2008年06月13日

アーカイブ映像……

アーカイブ映像(もしくは画像)について、前半だけ目を通して積ん読状態になっていたディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(橋本一径訳、平凡社)を通読していろいろと考える。なんらかの事件のアーカイブ映像は、大多数においてたとえば「決定的瞬間」というのは映っていない。それが決定的に失われているという場合から、なんらかの形で痕跡を留めているものまで、その「強度」(逆説的に、失われているほうが強度的には上だったりする?)において大まかな等級をつけることもできるかもしれない、と。で、とりわけ西欧の近・現代史において最大の強度を持ち続けているのは、やはりショアーに関するものだ。

ディディ=ユベルマンの同書は、「知るためには自分で想像しなければならない」という一文から始まり、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドが文字通り現場から「もぎ取った」4枚の写真を手がかりに、そのフレームの外にある「想像不可能なもの」を、あえて「想像」しようと試みる。これはまさに知と想像力との狭間を綱渡りするような緊張感溢れる営為だ。これが第I部。ところがこれに、精神分析家ほかがかみつく。未曾有宇の出来事を前にして、ごくわずかな断片でしかないイメージを特権化して語らせることはあまりに驕り高ぶっている、それほどの強度をもつ出来事は、「イメージ」などもちえない、と。一見正論にも見えるこの反論に、著者は再反論を試みる。これが第II部。そうした立場は、イメージの根源的な要求である「見ることのできないものを見せるための絶え間ない試み」を貶め、それがもたらす知的検証をも封印してしまう、と。その精神分析家は逆に映画『ショアー』のアーカイブ映像の不在を特権化し、その映画監督ランズマンとともに、あらゆる「偶像」を認めず、結果的にそれがある種の宗教的権力のようなものすら導くことになる、とディディ=ユベルマンは言う。出来事の全体がフレームの外に広がっている以上、知的営為によるそこへの接近の試みは、繰り返しなされるべきでありこそすれ、決して不可能性の名のもとに封印されてよいものではない、と。同じようなことは、強度の違いはあっても、ほぼあらゆる出来事に敷衍できそうだ。「哲学者が法的には不可能であると見なすものについて、歴史家や芸術家はそのすべてに抗しての可能性を実験する」。うーむ、まさにそれは箴言。

投稿者 Masaki : 13:45

2008年01月21日

閑話休題 - Linuxその後

昨年末にVine Linuxが4.1から4.2へとマイナー・バージョンアップされていた。というわけで、年明けに古いMebiusノートのVineをアップグレードしようとして電源を入れたら……なんとまあ、液晶のバックライトが死んでいた(涙)。うーん、外部モニタを付ければ表示できるのだろうけど、なんだかそこまでする気にもならず。そんなわけで、もう1台のLibretto L2のほうのVineを4.2にアップグレードする。こちらもその後、ウィンドウマネージャをKDEやXfceに替えて(もさっと感は残るけれど、大部軽い感じがする)、多少使える環境にしてあったので、まあとりあえずアップグレード。Vineのアップグレードは、オンライン接続になっていれば、時間は多少かかるけれど基本的にaptコマンドだけで出来てしまう。なかなか便利だ(やり方は「Vine 4.2 アップグレード」とかでググればたくさん出てくるので省略(笑))。

このLibrettoのVine環境では、昨年末にいちおうEBViewというEPWING形式の辞書検索ツールを入れ、昔EBStudioで変換したランダムハウス英和やロワイヤル仏和(変換スクリプトはこちらから)、さらに羅英辞書(こちらで公開されているもの)などをコピーして、作業環境を作ってみた。けれども意外に重いのがエディタの類。Leafpadなどを入れてみたけれど、物理行での改行が入らずにだらだらと論理行で40行も50行も続くような文章だと(翻訳などの場合に結構そういうことがあるけれど)、途中から日本語入力が微妙に重くなってくる気がしてストレスがたまる。うーん、積極的活用にいまひとつ踏み切れないのだが……。

