被曝保護の考え方

ICRP(国際放射線防護委員会)のPublication 111というペーパー(2009年のもの)が、Webサイトからフリーダウンロード可能になっている。福島の原発問題を受けて、フリーでの公開にいたったものらしい。で、週末をかけてこれを通読してみた。どうやらこれは、文科省が福島県の児童についての許容線量を20mSv/yearとした際の典拠文書の一つらしい。けれども、このペーパーは児童について特に数値を勧告しているわけではない。緊急時の高被曝状況後の、長期的な被曝状況(人がその中で活動するという状況だ)に移行してからの被曝保護の指針として、「汚染区域内の住民の保護最適化の基準レベルは、1から20mSv/yearの低いほうから選択すべし」(p.30)と述べているだけだ。さらに「過去の事例からは、長期的な事故後状況において最適化プロセスの抑制に用いる一般的な値は、1mSv/yearであることが示されている」との但し書きもついている。ここで言う保護最適化という概念は、ただやみくもに被曝線量を低減するというのではなく、汚染地域の社会・経済活動などを考慮に入れながら線量の低減を目指すという、バランス指向の考え方(思考フレーム)。まずは当局側が採択すべきフレームであり、住民側にもその考え方を浸透させるべきフレームだ(もちろんそのためにはデータの公開も欠かせない)。なぜかというと、この勧告では、被曝保護をめぐる当局の側と住民の側の役割分担が、かなりはっきりと提示されているからだ。

フレームを作るのが当局側の一番の役割で、あとは住民側が個人責任として保護策を講じなくてはならないとされる。けれどもその際には、当局側は住民側をきちんとサポートする責務を負う。データの開示はもちろん、モニタリングや必要な措置の提示なども、やはり当局側の責務とされる。当たり前といえば当たり前な話。また一方では、具体的な保護策の策定(地域ごと、職業別などの区分)は住民側の参加で決定されなくてはならないというのも、もう一つの基本的な考え方だ。一種の被曝保護のカルチャーのようなものを、住民レベルで確立せよというわけだ。さらに、間接的にその地域や区分に関わるステークホルダー(第三者)の参加も促している。ここには、単純にトップダウンで通達される決定が必ずしもうまく機能しないという過去の事例(もちろんチェルノブイリも入っている)の経験則がある。実際、人々は汚染後も同じ土地にとどまろうとするというし(日本だけではない普遍的な反応らしい)、地域レベルで(つまりはボトムアップで)取り組みに参加できないと、それだけで無気力になってしまうといったことも言及されている。

この指針は総じて抽象的(それほど高い抽象レベルではないけれども、個別事例に直接関わらないというのがそもそものICRPの立場だという)で、ある意味理想像を描くものではあるけれど、このようにトップダウンとボトムアップを融合させるなど、現実的な面を踏まえた対応を描いてもいる。その上で、繰り返しになるけれど、当局の役割なども明確に規定しようとしている。翻って現状の政府の対応はどうか。一言でいえば、この指針の精神に沿っていない面もいくつか見られる印象だ。たとえばこの指針では、基準線量を設定したらそのモニタリングも当局の責任と規定している。けれども、福島の児童の被曝限界線量を20mSv/yearに設定した文科省は、(仮にその乱暴な設定自体を一端脇に置いておくとしても)、では学校の敷地でのモニタリングをきちんとやろうとしているだろうか?某電話会社の社長(まさにステークホルダーだ)が、「じゃあうちでガイガーカウンターを学校に配りましょう」と言うのは立派ではあるけれど、本来そうしたアクションは当局が采配しなくてはならないはず。明らかに当局の役割が、勧告の想定よりも小さいものになってしまっている。データの公開も十分とはいえず、住民側が判断できる材料が示されているとは言い難い印象だ。これでは、すでにして保護最適化のフレームを破綻させてしまっていることになる。実際の当局の対応がこの勧告に十全に準拠しているなどとは、とてもじゃないが言えないように思われる……。

ディナンのダヴィドに触れる?

