断章22 & 23

(Lamberz : 23 & 12、Creuzer=Moser : 24 & 12)

Τῆς οὐσίας ἧς ἐν ζωῇ τὸ εἶναι καὶ ἧς τὰ πάθη ζωαί, ταύτης καί ὁ θάνατος ἐν ποιᾷ ζωῇ κεῖται, οὐκ ἐν ζωῆς καθάπαξ στερήσει, ὅτι μηδὲ τὸ πάθος ἦν ὁδὸς εἰς τὴν παντελῆ ἀζωίαν ἐπ᾿ αὐτῆς.

それが生命のもとにあれば存在となり、それを受け取れば生の数々をなすような実体にあっては、死すらもなんらかの生命の一部をなすのであって、決定的な生命の欠如をなすのではない。(生命を)受け取ることもまた、生命の完全な欠如への道ではないからである。

Οὐ μόνον ἐν τοῖς ἀσωμάτοις (σώμασι) τὸ ὁμώνυμον, ἀλλὰ καὶ ἡ ζωὴ τῶν πολλαχῶς· ἄλλη γὰρ ζωὴ φυτοῦ, ἄλλη ἐμψύχου, ἄλλη νοεροῦ, ἄλλη φύσεως, ἄλλη ψυχῆς, ἄλλη νοῦ, ἄλλη τοῦ ἐπέκεινα· ζῇ γὰρ κἀκεῖνο, εἰ καὶ μηδὲν τῶν μετ᾿ αὐτὸ παραπλησίαν αὐτῷ ζωὴν κέκτηται.

同じ名前は非物体(物体?)にのみあるのではなく、生命もまた複数の名で呼ばれるものに属している。植物の生命、動物の生命、知的動物の生命、自然の生命、魂の生命、知性の生命はそれぞれ別ものだからである。超越するものの生命も別ものである。というのは、それもまた生きているからだ。たとえそれより後に生じるものは、それと同等の生命をもはや得ていないにせよ。

新刊情報(ウィッシュリスト)

久々に新刊・近刊の備忘録。

ファルマコン

うーん、これはどうなのか……。ヒルマン『麻薬の文化史』(森夏樹訳、青土社)を読んでみた。センセーショナルなタイトル。でも一応、古代ギリシア・ローマにおけるファルマコンについての概説書という感じではあるのだけれど、とにかくファルマコンを「ドラッグ」と英訳しているらしい(邦訳では「麻薬」)(笑)のがかなり気になる……。植物性の薬をなんでもかんでも今風の「麻薬」の範疇に入れてしまうのはちょっと作為的だし、そういう現代的な意味合いのドラッグに引き寄せた解釈はときに強引で、かなりの断定口調を帯びたりもし、例として示されているテキストからも逸脱した解釈になっていたりする印象……。いくつか挙げてみるなら、たとえばテオフラストスの『植物誌』とかプリニウスの『博物誌』とか、伝聞による記述も多々含まれているにもかかわらず、著者はそういう点を軽くスルーして、記述内容が「あきらかに向精神性のものだ」という点だけを強調してみせる(p.93)。ニガヨモギについてのルクレティウスの説明では、医者が子供に飲ませる(薬としてでしょう)際の話なのに、著者は「古代世界は、それを飲むことをけっしてやめなかった」と、話をすり替えてしまう(p.112)。矢毒を口にしたときのニカンドロス『毒物誌』の記述も、矢毒を英気回復薬として常用していたから中毒症状をよく知っていたのではないかと、ただ推測のみで言い放つ(p.123)。引用されるテキストとその前後の断定口調の説明文は、なんだか必ずしも呼応していないような……(苦笑)。