投稿者 Masaki : 22:48

2008年01月09日

料理人と大時計

学会誌やそれに類するものは、ときに特集などよりも目立たないように掲載されている論考のほうが面白かったりすることがある。最近入手した『メディエヴァル』No.49("Médiévales 49 - La Paroisse : Genèse d'une forme territoriale", PUV, 2006)もまさにそんな感じ。教会組織を例に空間理解・空間支配の問題をちょっと考えてみたいなと思って、タイトルに惹かれて購入してみたのだけれど、教区の誕生に関する論考がいくつか並んではいるものの、個人的な関心にアピールするものはあまりなかった。ところが、特集以外の小論二編がとてもよい。一つは、15世紀の科学者バルトロメオ・プラティナも評価したという、『料理術書』(Libro de arte coquinaria)の著者とされるマエストロ・マルティーノという料理人について研究動向などをまとめたもの(ブリュノ・ローリウー)。そのマルティーノ、なんと1464年から84年まで、パウロ2世とシスクトゥス4世の私設料理人だったらしいのだとか。上の料理書の著者と同一人物であるかなど、疑念は完全には払拭されていないらしいのだけれど、それにしても当時の料理人の職業的評価の高まりは、それがなおもかかえていたらしい「手仕事」を卑しいとする価値観と結びついて、両義性をいや増している感じだ。そのマルティーノの料理書も見てみたいものだが……。

もう一つは14世紀の詩人ジャン・フロワサールによる「恋人たちの大時計」という詩を取り上げて、当時隆盛しつつあった大時計の比喩を分析したもの(ジュリー・サンジェ)。脱進機(エスケープメント)の発明事情(13世紀末)や、それが世の中に及ぼした影響についても少しだけ触れられているけれど、このあたりはもっと詳しく見たいところ。フロワサールの詩は、恋する者を大時計に例えるもので、今風に考えるならちょっと「ぶっとんで」いるみたいなのだけれど、著者によれば、これはアレゴリーを通じて機械から人間へと接近するという試みとして、ある種独特なものなのだという。なるほどそうした視点から見れば、これはこれで思想史的にも興味深い問題につながっていくかもしれず、あなどれないかも……。

投稿者 Masaki : 19:18

2007年12月05日

閑話休題 - Linux

ちょっと久々にパソコン話。去る10月に旧MacのLC630をリサイクルに出して以来、押し入れに入っていた旧マシンたちに少しばかり息を吹き返させることにした。というわけで、6、7年ぶりくらいにLinuxを入れることに。昔(90年代の後半)はショップブランドマシンにFreeBSDを入れたりしてプログラミングのまねごとをしてみたりしていたけれど、最近はとんとご無沙汰。その間、PC-UNIX系もずいぶん様変わりした感じだ。特にインストールプロセスはずいぶん楽に。いきなりGUIでログインするのも気持ちいい(笑)。今回は古いVaio、古いMebius、Libretto L2がインストールするマシンたち。前2者にはUbuntu 6.06LTS(7.04や7.10はなぜかインストールが止まってしまう)が入ったが、Mebiusはなぜかイーサネットが認識されない(やっぱりDebian系はクセがあるなあ、と)。Vaioはそもそもイーサネットがないので、単純に入れてみただけ。MebiusにはVine Linux 4.1を入れ直し、これでひとまず実用にはなりそう(CPUは800MHz、メモリは384MB)。

で、苦労したのはLibretto L2。最初、もとから入っていたWindowsパーティションからインストールできるというツール(UNetbootin)でUbuntuを入れようとしたところ、なにやら途中でウンともスンとも言わなくなってしまった。ここで、やむなく再起動をかけたのがトラブルの元。このインストーラは、早い段階でブートローダーを消すくせに、自分のブートローダーは最後に入れるようで、そのため途中でやめてしまうと、ハードディスクからブートできなくなってしまう(リカバリCDでも、MBRは修正されない)。で、次の策として、あまり使わなくなったiBook G3をサーバにしてPXEブートを試みるも、AppleのPXEはちょっと特殊らしくてうまくブートできない。結局、CDからブートできるCD-ROMドライブ(東芝のOEMなので種類が限られている)をオークションで入手し、Ubuntuはやめて楽そうなVine Linux 4.1をインストールすることにした。CDでブートできても、その特殊なCD-ROMドライブは認識されないので、CDの中身は読みにいけない。そこで上のiBookをHTTPサーバにして、CDの中身をコピーし、ネットワークインストールの形で進める。で、これでめでたくインストールでき、Librettoの横長の画面にも、xorg.confというファイルを設定することで対応させることができた。ただ、マシンが非力(とくに描画が)なので、これも実用にはなりそうにない。もともと入っていたWindows 2000も重かったが、これもどっこいどっこい。かくも最近のウィンドウマネージャは重いのか……。GnomeのデスクトップはMac風で個人的には好きなのだけれどね……。

