オッカムにかかった「ペラギウス主義」の嫌疑についての考察が、『ケンブルッジ・オッカム必携』(The Cambridge Companion to Ockham, ed. Paul Vincent Spade, Cambridge University Press, 1999)にあるので早速眺めてみた。15章をなすレガ・ウッド「オッカムのペラギウス主義との咎」(Rega Wood, Ockham’s Repudiation of Pelagianism, pp.350-373)。これの最初のところをまとめておこう。まずペラギウスの教説で問題になっていたのは、神の恩寵が救済にとって必要であるとされることを彼が否認し、創造それ自体が恩寵であって、人類には罪を犯さない能力が備わっている、と考えたこと。けれどもオッカムはもとより人間の本性による行為は功徳をなしえないと考えていたようで、その意味ではペラギウス的とは言えない。ではその嫌疑はどこから来たのか。オッカムは恩寵は功徳(merit)には必要だが、善行(virtue)には必ずしも必要ではないと考えているという。功徳とは永遠の生が与えられる(救済される)もととなる性質、善行とは地上世界での倫理的な行いということで、オッカムはそれらを区別し、善行に関してはペラギウス的に(というよりはむしろアリストテレス的に)、創造された人間の本性は多くの場合善くはたらくとしているわけだ(そのため、異教の者でも善行は可能だと考えている)。ところが、アウグスティヌスはこの善行についても、善をなす意志は洗礼という恩寵を通して与えられるとして、ペラギウス的な考え方を斥けている。というわけでオッカムは、アリストテレス的な善行の考え方と、アウグスティヌスの恩寵の付与の考え方を調停しなくてはならない。
オッカムはこれに、二種類の恩寵を区別して対応する。一つは超自然的な起源をもつ(つまりは神による)形相もしくはハビトゥスの注入、もう一つは功徳にもとづき神が無償で与える被造物の受け入れだ。この区別自体はすでに神学の伝統として前例があり、前者は「主導の恩寵」(operant grace)、後者は神の是認といわれる。オッカムは実のところ、この両者のいずれをも必要と認めており、ただ注がれたハビトゥスもしくは慈悲心だけでは功徳を積むには不十分だとし、また、獲得された慈悲心と注がれた慈悲心とを併せ持つことによって功徳にも、善行にも十分な条件が整うと考えているという。論文著者はこうしたことから、オッカムが主導の恩寵を否定ないしは無意味とした、と考えたアヴィニョンの裁判所主事らは明らかに誤っていたと断じている。
……これに関連して、恩寵の付与は誰が管理しうるのかという問題もオッカムの嫌疑の一部をなしているけれど(たとえば、恩寵を受ける素地を人はみずからの力で達成しうるのかとか、救霊予定はなんらかの原因によるものなのかなど)、論文後半を見ると、著者が結論づけるように、オッカムは教会の権威と部分的に見解を異にしつつも、基本的な部分では「神の自由意志は何ものにも制限されえない」と、当時としてはごく普通の反応をしているように見える。