「モスラの精神史」

堀田善衛がらみで読み始めたら、止まらなくなってしまったのが小野俊太郎『モスラの精神史』(講談社現代新書、2007)。堀田のほか、中村真一郎、福永武彦のフランス文学系作家が「モスラ」の原作小説の生みの親だということは聴いたことがあったけれど、詳しい話は知らなかったなあ。著者はその原作小説と出来上がった映画(1961年)を丹念に読み込み、そこから両作品世界が映し出している様々なレベルの意味作用を焙り出してみせる。我の怪獣に仮託された養蚕にまつわる日本的意味、モスラがいる南海の孤島の神話的意味(ザ・ピーナッツの歌うモスラの歌はインドネシア語なんだそうだ!)、モスラが国内に登場し破壊していく地誌の背景的意味などなど、どれも興味深いものばかり。サブカル(と言うと語弊があるが)的事象に、文学研究のある種の正統なメソッドを当てはめることによって、とても奥行きのある作品解読が結実するという見事な事例かしら。うん、扱う対象は違えど、これはいろいろ参考になる、というか大いに刺激を受ける(笑)。ちょっと個人的に残念だったのは、堀田への言及がことのほか少なかったこと。とはいえ、最後にはジブリの宮崎駿(堀田の作品集がジブリで再刊されているわけで)との絡みなどもあって、とても興味深かったり。

「善の研究」

これまたマリオンのアウグスティヌス論からの流れで、少し気になるところがあって西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)をずいぶん久しぶりに読み直した。言わずと知れた、西田哲学の初期のころの代表作(なにしろ初版は1911年)。で、あらためてその先進性に打たれる(笑)。主客の未分化状態へと言及する第一編「純粋経験」や第二編「実在」などはまさに「飽和した現象」に通じるし、あるいはまた、「精神」といった概念装置を外して考えれば、「統一力」といった概念などはドゥルーズ的なプロセス実在論の言い換えのように読めてしまう。第三編「善」は倫理学的考察だけれど、そこで出てくる「国家」(あるいはその次の「宗教」も)などのタームもまた、別様に読み替えていくことができるのではと空想してみたり(笑)。そういった方向での西田哲学研究の現況についてもちょっと調べてみたいところ。それにしても今見てみると、第四編「宗教」を中心に、アウグスティヌスが引かれているのはもちろんのこと、ドゥンス・スコトゥスやエックハルト、クザーヌス、ヤーコブ・ベーメなどが引き合いに出されている点もとても興味深い。あとスピノザとか。

中世のイリアス

失礼して再びガンダム話から入ろう(30周年なのでご勘弁)。最初期のガンダムがギリシアっぽいリファレンスに満ちているのはよく知られたところ。ホワイトベースを敵側は「木馬」と呼ぶし、シャアのヘルメットもどこかギリシアの軍の装備を思わせる。ZガンダムのZも「ゼータ」と読ませるし、ティターンズっていわゆるティタン(ウラノスとガイアの子たち)だし……云々。でも、戦場で一部のエリート戦士同士がライバルとして一騎打ちをするという構図は、ギリシアというよりもむしろ中世の騎馬試合のような感じでもあり(苦笑)、全体としてこれはどこか中世的プリズムを通して見たギリシア像を下敷きにしている印象を受けたりもする……。

とまあ、そんなこともあって(笑)、一度読みかけて中断してあった『イリアス–トロイア戦争をめぐる12世紀の叙事詩』(“L’Iliade – épopée du XIIe siècle sur la guerre de Troye”, trad. Francine Mora, Brepolis, 2003)を少しばかり眺め直してみる。1183年から1190年ごろに、エクセターのジョゼフという英国の聖職者が書いたラテン語の叙事詩の一部を羅仏対訳で収録した本。これの序文に、トロイア戦争の中世での受容に関してのごく簡単なまとめがある。それによると、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』のギリシア語原典がビザンツの大使からペトラルカにもたらされるのが1353年だそうで、それ以前には、1世紀ごろのラテン語訳イリアスを始めとする各種ラテン語版のトロイア戦記(4世紀から6世紀にかけてのもの)がまずあって、次に11世紀以降に詩人たちが古来のテキストをもとに詩作を始め、さらに12世紀から13世紀にかけてラテン語版の叙事詩と、それに次いで世俗語版が多数出てくるのだという。トロイア戦争ものは、「11世紀から12世紀にかけて、詩的想像力の特権的トポスになった」のだそうだ。そうした動きの背景に、12世紀ごろの都市化と識字率の高まりや、系譜への関心の高まりなどがあるという。まさに12世紀ルネサンスの中核部分を占めていたというところか。