少し前に取り上げたオリヴィ関連の論集『ペトルス・ヨハネス・オリヴィ – 哲学者そして神学者』から、アントニーノ・ペタジーネの論考(Antonino Petagine, ‘La materia come ens in potentia tantum. Tra la pozitione di Sigieri de Brabante e la critica di Pietro di Giovanni Olivi’)を眺めているのだけれど、オリヴィの批判を通じてブラバンのシゲルスの質料観を見るという主旨の論文ながら、その前段階としてアルベルトゥスとトマスの議論をまとめていて参考になる。で、そのアルベルトゥスの箇所で、先行する批判対象の論者としてディナンのダヴィドが出てくる。12世紀から13世紀初めごろ活動していた汎神論者。1210年に著書「クアテルヌリ」が禁書となり、パリを追われたという。アルベルトゥスとトマスによる批判を通じて知られるという、ちょっと史的な意味でも数奇な人物だ。質料論に関しては、アフロディシアスのアレクサンドロスの「エピクロス的」テーゼをもとに(んん?)、第一の基体を神と同一視し、完全なものに不完全なものが結びつくことによって存在がもたらされると考えているらしい。ちょっとよくわからないのだけれど、要は基体の原理と、存在を成立させる原理が異なり、後者が前者を指向するみたいな話のようなのだが……。なにやらこういう異質なものを見ると俄然読みたくなってくる(笑)。

主著の「クアテルヌリ」はもともと焚書にあって散逸していたらしいのだけれど、断章が1963年に校訂されているらしい。ただ、すぐには入手できないみたい(残念)。また、今すぐには確認できないけれど、『中世思想集成』13巻(盛期スコラ)に一部分(なのかしら?)の邦訳が収録されているようなので、そのうち目を通そうと思う。また1933年には、いくつかの断章を見つけたという報告論文が出ていて、これはpdfで読める(Birkenmajer Alexandre. Découverte de fragments manuscrits de David de Dinant. In: Revue néo-scolastique de philosophie. 35° année, Deuxième série, N°38, 1933. pp. 220-229.)。これを見ると、その発見作業の興奮が伝わってくるような気がする。巻末にはその断片の一部が採録されていて、とても興味深い。魂は身体から分離できないとして、一元論みたいな話が続いている。なんじゃこりゃー、とちょっといい意味での軽い興奮を覚えたり(笑)。いろいろ調べてみたい。

スアレスのスペキエス観

あまり進展していないスアレス研だけれど(苦笑)、久々に論文を読んでみる。ジェームズ・サウス「スアレスと外部感覚の問題」というもの(James South, ‘Suarez and the Problem of External Sensation’ in “Medieval Philosophy and Theology” Volume 10-2, September 2001)。スアレスが論じるきわめて細やかでわかりにくい外部由来の感覚と感覚能力、そしてスペキエスの問題を、トマスとの対比を通じて比較的明快に描き出そうというもの。トマスはスアレスが準拠するテキスト(の一つ)だけに、その違いという面をピックアップしていけば、確かに基本線が見えてきそうな気がする。けれど実際にそういう作業をするのは大変という印象。それをやってのけているところが、なかなか読み応えのある論考になっている。今回のポイントもやはりスペキエス絡みの扱いだ。まずトマスは、感覚能力を純粋に受動的な能力と見なし、そこから何かを形成するものではないと考えている。感覚能力は感覚器官に限定される能力で、感覚器官が感覚を受け取ったときにその能力が可能態から現実態になる。で、これを仲介するためにスペキエスがある。これはいわば、感覚能力が対象物の形相(感覚的形相)を質料抜きで受け取ったもの、ということになる。スペキエスには質料的な側面はないと考えるわけだ。スペキエスの受理が感覚の成立と同一視されたりもする。ところがこのままでは、物理的なプロセス(感覚が送り込まれる)から感覚的認識への移行の部分がブラックボックスのようになってしまう。これに対して挑むのがどうやらスアレスということのようだ。