植物が幅広く医療行為に使われ、また一種の嗜好品にもなっていたという点はもちろん疑いえないわけだけれど、だからといってギリシア人・ローマ人をみな「麻薬常習者」(章のタイトルになっている)のように見なすのは行き過ぎだろうし、学問的な意義も感じられない……(ま、たとえばドラッグ合法化のためのイデオロギーにとっては意味があるのかもしれないが(?))。たとえば『オデュッセイア』でキュクロプスに飲ませるぶどう酒が「麻薬入り」だったと著者は状況証拠を重ねて述べるけれど(p.159)、それをもって当時麻薬がふんだんに使われていたというような議論にもっていくだけなのはちょっといただけない……。むしろより広範な古代の植物利用全般という文脈で考える筋合いのものなはず。そしてそういう文脈で考えるのなら、麻薬うんぬんという話でいたずらに煽るのではなく、たとえば植物がらみの象徴体系とか当時の魔術概念とか、もっと多面的なアプローチから(もちろん緻密に)論証してほしかったように思う。テーマはなかなか興味深いだけに、ちと惜しいんではないかしら、と。同書のベースは論文審査で書き直しを命じられた博士論文だというけれど、なんだかこの扇動ぶりを見ると、ペケをくらった理由も、著者が言うようなアカデミズムの偏狭さのせいというより、やたらと扇動的・断定的なその語り口、論述方法のせいだったのでは、なんてつい勘ぐりたくもなるというもの(笑)。

……余談だけれど、ちょうどプリニウスの『博物誌』の邦訳が刊行されている。植物編植物薬剤編(いずれも大槻真一郎訳、八坂書店刊)。これはぜひそのうち。

登攀せよ、類推の山

就寝前読書の本は、適度に面白そうだけれど実はそれほどでもない、というのがちょうど良いかも(笑)。それだと途中で放り出すこともなく、かといって眠らずに一気読みすることもない。でもたまにその中道から外れるものもある。で、久々に良い方に外れたのがルネ・ドーマル『類推の山』(巖谷國士訳、河出文庫)。すっごく遅ればせながら、一気読み。もとの邦訳は78年白水社刊ということで、文庫も初版96年だから、まあ多少ネタバレしても問題ないかな、と(笑)。これ、一種の冒険小説なのだけれど、なんだか学知探求の登攀の比喩のようにも見えてくる(笑)。通常のアプローチでは見えもしないしアクセスもできない超絶的な高さの<類推の山>。そこへの通路を、ある特殊な思弁(笑)でもって見出した一行。彼らは当然ながら、その山の登攀を計画する。そこに行くまでにもいくつもの逡巡があるのだけれど、そうして道の圏域に踏み出すと、またしても待ちかまえているのは麓での時間の無駄遣い(エントロピーですな)。それを脱して最初の小屋にまで登るも、新たなパーティにその場を受け渡すまでそこに止まらなくてはならないというルールが……。こうして登攀の行程はまだまだ先が長そうなのだが、作品は結局未完。うーん、少年老いやすく学成り難しというところか?登攀のための準備の描写がまたいい。最初、あれもこれもと荷物を詰め込む一行は、やがて結局は高度馴化が最も重要で、それを妨げるようなものをあれこれ持って行っても仕方がないということを悟るのだ。あ〜、なんだか身につまされるような気も……(笑)。

断章20 & 21

(Lamberz 9 & 17;Creuzer=Moser 9 & 18)

Ὁ θάνατος διπλοῦς, ὁ μὲν οὖν συνεγνωσμένος λυομένου τοῦ σώματος ἀπὸ τῆς ψυχῆς, ὁ δὲ τῶν φιλοσόφων λυομένης τῆς ψυχῆς ἀπὸ τοῦ σώματος· καὶ οὐ πάντως ὁ ἕτερος τῷ ἑτέρῳ ἕπεται.

死には二種類ある。一つはまさによく知られているもので、魂から身体が離れることであり、もう一つは哲学者たちが言うもので、身体から魂が離れることである。いかなる意味でも一方が他方に追従することはない。

Ἡ ψυχὴ οὐσία ἀμεγέθης, ἄυλος, ἄφθαρτος, ἐν ζωῇ παρ᾿ ἑαυτῆς ἐχούσῃ τὸ ζῆν κεκτημένη τὸ εἶναι.

魂とは、大きさもなく、質料をもたず、滅することもない実体であり、みずからが生命を担うその生において、存在をもたらすものをいう。