第一節(1)

先のマリオンの論に触発されたこともあって、アウグスティヌスの『善の本性について』(De natura boni)も粗訳で眺めていくことにしよう。

Summum bonum, quo superius non est, Deus est; ac per hoc incommutabile bonum est, ideo vere aeternum et vere immortale. Caetera omnia bona non nisi ab illo sunt sed non de illo. De illo enim quod est, hoc quod ipse est; ab illo autem quae facta sunt, non sunt quod ipse. Ac per hoc, si solus ipse incommutabilis, omnia quae fecit, quia ex niholo fecit, mutabilia sunt. Tam enim omnipotens est ut possit etiam de nihilo, id est ex eo quod omnino non est, bona facere, et magna et parva, et caelestia et terrena, et spiritalia et corporalia .

それ以上にすぐれたものが存在しない至高の善、それが神である。ゆえにそれは不変の善であり、真に永遠かつ真に不滅である。他の善はすべてそこから生じる以外にないが、その一部をなしているのではない。その一部としてあるのは、みずから在るものである。逆にそこから創られたものは、みずから在るのではない。ゆえに、それだけがみずから不変であるのなら、それが創ったすべてのものは、無から創ったものであるがゆえに、変わりうる。神はかくも全能であるがゆえに、無から、つまりいっさいがないところから、大きいものだろうと小さいものだろうと、天のものだろうと地のものだろうと、霊的なものだろうと物体的なものだろうと、善を創ることができるのである。

ガンダムも30周年(笑)

閑話休題という感じだけれど、今年はMacintosh誕生から25周年なのだそうで、CNET Japanのページでも特集が。昔はMacは高かったので、何度か購入を見送り、PC-98からDellのAT互換機に乗り換えたあたりに勢いでPowerBook 160(だったかな?白黒のやつ)を購入したのが初Macとなった(そんなわけで、根っからのMacユーザではないのだが)。その後のLC630とかは、ほんの2年くらい前までいじっていた(笑)。今はiBook G3がUbuntuマシンになっているほか、メインはiMac G5で、これもちょっとくたびれてきたかな(まだまだ使えるけどね)。

○○周年といえば、アニメの『機動戦士ガンダム』も、ファースト(1年戦争のやつ)からちょうど30周年なんだそうで。サイトもあるみたい。どおりで元日に、TV神奈川でファーストの劇場版3部作を一挙放映していたわけだ(どこぞのアニメチャンネルでは、TV版43話をすべて放映したそうで)。録画して久々に見たが、とても懐かしかった(オリジナルのTV版をリアルタイムで見た世代なので)。これ、今見ても鑑賞に耐える(というか実によく出来ている)のは、メカ描写などに惑溺せず、ちゃんと人間ドラマになっていたからかしらん、と改めて思う。で、その勢いで、続編にあたる『Zガンダム』の再編集劇場版3部作もDVDで借りてみたけれど(こちらは通しで見るのは初めて)、これはちょっとついていけなかった(爆笑)。「ニュータイプを戦争の道具にしてはいけない」みたいなことを言っていたシャアが、しっかり自ら戦争の道具になっているってのも、ちょっとなあ(笑)。話もなにやら薄い感じで、どこか行き当たりばったりに戦闘が開始されるような印象。作戦もクソもないでないの。キャラクターたちの情緒不安定さ(というか、何を考えているかいまひとつわからん感じ)って、放映当時(86年くらいだっけね)のいわゆる「新人類」を上の世代が見たらこういうイメージだったかもね、とか、随所に当時の世相の反映を強く感じたり。

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