リンドベルイのヴァイス再び

おー、ヤコブ・リンドベルイによるヴァイスの新盤が出ていた!『シルヴィウス・ヴァイス – リュート音楽2』(Weiss: Lute Music Vol.2 – Sonatas No.39, No.50, Tombeau sur la mort de Monsieur Comte de Logy / Jakob Lindberg)。前作に続くソナタ2つ(No.39ハ長調、No.50変ロ長調)の間に「ロジー伯の死をめぐるトンボー」が挟まっているという構成。今回は前作のような16世紀の本物のピリオド楽器ではなく、英国のリュート製作家マイケル・ロウ作のスワンネック型13コースだそうだ。とても伸びやかな音。選曲もその楽器に合うものを厳選したということで、確かにとても華やかさに満ちた一枚になっている。二つのソナタと「トンボー」の沈んだ色合いの対比がすばらしい。リンドベルイのこのヴァイスは、バルトの重々しさに満ちたヴァイスでも、エグエズのラテン的な華やぐヴァイスでもなく、いわば両者の中間のよう。たおやかに朗々と歌い上げるヴァイスという感じかしら。これもまたいいっすねえ。

ビザンツ再評価

Ch.バーバー&D. ジェンキンズ編『「ニコマコス倫理学」の中世ギリシア注解書』(“Medieval Greek Commentaries on the Nicomachean Ethics”, ed. Ch, Barber & D. Jenkins, Brill, 2009)を読み始める。中世ギリシア語圏での『ニコマコス倫理学』の注解書がどんな感じなのか、ちょっと興味が湧いての購入。まだ、事実上のイントロダクションという感じのアンソニー・カルデリスの最初の論文「12世紀ビザンツの古典学」をざざっと眺めただけで、『ニコマコス倫理学』の問題には入っていないのだけれど(苦笑)、うーむ、すでにして、やはりビザンツは中世思想史においても巨大な空隙だったのだなあ、ということを改めて感じさせられる。この論集自体もそうだけれど、西欧では今やあちらこちらでビザンツ世界の再評価が始まっている感じなのかも。同論文、西欧が古代ギリシアの文献に向ける視線の在り方は、実はビザンツの学者が大枠を定めてしまっていたことなどを指摘し、また12世紀ごろのビザンツの学者たちが、イデオロギー的にも環境的にも(辞書や文法書の整備など)、古来の文献の精査に十分なだけの準備ができていたことを論じている。うーん、出てくる名前とかも、プセロスなどの有名どころ以外は初めて聞く名が多い。これは気を引き締めて臨むことにしないと(笑)。

道元……

ちょっと閑話休題的だけれど……空き時間読書(移動時間その他での)でゆるゆると眺めるつもりが、例によって一気に加速してしまったのが頼住光子『道元–自己・時間・世界はどのように成立するのか』(NHK出版、2005)。これがなかなか面白かった。『正法眼蔵』の難解なテキストの核心部を、なんとも実に鮮やかな手さばきで切り分けてみせた良書。小著ながらとても読み応えがある感じ。現代思想などでこういう分析的な解釈をするのは多々あっても、日本の古典、しかも道元にそういう道具立てで切り込んでいくというのはなかなか凄い。特に後半の、自己と時間と存在とが一種の「配列論」として扱われるところなどは圧巻。時間は客観的な軸にそって流れるのではなく、「配列」によって連続していく、その意味づけ(配列)によって世界が現成化し、同時に自己も立ち上がるのだ……と。うーん、仏教方面はあまりよく知らないし、古文のテキストもちゃんと読めないけれど(苦笑)、とても刺激的な世界が潜んでいるのだなあ、と。巻末に収められた参考文献とか見ると、フランス文学者や西欧哲学の研究者などにも道元を論じている人がいたりして、そのこともとても興味深い。

アクセント振り

古典ギリシア語作文の練習も相変わらず「基本巡り」を繰り返しているけれど(苦笑)、やはりどうもアクセンチュエイション(アクセント振り)がいまひとつ弱い。というわけで、ちょっとそれに特化した本をゲットしてみた。フィロメン・プロバート『新・古典ギリシア語アクセント簡略ガイド』Philomen Probert, “A New Short Guide to the Accentuation of Ancient Greek”, Bristol Classical Press, 2003)というもの。アクセント体系の概説に、セクションごとの練習問題が付いた結構良さそうなテキスト。この練習問題が単純ながら豊富な点が大きな利点かしら。まだ見始めた程度だけれど、概説はひたすら淡々と記述されていて、歴史的・形態論的になぜそうなっているのか、みたいな説明はあまりない。ま、それはもっと大きな文法書で学んでくれということのようだけれど。とにかく同書はひたすらアクセントの話だけ、というのが、ある意味とても好ましい(笑)。とりあえず、取っかかりとしては悪くないかな、と(?)。

劇場のイデア

記憶術関連で結構重要なジュリオ・カミッロ(16世紀)の『劇場のイデア』(足達薫訳、ありな書房)を読み始める。いやー、これを邦訳で読めるというのは素晴らしい。本文とともに、後半を占める訳者による解説もしくは論考も並行して読み進める。カミッロの生涯から始まって研究史、彼が構想した「記憶の劇場」の構造などを順にめぐっていくもの。古代や中世への参照はあまりないけれども(それがあれば論考だけで一冊になっていただろうけれど)、同時代的な連関や後世の評価などが一覧でき、とても参考になる。論考自体が、一種同時代への旅という風で興味深い。カミッロという人そのものがどこか毀誉褒貶相半ばする人物だったらしく、また実際に作られた(という証言があるというのだが)その「記憶の劇場」も、同じく評価が分かれるものだったようだ。著者が引いているツィケムスの証言によると、その劇場というのは「人はいつでもすぐにそこからあらゆる論題を引き出すことができるといいます」とされていたりして、古くはライムンドゥス・ルルスが用いた「円盤」と基本的発想は似ている感じがする。いわばルルスの円盤の図像版・立体版のようなもの?イエイツほかの再構成案というのがあるらしいけれど、実際どのようなものだったかは諸説あるらしい。

そういえば本文のほうでも、ライムンドゥス・ルルスは『遺書』(これって偽書だよね)が引かれている。「神はまずひとつのマテリア・プリマを創造し、それを三つに分割し、そのもっとも優れたっぶんで天使およびわれわれの霊魂を、その次に優れた部分で天界を、そして第三の部分でこの地上界を創造した」(p.25)。うーん、ルルスの『遺書』も確認してみないと。