投稿者 Masaki : 22:09

2006年11月09日

中世初期の出版事情

箕輪成男『中世ヨーロッパの書物--修道院出版の九〇〇年』(出版ニュース社)に目を通す。前作『写本の社会史』もそうだったけれど、この著者が興味深いのは、出版流通の観点を保ちながら歴史を振り返っているところ。記述は卑近な例やら最近の世相などが混じり、どこか独特の語り口になっている(賛否はあるだろうけれど)。たとえば先に文庫で出たケン・フォレットの『大聖堂』(個人的には未読だけれど)は読者に一読を勧めているのに、エーコの『薔薇の名前』は何が言いたいのかわからんと酷評(笑)。けれどもそこに描かれている僧院の事情に関しては詳しくまとめていて、一応の評価をしていたり。さらに今回は、日本の中世の写本状況などに触れていて、比較研究のとっかかりになっている。そのあたりの比較文化論的な掘り下げがなされているような書籍はないかしら、とふと思ったりした。そのうち探してみようかと思う……。

投稿者 Masaki : 23:53

2005年09月06日

ループ

古楽ネタではないので、Viator musicae antiquaeではなくこちらに記しておくことにしよう。4日にNHKでウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを再放送していた。正月にもちょっとだけ見たので、今回はちらちらとしか見なかったのだけれど……うーん、この時期の再放送というのはどこか間が抜けている感じもしなくない(笑)。それでも、ちょうど渡辺裕、増田聡ほかの論集『クラシック音楽の政治学』(青弓社、2005)をざっと眺めたところだったので、いろいろ面白い。同書の第1章を飾る渡辺氏の論考は、ウィーンが音楽の都と称されるようになった背景にある政治的な意図をめぐる考察。根底にあるのは、一種の町おこしというか、観光産業的なベース。しかもそれは、歴史的には反ナチ的な動きで煽られた文化ナショナリズムに根ざしているという。ニューイヤーコンサートなどもその延長上にあり、ナチ併合の1939年末から始まったものなのだとか。『美しく青きドナウ』で3拍子の2拍目をやたら延ばす演奏の仕方も、1942年ごろからのもので、その傾向は1990年代に極端になってきているとのこと。ニューイヤーコンサートが世界的イベントになってきたことが、そういう「特徴づけ」を助長しているのでは、という話。うん、なかなか面白い。メディアによる情報の伝え方が文化政策に影響し、後者も前者に影響しループを作っていく、という実例なんだね。

投稿者 Masaki : 22:07

2004年09月23日

モバイル

長年(といっても4年ほどだが)出先で愛用してきたsigmarion II、このところスピンドル部分がちょっと危うい感じになってきた。液晶画面が特定の角度で安定しない。まだ壊れたわけではないものの、かなりほころんできた感じがする。というわけで代替品を探しはじめたはいいものの、しばらくモバイルものを追っていない間に、キーボードものは激減している事実に直面した。sigmarion IIIは在庫切れのようだし、昔はいろいろあったメール端末も軒並み消えてしまっている。ザウルスなどに親指入力のものはあるけれど、こちらが必要なのはやはり普通に打てるキーボードだったりする。ノート型PCは重いので出来れば避けたい……。出先で例えば翻訳の打ち込みをする、なんてのはある意味で特殊用途だが、それにしても選択肢が狭まっているのは困りものだ。「優劣は市場の論理にまかせておけばよい」という自由主義的な主張に反対なのは、最大公約数的な括りで製品開発がなされ、そういう特殊用途の製品が追いやられてしまうからだ。自由競争といえば聞こえはいいが、ニッチを蹴散らすことになるのは明らか。主要な製品はどれも似通い、斬新なものは大手に取り込まれ、市場は均質化していく。製品サイクルも短命化し、いよいよ飽和状態は色濃くなる。なんだかパソコンショップって、行っても面白くなくなっているし。今の自由主義が思い描く未来像って、なんだかそういうところに行き着くしかないようで空恐ろしい……。

投稿者 Masaki : 19:27

2004年08月31日

オリンピック雑感

今回のオリンピックは個人的に忙しい時期と重なって、断片的に情報を追っていただけ。開会式だけはある程度見たが、古代から現在の彫像パレードの行き着く先は機械仕掛けで下りてくる聖火台か……という、なんだかもはや肉体の先にはテクノロジーしかないような妙な印象を与えたイベントだったなあ(ビョークの歌はちょっと面白かったりしたが)。閉会式でも、女の子が息をふくと、機械的に聖火台が消えるという演出があったようだが、素朴に見えて、中身は人為的装置であることを誰もが知っているわけで……うーん、なんなのだろう、この見え透いた演出は。でも考えてみると、いいか悪いかはともかく、ある意味でこれは完成形なのかもしれないなあ、と。ドーピングも含めて、人為的な装置・環境の中に競技者は完全に取り込まれているわけで。アガンベンじゃないけれど(笑)、生は人為的装置に取り込まれ例外状態に置かれて……か?(NHKが昨日いいタイミングで放映した『オイディプス王』の、生のさだめに逆らい盲いてしまう王の姿が重なってきてしまう)

