるほどに、より甘美な調べを歌い、より心地よい曲を演奏するようになるのだから。

8. 諸王のためにこそ、音楽家はリュラを調弦し、讃える音型を用い、王からの賛辞を目的とするのである。まずはあらゆるものの最高位の王、すなわち善なる神のためにみずからを奮い立たせるのだ。歌はまず高みから始め、神の似姿において支配権をもつ第二の層へと下っていく。というのも、諸王にとってお気に入りであるのは、歌が高みから順に階層を下っていき、彼らに勝利がもたらされたその場所から、継承される希望が導かれることだからだ。

古くて新しい唯物論(物質主義)

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論青土社の『現代思想 』2015年6月号(特集=新しい唯物論)を少し遅れて読んでいるところ。特集は「新しい唯物論」となっているが、こういう表題ではいろいろな主題系をカバーできてしまうので、逆に主要な流れが見えにくいかもしれない。でも、一つには生命現象を物質的なレイヤーから考え直すという、新しいようで古い問題が中核に据えられているようだ。ちょっと面白いと思ったのは、まず藤本一勇「「新しい唯物論」方法序説(素描)」と題された文章。方法序説というよりはマニフェスト(宣言という本来の意味での)に近い気もしなくないが、生命現象へのアプローチを含めた、すごく大きなまとめと展望という感じになっている。対象の操作性から逆に主体が立ち上がってくるといった話などは、改めてとても興味深いものになりうるかも、というのが率直な印象。ちょうど今、個人的にまたも錬金術ものなどを少し見ているのだけれど、錬金術的操作とその神話的側面とのインタラクションとかを(強引の誹りを覚悟の上でだけれど)そんなふうに位置づけられないものだろうか、なんてことを漠然と考えてみたりする……。

個人的に惹かれたもう一つの論考が、森元斎「実在を巡って」。なんとホワイトヘッドの過程的実在論の再検討。なにやら来るべきものが来ているという感触(笑)。ここで中心的に取り上げられているのは、ホワイトヘッドの用いる「抱握」概念。この「相手と自分とを分離せずに、主観の意識によらず、森羅万象に普く適応できることば」(p.165)を追いかけることで、「ホワイトヘッド哲学の生成の側面を記述することが可能になる」(p.166)という。ホワイトヘッドは決して静的ではない、という新たな読み方と、そこから見えてくるホワイトヘッドに固有の「限界」(すべてが「抱握」を通して語られる以外にないとして、出来事、契機、存在、事物などすべてがその枠組みにおいて抽象的になぞるだけになってしまう、という問題が指摘されている)をも含めた新たな思想的風景(?)。その極限的なレイヤを見てしまった後で、そこからより抽象度の低いレイヤに果たして着地することなどできるのかしら、できるとしたらどう着地できるのかしら、というあたりについて、夢想がぐるぐると回っている(苦笑)。