今回はダウランドの「蛙のガリアード」。これも名曲よね。いくつかヴァリエーションがあるといわれるけれど、これはたぶん一番よく知られているバージョン。YouTubeではなぜかギターで演奏している映像が多い。でもこちらはちゃんとリュートで弾いている。YouTube上のリュートでの「蛙のガリアード」に関する限り(というか検索できたうちでは)、演奏の美しさではほぼ最強かな(笑)。弾いているのはTrond Bengtsonというノルウェーの奏者。すばらし〜。
動物と人間?
久々に青土社の『現代思想』誌(7月号)をめくる。特集は「人間と動物の分割線」。なんだ、基本的にはデリダ関連の特集なのね。昨年秋にフランスで刊行されたデリダ晩年の講義録『獣と主権者』を受けての特集となったらしい。同書は未読だけれど、結構面白そうだということがこの雑誌の収録論文から伝わってくる。うん、同誌に限らず昔の思想誌にはそういうドライブする感じがあったよなあ、としみじみ。ま、それはともかく。
ぱらぱらとめくってみた程度だけれど、バスルームで素っ裸の状態で、飼い猫と目線が会ったときの気恥ずかしさについてデリダが語っているという話が、いくつかの論考に出てくるようだ。たとえば、晩年のデリダの動物愛護に、本来の人間中心主義批判と食い違うのではないかとの問いを掲げ、それを人間のもとにある動物的な生の問題圏(生政治)に回収しなおそうという論文(宮﨑裕助「脱構築はいかにして生政治を開始するか)や、上の気恥ずかしさを単一ではない(複数の)絶対的他者(猫もまた神々しい他者そのもの)への責任論として、あるいはその他者のために他の他者を犠牲にせざるをえないという供犠的構造の議論として読み、デリダが何度か考察しているというイサク奉献の読解へとつないでいくもの(郷原佳以「アブラハムから雄羊へ」)など。うーん、その「気恥ずかしさ」の話のミソはやっぱり素っ裸というところなんでしょうね。ジャコブ・ロゴザンスキーの論考(「屠殺への勾配路の上で」)から借りるなら、人間性と動物性とのある種の連続性を探るアリストテレスと、動物は似姿ではなく痕跡(vestigium)として神に似ている以上、あくまで人間の下位におかれるのだとするトマス・アクィナスとの、まさに狭間に置かれるという経験か(笑)。ロゴザンスキーが示してみせる第三の道は、ヒンドゥー教にインスパイアされた、動物を神聖視するというトーテミズムの古層への「回帰」(ある種の)なのだけれど、これなどはまさしく、上の二論文が示す他者への責任論、生政治論へと重なってくる。なかなかに刺激的(笑)。
……でも、こう言うと顰蹙かもしれないけど、素っ裸で飼い猫と目があっても、個人的には気恥ずかしいとは思わない気がする……。うーむ、これは困ったことだ。前提が共有できないじゃないの。求められる神経の繊細さが一段も二段も違うのか?とするなら、哲学の途はかくも長く厳しいのか?ま、とりあえずは、そのうち読んでみるとしよう、『獣と主権者』。
新刊情報(ウィッシュリスト)
いよいよ夏本番が迫っている感じ。こうなってくると夏読書のためにいろいろと用意したくなってくる。というわけで、新刊情報から。
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まずは、これまた一種の受容史らしい一冊。クレティアン・ド・トロワなど12世紀の文学作品から、ビザンティンへの中世人の思いなしを浮かび上がらせようといするものらしい。
- 『夢想のなかのビザンティウム – 中世西欧の他者認識』(根津由喜夫著、昭和堂)
- 『天使とボナヴェントゥラ – ヨーロッパ一三世紀の思想劇』(坂口ふみ著、岩波書店)
- 『トマス・アクィナスのエッセ研究』(長倉久子著、知泉書館)
- 『劇場のイデア』(ジュリオ・カミッロ著、足達薫訳、ありな書房)
- 『レオナルド・ダヴィンチの食卓』(渡辺怜子著、岩波書店)
- 『バベルの後で – 下巻』(ジョージ・スタイナー著、亀山健吉訳、法政大学出版局)
- 『中世ドイツ語圏宮廷文学と日本の王朝文学』(松村篤著、大阪公立大学共同出版会)
- 『古代ギリシア・ローマの哲学 – ケンブリッジ・コンパニオン』(D. セドレー編、内山勝利監訳、京都大学学術出版会)
次はとても面白そうな近刊。ボナヴェントゥラの天使論を追うのかしら。「思想劇」というのがとても気になる。
