プセロス「カルデア神託註解」 22

… Μὴ φύσεως καλέσῃς αὔτοπτον ἄγαλμα.

Αὐτοψία ἐστίν, ὅταν αὐτὸς ὁ τελούμενος τὰ θεῖα φῶτα ὁρᾷ. Εἰ δὲ οὗτος μὲν οὐδὲν ὁρῴη, ὁ δὲ τὴν τελετὴν διατιθέμενος αὐτοπτεῖ τὸ φαινόμενον, ἐποπτεία τοῦτο πρὸς τὸν τελούμενον λέγεταί. Δεῖ δὲ τὸ καλούμενον ἄγαλμα ἐν ταῖς τελεταῖς νοητὸν εἶναι καὶ σώματος παντάπασι χωριστὸν. Τὸ δὲ τῆς φύσεως μόρφωμα οὐκ ἔστι παντάπασι νοητόν· ἡ γὰρ φύσις σωμάτων ἐστὶν ὡς ἐπὶ τὸ πλεῖστον διοικητικὴ δύναμις· ¨μὴ¨ οὖν ¨καλέσῃς¨, φησίν, ἐν ταῖς τελεταῖς ¨φύσεως αὔτοπτον ἄγαλμα¨· ἐπάξει γάρ σοι μεθ᾿ ἑαυτοῦ φυσικῶν δαιμονίων μόνον πληθύν.

「(……)自然の直視の像を呼び出してはならない」

直視とは、秘儀を授かる者みずからが神の光を見るときのことをいう。もしその者がまったく見ず、一方で秘儀の儀式を執り行う者がその顕現を直視するのであれば、それは秘儀を授かる者に対する秘儀の最高の段階であると言われる。秘儀の儀式における像と呼ばれるものは、知的に理解され、あらゆる物体から分離していなくてはならない。自然の形状はまったくもって知的に理解されるものではない。なぜなら、自然は物体を司る最上の力としてあるからだ。「自然の直視の像を」秘儀の儀式において「呼び出してはならない」と述べているのは、それではみずから自然のダイモンを多数連れ出してしまうことになるからである。

Ἡ φύσις πείθει πιστεύειν εἶναι τοὺς δαίμονας ἁγνούς,
καὶ τὰ κακῆς ὕλης βλαστήματα χρηστὰ καὶ εσθλά.

Οὐχ ὅτι αὐτὴ πείθει τοῦτο, ἀλλ᾿ ὅτι κληθείσης πρὸ τῆς παρουσίας αὐτῆς πολὺς ἐπιρρεῖ δαιμόνων χορός, καὶ πολυειδεῖς προφαίνονται μορφαὶ διαμονιώδεις, ἀπὸ πάντων μὲν τῶν στοιχείων ἀνεγειρόμεναι, ἀπὸ πάντων δὲ τῶν μερῶν τοῦ σεληναίου κόσμου συγκείμεναί τε καὶ μεριζόμεναι· καὶ ἱλαραὶ καὶ χαρίεσσαι πολλάκις φαινόμεναι, φαντασίαν τινὸς ἀγαθότητος πρὸς τὸν τελούμενον ὑποκρίνονται.

「自然は、ダイモンが純粋であると信じよと諭してくる
そして悪しき質料の芽は有用かつ有効であると」

これは、自然がそれを諭すというのではなく、自然が発現する以前にそれを呼び出すと、多数のダイモンの一団が群れをなすことになり、様々な形のダイモンの力が示されてしまうということである。そうした力はあらゆる元素から集められ、月下世界のあらゆる部分から形成され、また分割される。楽しげに、また愛らしく見えるそうした力は、秘儀を授かる者に対して、見るからに善きものであるふりをするのである。

各者各様の質料観

連休の少し前にゲットした『西洋思想における「個」の概念』(慶應義塾大学出版会、2011)を、空き時間を使ってかなり雑にだけれど目を通しているところ。急逝された中川純男氏の事実上の追悼論文集とも言える一冊。個をめぐる問題について、思想史上のエポックメーカーたちを取り上げた論考でもって俯瞰しようという主旨らしい。アリストテレスの後はアウグスティヌス、トマス、スコトゥス、エックハルトときて、おそらくこの論集の主役であろうライプニッツにまでいたる。もちろん飛び石的ではあるけれど、こうした長めのスパンでの論集というのはなかなか面白い(邦語論文なので、ある種の読みにくさはあるけれど)。こういう企画はぜひいろいろなところで進めていただきたいものだと思う。