スアレスはそもそも感覚能力を純粋に受動的能力とは考えず、その作用の能動的な性格を前面に打ち出す。感覚を受け取るだけとされるそのプロセスにはもっと説明を重ねる余地があるのではないか、とスアレスは見ているのだという。また、感覚が知的認識とパラレルな関係にあることを見て取るがゆえに、上の移行の部分をどう理解すべきかを改めて考えようとしてもいた、と著者はいう。そうした考察の中から、感覚的形相(スペキエス)は質料的であり、あるいは複合的なもの(形相と質料から成る)でもある、との立場が出てくる。感覚能力そのものが物体的な力である以上、それが受け取るものもまた物体に類するものでなくては都合が悪いというわけだ(トマスはこのあたりをスルーしているという)。スペキエスはこうして、(トマスの場合のように)もとの対象物よりも完成の度合いが高いものとは見なされず、単により精細(subtilitas)なものと規定される。さらに感覚器官に刻印されるスペキエスは、(単に性質という意味での)属性にすぎず、作用因としてのみ働くもの(形相因ではなく)なのだとされているらしい。

スアレスのこうした斬新な(トマスに比して)感覚論は、様々な観察事象(感覚の取捨選択など)を説明するために、トマスの議論を下敷きにしながらもそれに修正を加えていった結果らしい。もちろんブラックボックス全体を解明するにはいたっていないものの、説明可能な範囲を大きく拡大している(異論への反論も含めて)ことが、この論考から読み取れる。スアレスのテキストに向かう準備として、なかなか有益な論考だ。

↓wikipedia (en)から、Franciscus Suarezの肖像

ハイデガーのモデル

ハイデガーの技術論ということで、『技術への問い』(関口浩訳、平凡社、2009)から表題の講演を読んでみる。技術の本質について考察したハイデガーの代表的技術論だ。ハイデガーは自然を伏蔵性(Verborgenheit)から不伏蔵性へといたらしめることを「開蔵」(entbergen)と称し、これを人間が自然に向ける基本姿勢と見なす。どうやらこれは、自然の諸側面になにがしかの有益性を見出すというプロセスのことらしい。そして人間は自然の側からの「挑発」でもって、そうした開蔵を促される。なるほど、ここには相互関係があるというわけだ。で、技術はその開蔵の「ひとつのしかた」なのだという。自然はかくして人間にとっては<使えるもの>(「用象」(Bestand)という用語が当てられている)としてアフォードされ、認識される。ややこしいのは、この場合の自然、つまり<使えるもの>には人間もまた含まれてしまうということ。つまり現実的なものはすべて「用象」になってしまう。この「挑発」の構造を支えるものは何か。それがあの有名な立て組み(Gestell:同書では集-立と訳出されている)という構造だということになる。人は外的な関係の構造上、立てて組まずにはいられない、集めて立てずにはいられない、と。

ハイデガーはこの後、立て組みにもとづくこの技術という開蔵のしかたが、一つの命運として生きるしかなく、不伏蔵的なものの本質(たとえば、そのものとしての自然とか)にアクセスする可能性は閉ざされてしまうとし、人間には不伏蔵的なものを見誤る危険がつきまということを指摘する。別の開蔵のしかたはあらかじめ閉ざされているというわけか。ひとたび用象となってしまえば、対象として捉えること(つまりは本質的に理解する)はできなくなる、つまり人はもはやモノ(他の人も含めて)を使えるかどうか、どうすれば使えるようになるかでしか見なくなる……。なにやらすべてがエコノミーだ、エコノミーがすべてだとか乱暴なことをぬかすような経済学者を連想してしまう(笑)。人間を取り巻くすべてを用象にしてしまえば、結局はあらゆるものがインフレ的に一元化し脆弱にならざるをえない、ということなのだろう。