『神秘と学知』(メルマガのほうでお世話になっている一冊)の長倉氏によるトマスのエッセ論。エッセ研究といえば山田晶氏のものが有名だが、こちらはどのような別アプローチなのか興味津々(笑)。
こちらはルネサンスものだけれど、個人的には期待大な2冊。
次はずいぶん待った感じがする待望の下巻。上巻をはるか昔に読んだと思うのだけれど、中身はすっかり忘れている(苦笑)。
お次はブックレット。なにやら日本と西欧の比較というのも流行のようだけど、何か興味深い論点があるのかしら。
なんとあのケンブリッジ・コンパニオンのシリーズから邦訳が。これってひょっとしてシリーズ化するのかしら。そうなったらいいなあ、というわけで挙げておこう(笑)。
関係性としての三位一体……
以前読んだファルクの本で出てきたアウグスティヌスの三位一体論の要。それが「関係性」としての三位一体という話だったのだけれど、やっとそれを確認。フェリックス・マイナー社の哲学叢書の一つに、アウグスティヌス『三位一体論』(羅独対訳本)(Augustinus, “De trinitate”, u.s.Johann Kreuzer, Felix Meiner Verlag, 2003)があるのだけれど、これは抄録で、第8書から11書、14書から15書がメインなのだけれど、幸い、参考までにと第5書の一部が収録されている。関係性の三位一体論はその第5書に記されているので、とりあえず大まかなところは確認できる。確かにこれは興味深い。父が父と呼ばれるのはあくまで子に対してであり、子が子と呼ばれるのもあくまで父に対してであり、両者は関係性において成立している、というのが骨子。「人間である」「人間ではない」なんて言う場合には、その述語部分を実体的に肯定・否定しているわけだけれども、「父である」「父でない」「子である」「子でない」というような場合は実体的に肯定・否定されるのではなく、相互の関係性について肯定・否定される。けれども、実体的でないからといって重要でないわけではなく、たとえばその関係性自体は偶有的なものではないし(父と子の位相が変わるなんてことはないわけで)、またほかの友人や隣人といった関係性のように等質なものでもない。可変ではなく永続的ですらある……。
こういう議論の背景には、それまでギリシア語のμίαν οὐσίαν τρείς ὑποστάσεις(一つの実体、三つの位格)が、ラテン語でunam essentiam tres substantias(一つの本質と三つの実体)と訳されていたという事情もあったようだ。アウグスティヌスはこのunam essentiamのところを、essentiam uel substantiamと言い換えようと説いている。tres以下はtres personasにせよと(こちらについては「多くのラテン教父が言うように」とある)。さらにtres magnitudines とかtres magnosとか訳す例もあったようで、それに対しては神について大きさが異なるように言うのはおかしいとして排除している。いずれにせよ、こうして実体から関係を離すことによって、実体としての一者、関係としての三者を据えられるようになるというのが、アウグスティヌスのこの上なく見事な戦略と言えそうだ。
関西語訳(笑)
なにやらじわじわっと話題が広がっている(?)らしい、『ソクラテスの弁明 – 関西弁訳』(北口裕康訳、PARCO出版)。さっそくゲットしてみた。出だしのところをちょろっと眺めただけだけれど、これはなかなか良いんでないの?とてもこなれた訳になっている。一般向けはこれでまったくオッケーという感じ。そもそも翻訳においては、専門家向けと一般向けとで別々の訳が出るというのはある種の理想型。で、訳者も高名なセンセ(笑)とかだけでなく、誰が参入してもよろしい、みたいなのが理想型(なかなかそうなっていないところが問題なのだが)。その意味で、こうした訳出の試みには大いに賛同したいところ。
……とここまで書いてふと思ったのだけれど、これって関西語に「訳した」といういわばリライトもの?なぜそう思うかというと、原典訳にしては底本が示されておらず、参考文献ばかりずらずら載せてあるので……。うーん、ま、仮にそうだったとしても、そういうのもありかもね、という気もする。いずれにせよ、同書を読んでギリシア語原典に興味を持った人は、「Textkit」(ギリシア語・ラテン語学習支援サイト)を覗いて、ぜひルイス・ダイヤーの原典注釈本(pdf)をダウンロードしよう!(笑)