とりあえず半ば過ぎまで目を通してみたけれど、個人的な目下の関心もあって、ついつい質料形相論がらみの記述に目がいってしまう(笑)。佐藤真基子「アウグスティヌスにおける個体の可変性についての理解」では、アウグスティヌスが用いる無形質料(materia informis)なる語が、プロティノスをもとにしつつ、事物の変化に着目した表現であることを指摘していて興味深い。なるほど『告白』と並んで『ソリロキア』もやはり重要だなあ、と改めて思う。続く水田英実「個の概念に関するトマス説」では、例の「指定された質料」(materia signata)が取り上げられている。ハードディスクに比して言えば「フォーマット済み」の質料か(笑)。部分的形相・全体的形相(「人間性」など)とその指定された質料とのどこか緊張を孕んだ関係を(?)、『De Ente』のテキストから取り出してまとめてみせている。

さらに次の小川量子「ドゥンス・スコトゥスにおける個の問題」は、スコトゥスの個体化理論の概要を史的な周辺事情をも絡めてまとめ上げている。スコトゥスでは認識の問題から個体化の話に入るために、質料形相論はやや後方に位置するように思える。実際この論文でも扱いは大きくないものの、トマス的な質料による個体化(複合体の)という議論に対して、スコトゥスのは、質料には質料を「この質料」にする個体化の原理があり、形相には形相の個体化の原理があり、複合体の個体化の原理もまた別ものなのだ、とまとめている(うーむ、このあたりのテキストの解釈は結構微妙なものになる感じもするが……再検証しよう)。高橋淳友「エックハルトにおける「個」の概念」はマイモニデスとの関連でエックハルトのキータームを考察するというもので、質料形相論は出てこないようだが、逆にエックハルトの場合に質料形相論がどうなっているのか気になってきた(笑)。橋本由美子「個体と世界」はライプニッツのモナドロジー解釈。ライプニッツが質料とだけ言うときの質料は第二質料なのだというが、すると第一質料はどうなるのかということになるわけだけれど、なにやらここで、この論集を最初から見てきた読者には、これがなんだかアウグスティヌスの無形質料に重なって見えてくるような……(笑)。既視感がおりなす円環?いやいや、そこでは終わらない。論考はほかにも田子山和歌子「ライプニッツにとって個とは何であるか」、藁谷敏晴「論理的存在論について」「三段論法における単称命題の特殊性に関するライプニッツの要請について」、そしてモナドロジーの全訳(田子山訳)が続く。こうして名ばかり連休の夜も更けていく、と……。

悔い改めの哲学?

ちょっと思うところもあって、岩波文庫で最近刊行された田辺元哲学選から『懺悔道としての哲学』(藤田正勝編)を読んでいるところ。うーん、これはある意味難儀な書だ。戦前に発表された『種の論理』では、個と類の中間にあるものとして国家を「類」に重ねて、まさしく近代国家称揚を説いているのだけれど、戦後すぐに出たこちらでは、戦争への流れを止めることができなかったという痛烈な思いをにじませ、「懺悔道」なる新機軸を提唱している。ある意味とても時代の空気に密着・連動している感じで、西田哲学の、どこまでも極北をめざすみたいな超然とした方向性とはやや赴きが異なっている。序には、個人的な体験に発するその反転の動きを体系化しようとする試みだといったことが記されている。懺悔道と言われるものは要するに、個人の無力を突き詰めていくと、それは絶対的な無への帰依という形で反転され、まさしく仏教的な他力本願の思想へと昇華させることができる……ということで、一種のニヒリズム克服のプログラムであるはずなのだけれど、なにやら反転へのプログラムというよりも、そうした反転を経た後でふりかえるところから逆に西欧の哲学を斬っていくことに主眼があるように見える(それはまだ読み終えていないから?)。プログラム的な側面からすれば、おそらく自力から他力へのシフトというところがとても重要になるのだろうけれど、そのあたりはあまり詳述されてはいない印象。一方、西欧の哲学的伝統を批判するという側面では、他力の側から自力を批判するという構図で、たとえばエックハルトについて、自己の否定を通じて絶対者への帰依へといたるという面が懺悔道に一致するとしながらも、それが自力ベースの実存哲学であるという側面では懺悔道の対極にあると批判したりしている。けれどもこの両義的なエックハルト像が、ルドルフ・オットーとケーテ・オルトマンスのそれぞれの書の解釈に依存しているというあたり、なんだかなあという気がしないでもない。そんなわけでこれは、存外に扱いに困る書という印象が強い(苦笑)。おそらくこの書の真価が問われるのは、プログラム部分をより普遍的・有意義的に取り出せるかどうか(それにはむしろ、これまた同書が依拠している親鸞を読むほうがよいような気もする)、そういう読み方ができるかどうかにあるのだろうが……。