偶有的属性についての論集

フランスの著名な中世思想史家アラン・ド・リベラの還暦を記念する論集『実体を補完するもの–アラン・ド・リベラに捧げる、偶有的属性についての論集』(“Compléments de substance – Études sur les propriétés accidentelles offertes à Alain de Libera”, ed. Ch. Erismann et A. Schniewind, Vrin, 2008)を読み始める。さすがにその分野の大物だけあって、記念のエッセイと論文合わせて30本以上が寄せられている。論文はいずれも、タイトルにあるように偶有性の問題を中心とするもの。ページ数こそ限られているものの、それぞれ力の入った論考のよう。まだ最初のいくつかしか見ていないけれど、面白いものはメモしておこうか。以下まずとりあえずのメモ(笑)。

編者でもあるクリストフ・エリスマンの「偶有で説明される個体性–ポルピュリオスがたどった<キリスト教的>運命についての一考察」は、『イサゴーゲー』の差異についての解釈がその後どういう受容と変遷を辿ったかについて、ニュッサのグレゴリオスを中心にまとめたもの。ごく短い論考だけれど、とても刺激的。それによると、グレゴリオス(とそれに影響を与えたバシレイオス)は、属性をめぐるポルピュリオスのモデルを活用し、それを拡張する形で位格について論じているのだという。実体(ウーシア)を共通なもの(普遍)ととらえ、偶有にもとづく差異を位格の側に置くというのがその議論の骨子で、単に個体化は偶有によるのだとする場合の難点(偶発的事象があたかも実体以前にあるかのような解釈になってしまう)を回避しているというのだけれど、そのベースはポルピュリオスにあるという。また、あるいはボエティウスなどもグレゴリオスを経由してこの考え方を受け継いでいるのではないかとの仮説も末尾で提出している。うん、これは面白い視点だ。ちょうど、少し前に古書店で購入したバシレイオスの書簡集が手元にあるのだけれど、グレゴリオス宛ての書簡が重要なソースとして挙げられているので、これはちゃんと原文を読んでみようと思う。

今年のクリスマス向けCD

例年この時期はいろいろと注目盤とか掘り出し物のCDがあるけれど、数あるクリスマス向け企画盤のうち、今年はアルテ・ノヴァが以前出していた『Ein festliches Weihnachtskonzert – a Christmas Concert』(74321 31681 2)を聴く。先月ごろまでHMVが超格安で売っていたが、現時点では完売した模様。でもまあ、今後再版があるかもしれないし、一応取り上げておこうかな、と。で、これがまた実に秀逸な3枚組。1枚目はコレギウム・モーツァルテウム・ザルツブルクの有志らによるイタリアもの。スキアッシ、ロカテッリ、トレッリ、ヴィヴァルディ、マンフレディーニ、コレッリと続く。軽やかさはそれほどでもないけれど、逆に落ち着いた雰囲気の演奏は、ちょうど季節的にもマッチしている感じだ(この1枚目は、ちょっとだけ上のHMVのサイトで試聴できる)。2枚目はカンタータ類。演奏はハンブルク・ソロイスツ。バッハ作曲グノー編曲のアヴェ・マリアや、ドメニコ・スカルラッティのカンタータ(結構珍しいかもね)、ガルッピ、ベルンハルトなど、なかなか厚みのあるプログラム。3枚目はテレマン、ヴェルナー、サマルティーニ、ハイドンなどで、華やいで、しかも情感豊かな曲が並ぶ。いや〜なかなか聴き応えも十分。どうやらこれ、レーベルでリリースしたものの寄せ集めらしい(解説のライナーはついていない)けれど、こういう企画ものは今後も大いに歓迎したいところ。

ジャケット絵はフラーテル・フランケ(マイスター・フランケともいう)の『トマス祭壇画』から「東方三博士の礼拝」。1424年作のテンペラ画で、ハンブルク美術館所蔵とのこと。フラーテル・フランケはドメニコ会士。当時の「国際ゴシック様式」(シエナ派起源で、自然の描写などが特徴的とされる)の代表格。