そんな中で、ギリシアの反米運動と、室伏選手が引用したピンダロス(前5世紀ごろのギリシア最大の合唱歌作者)の詩がとても印象的だ。メダルの裏には「ΜΑΤΕΡ Ω ΧΡΥΣΟΣΤΕΦΑΝΩΝ ΑΕΘΛΩΝ, ΟΛΥΜΠΙΑ,ΔΕΣΠΟΙΝ' ΑΛΑΘΕΙΑΣ」(黄金の冠を戴いた競技者たちの母、オリュンピア、真実の女王よ」と書かれているのだそうだが(解説がこちらにある)前者も後者も、アレーテイア(=アラテイア)をめぐる動きだと考えると興味深い。生の奪回、真実の奪回か。うん、ピンダロスの祝勝歌もそのうち読んでみよう。

投稿者 Masaki : 00:28

2004年08月06日

写真の凄み

「人間が行うすべてにおいて、眼と心とは関係していなくてはならない」("Bei allem was man tut, es muss eine Beziehung zwischen Auge und Herz geben".)。もとの仏語は不明だけれど、訃報が伝えられたアンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉だそうで、シュピーゲル掲載の記事に紹介されている。また、フランクフルター・アルゲマイネの記事にもいろいろ発言が引用されていて、末尾の語録には「決定的瞬間を持たないものなど、世界には何一つない」なんてのもある。うーん、こういう語録からも、HCB(こう略すんだね)の写真世界に通底するものが感じられるかも。彼のルポルタージュ写真、時になんだか異質な(異様な)時間を思わせる感じがあって、形容しがたい凄みを覚えることがある。ありふれた光景を写し出したものなんだけど、改めてよく考えてみると、どこでも見られるような光景でもなく、一体どこから、そういう「ありふれた」なんて感覚が出るのかがわからなくなるような揺さぶり。流れから切り出すこと、というか、言葉の世界では何気なく行っている捨象という行為の一端を、あからさまに見せつけられるというか。そういう部分で、写真が時間認識などの変化にどう影響してきたかなんて話なども、改めて思い返してしまったりする。「写真について語ることは何もない。眺めればよいのだ」とHCBは言うのだけれど……。

投稿者 Masaki : 19:46

2004年07月17日

書店の受難……

昨夜いきなり伝えられた青山ブックセンター(ABC)の営業停止のニュース。えらく驚いてしまった。ちょうど昨日の朝、新宿南口の店舗に行ったばかりだったし。まさかABCでの最後の買い物になるとはなあ……購入したのは今道友信著『ダンテ「神曲」講義・改訂普及版』(みすず書房)。あまり時間をかけて店内を見たわけではないのだけれど、今から思うと、店内にちょっと微妙な違和感があったのも確かだ。新刊がちょっとそろっていない感じで、ちくま新書などの新刊として立てかけてあるのが先月のものだったり、文芸誌なども最新のものではなかったり。

ABCの六本木店は学生時代からよくお世話になった。今はなき六本木WAVEやその地下の映画館に行けば、ほぼ必ずといってよいほど立ち寄った。営業停止の一報には、このところハードカバーなどの売れ行きが落ちていたなどと言われているけれど、やはり書店経営は大変なのだろう。近所でも、割と品揃えのよかった書店が「移転」という名目で店を閉じてからずいぶん経ち、ついに最近、「再開する暁にはここで発表します」みたいに書いていたWebページまで消えてしまった。雑誌とベストセラー本ばかりを扱う小さな本屋はそれでもそこそこ残っていたりするけれど、急速に減ってきているのは、大型店には及ばないけれど小さな本屋よりは品揃えのよい中規模店だという気がする。なるほど中規模店は、店舗面積が広く維持費もかさむものの、売れ筋だけでは棚を埋められないからどうしても多少はマイナーな本を置くことになり、一種の余剰在庫を抱え込むことになるというわけか。コストはかさみパフォーマンスは落ちる。これは「特徴ある本屋作り」みたいなものを安易に持ち込んで解決できることではないようにも思える(そもそも、そういう本屋作りは大型店の店内のコーナーでしかできないんじゃないかと……)。売れ筋ばかりに特化して機動力を増すか、徹底的に大型化してスケールメリットに訴えるか……するとまた二極分化が加速していく。小規模店は小規模店同士、大型店は大型店同士で似通ってくる。その先にはあるのは、どちらもまったく特徴を失い競争力も失い、共倒れ状態になることだ。うーん、なにかこの、大型店と小規模店を結ぶ別の形態とかってないものかしらん?「特色ある本屋作り」みたいなことを小型店に持ち込むなら、例えば小さな店が出店となるデパ地下みたいなものとか……?そうしたら各店が特色を出さなくてはならなくなるし、ある程度のスケールメリットも出るだろうし。そう、常設ブックフェアというか、ブックショップコンプレックスみたいなものがあればいいのになあ、と。利用者としてもそういうのは歓迎したいのだけれどね。