ではどうするのか。ハイデガーはここでいきなり反転的な楽観論を語り出す。危険のあるところには救うものもまた育つというのだ(出典はヘルダーリンだという)。集-立が技術を本質的に支える構造であるとするなら、そこに、本質が別の形で姿を現す可能性もあるのではないか、集-立そのものから「叶えるもの」(本質=真理の語源的解釈から出される用語だが……)という開蔵の固有性(本質)も出来するのではないか、というのだ。両者はちょうど表裏一体のような関係にあるとされているのだが、このモデルはどうなのか……。ハイデガーは、そうした裏側の本質的部分の出来を見据え、ささやかにその成長を見守るしかない、といったことを考えているようなのだが、その希望の道筋はあまりにもか弱い。この危険と希望のあまりの落差(とされを平然と語るハイデガーの淡々とした口調)にはちょっと面食らう。というか閉口してしまう。すべてが一元化し猛威を奮うような世界にあって、そのような希望もまた呑み込まれてしまわない保証はどこにもないのではないか。ハイデガー自身も「技術時代には危険は示されるのではなく、むしろなお伏蔵されるのであるが」と留保をつけているではないか。別様の開蔵の可能性は、ただlaisser-faireにまかせておいていいのか、そこにもまたなんらかのプログラムが必要なのではないか。そんなことを改めて強く思う週末読書だ……。

サヴァールの「ボルジア一族」

日本でも『チェーザレ』が人気だけれど、米国やカナダではニール・ジョーダン製作のTVシリーズ『Borgias』なんてのを放映しているそうで、さらに仏独共同製作の『Borgia』というTVシリーズも控えているという。日本の戦国時代ものではないけれど、ボルジア一族というのは歴史ものとしてやはり一定の人気がある素材らしい。で、ジョルディ・サヴァール&エスペリオンXXが毎年出しているブック付き「音楽絵巻」(と勝手に呼ばせてもらうけれど)CD集の新盤は、そのボルジア一族の歴史を音楽でもって追体験しようというもの(Medieval Classical/Dinastia Borja: Savall / Hesperion Xxi La Capela Reial De Catalunya (Hyb))。でもTVシリーズの便乗企画などではなく、実はこれ、2010年がボルジア家から輩出した聖人、フランシスコ・ボルハの生誕500年に当たるということで企画されたものらしい。例によって各国語で記されたブックと、CD3枚という長大さ。ボルジア家をめぐる年代記順に、関連しそうな曲をピックアップして構成している。基本的に各曲をじっくり聴くというよりは、曲を通じて歴史に想いを馳せていただこうという趣向。毎度のことながら、これはこれで面白い試み。今回も最初はムスリム時代のバレンシア、つまりはアラブ系の音楽から始まり、最後はフランシスコの列聖をグレゴリオ聖歌(”Pange lingua gloriosi”)で飾るという、トラッド系から聖歌、器楽曲まで幅広くこなすサヴァール一座ならではの盤となっている。ちなみに、声楽を担当するのはこれまたお馴染みラ・カペッリャ・レイアル・デ・カタルーニャ。

個人的な聴き所を挙げておくと、まずCD1ではなんといっても11曲目から14曲目まで居並ぶ、モンテカッシーノ修道院の写本から作者不詳の聖歌(以前、それらを集めたCDも出していたと思う)。CD2はジョスカン・デプレとかも入っているけれど、末尾の20曲目、作者不詳の「バレンシアのシビラ」(Sibil la Valenciana)がなかなかいい。CD3は一番盛り上がる一枚で、ルイス・ミランのファンタシアなども入っているけれど、なんといっても要所要所を押さえているのはクリストバル・デ・モラレスの宗教曲。これが全体を妙に引き締めている感じで、とても好印象だったりする。