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ビブリオメトリー問題

Le Monde diplomatique12月号をずらずらっと眺めていたのだけれど、巻末を飾っている記事を見て、うーん、フランスもか、という思いに……。ピエール・ジュルド「いかに『今月の研究者』になるか」という文章なのだけれど、要するにこれ、アメリカ式の研究業績評価をフランスも導入するという話で、それに対する反対運動が起きているというレポート。その場合の研究業績評価というのが、学術誌をランク分けして、ランクの高いもの順に、掲載された論文の数などで点数が決まるというやり方(さらには引用数を加味するのだとか)。この文章では「ビブリオメトリー」という用語でそれを表している。理数系では昔からある方式を、人文社会系にまで適用するというので軋轢が生じているという、すでにどこかで聞いた話(笑)。だけれど、これに各方面から反対ののろしが上がっているというところだけはさすがフランス。で、この圧力を受けて、評価を担当する研究・高等教育評価局(そんなのが出来てるんすね)はすでに、フランス文学と比較文学についてはとりあえず学術誌の格付けを保留しているとか。

反対理由の一つには、アングロサクソン系の学術誌の過大評価が挙げられている。そのため論文がそちらに集中し、結果的に評価と論文集中のスパイラルが生じる。フランス語で書かれた周辺国の学術誌などは低い評価に貶められ、二極化がますます進む……と。このあたり、学問的覇権が事実上英米に奪われていることが如実に窺える。やはり基本的に、財力(研究予算とかの)とそれに伴う象徴的権限(成果がもたらす)との相乗関係が大きく関係しているような感じはする。となると、今回の景気後退で状況は変わるかも……。なら、再度の覇権奪取に向けてフランスは(というかEUは)、米国流の定量方式に追従するのでなく、それに替わる別の評価方法を考案しないとね。定量方式でもなく、かといって徒弟制度みたいな閉鎖的なものでもない第三の道って、本当にないのかしら?

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強度論の系譜?

『現代思想』誌12月号をぱらぱらと。今年はめずらしく何冊か買っている同誌だけれど、12月号の特集は久々のドゥルーズ。けれどもやはり時は移り変わり、収録された論考の傾向も以前とはずいぶん異なっているなあ、と。やっとその実像なり本当の問題系なりに向き合う環境が整ってきたのだろう。個人的にはマヌエル・デランダ「ドゥルーズの存在論」が白眉。ドゥルーズの説くのが単なる本質主義的な実在論ではなくて、いわば抽象構造と個体の産出プロセスの実在論であるという、『意味の論理学』などに出てくる、主体を完全に排した上での個体化論の話を、俗っぽくならずに(笑)まとめあげている。その個体化プロセスで取り沙汰されるのが「強度」概念だけれど、デランダは、ドゥルーズのその概念が、本質主義の形而上学が仮定する形相重視の立場を転覆するものだとしている。「その一方で強度的な考えは、質料そのものに形態発生の力能を認め、本質主義を破壊する」という。

ちょうど最近、稲垣良典『習慣の哲学』(創文社、1981)を読んでいるところなのだけれど、「強度」(intensio)という言葉がトマスにも出ていることを知った。トマスが言うのは、行為・働きの強度ということで、それを次元的量とちからの量とに分けて考えるのだという。で、その後者が問題で、その場合の強度とは、何らかの本性または形相の分有の具合を指す用語なのだという。稲垣氏の引いているトマスの具体例では、愛徳の行為を積むことでそうした行為への適性(habilitas)が増すと、突然、より熱烈な愛の行為が生じ、行為の質に飛躍的な高まりが生じるという話が紹介され、それがいわゆる愛徳の増強(強度の高まり)なのだというように説明されている。これってほとんど創発論じゃないかしらん(笑)。ちょっとトマスのテキストそのものに当たってみないといけないけれど、形相と質料の話とは別に、こうした「強度」論という感じの系譜もたどってみれるかもね。

断章4

Τὰ καθ᾿ αὑτὰ ἀσώματα ὑποστάσει μὲν καὶ οὐσίᾳ οὐ πάρεστιν οὐδὲ συγκίρναται τοῖς σώμασι, τῇ δὲ ἐκ τῆς ῥοπῆς ὑποστάσει τινὸς δυνάμεως μεταδίδωσι προσεχοῦς τοῖς σώμασιν. ἡ γὰρ ῥοπὴ δευτέραν τινὰ δύναμιν ὑπέστησε προσεχῆ τοῖς σώμασιν.

その非物体それ自体は、物体に支えとして現れているわけでも、実体として現れているわけでもなく、物体にとけ込んでいるわけでもない。(けれども)それは、性向から生じる支えをもとに、なんらかの力を伝え、物体に連ねるのである。というのもその性向は、なんらかの二次的な力を支え、物体に連ねるからだ。

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