投稿者 Masaki : 22:57

2004年07月06日

ウリクセース

去る6月16日は、ジョイスの『ユリシーズ』が描いた1904年6月16日からちょうど百年ということで、アイルランドほかジョイスゆかりの地では、主人公ブルームの名を冠した「ブルームズ・デー」を祝ったらしい。ダブリンの公式サイト(www.rejoycedublin2004.com)もできていたが、面白かったのは先月のルモンドの特集記事。ダブリンでのガイド付きツアー同行記という風なのだけれど、いくつか興味深い話も紹介されている。例えば『ユリシーズ』の仏訳が出た1931年、ジョイスと友人たちがパリで祝ったのが「ブルームズデー」の始まりなのだそうだ。ジョイスには日時と場所へのフェティシズムがあるのだという指摘も面白い。が、なんといっても最高なのは、このガイドツアーに同行したうちの数名が「『ユリシーズ』は読み通したことがない」と語ったという下り。「なぜ読まれないのに、ジョイスは人気なんだろう?」とのジャーナリストの問いかけに、読んでないと語ったオーストラリアの婦人は、「そういう作品が作られたことを、凄いことに違いないと感じるからよ」と答えたのだという。この言い訳、なんとも見事ですな(笑)。でもこれって、作品そのものの評価の力学と、文化的事象の伝播の力学とがまったく違うことを改めて教えてくれる好例の一つ。「ブルームズデー」に限らず、一種の古典化した文化の継承は、「便乗的」にしか行えないのか……なんて思ったり(これは突き詰めていくとちょっと面白い問題かもね)。

『ユリシーズ』はもちろんオデュッセウスの物語が下敷きになっているわけだけれど(個人的には後者の方がいろいろな意味で興味深いが)、考えてみればこれだって一種の便乗。ギリシアがらみでいえば、先の映画『トロイ』(さんざんに言われているみたいだけれど、未見だ)もそうだし、アテネオリンピックも、文化的スペクタクル、文化的イベントはみんな便乗の織物だ(笑)。でもやはり、一過性の便乗ではない、原典へのアプローチこそが大事にされてほしいものだと思う。本当に面白いのは便乗から下りた先だったりするからだ。うん、ホメーロスもちゃんと読もうっと。

LiveCamめぐりシリーズその2
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5月31日のジュネーヴ。ソフトフォーカスになっているのはなぜ?

投稿者 Masaki : 20:48

2004年05月07日

ネットと書籍

Le MondeのDossierのコーナーで「インターネット:書籍の新たな機会」という特集記事を掲載している。有料の部分なので、とりあえず簡単に内容を紹介しておく。「当初の予想とは逆にe-bookはほとんど失敗し、一方でネットでの書籍販売は好調になっている。結局辞書や百科事典などの電子化にはメリットがあったが、文学的テクストや論考など全体として読まれるものは電子化に馴染んでいない。小説などの書き方には直線的なものでない新しい形も出てきているが、それでもなお文学といえるのか、という問題もある。一方で図書館では電子アーカイブが盛んになるなどの現象もある。結局、技術革新と実際の利用との時間的格差ということに尽きる……」。なんだか電子テクストを論じたいのか書籍を論じたいのか、この特集は今ひとつ論点を絞り切れていない気がするが、松下やソニーが出している読書端末などは確かに、都市生活者にとっては野暮ったいだけで(大都市の電車の中でノートパソコンを開く行為があっという間に廃れたのもそのあたりに理由がありそうだ)、ニッチな需要以上に定着するとは思えない。時間的格差などというよりも、もっと深いところに起因する問題があるんじゃないのかしら。

上の特殊の関連記事ではロジェ・シャルティエのインタビューもあって、シャルティエは次のような論点を示している。「読まれるテクストで考えれば今ほど多くの文字が読まれている時代はないが、書籍という形式には大きな挑戦が突きつけられている。とはいえ一方で電子テクストは『言説の有効性の認証』に問題があり、剽窃や著作権の問題、さらには読者の側がテクストをどう階級づけるかという問題もある」。なるほど、これは見逃せない部分だ。

投稿者 Masaki : 13:53