イシドルスの時代

つい先日紹介されていたばかりの、とはいえもとは1936年の古いペーパーを読んでみた。中世史家フロイド・セイワード・リヤによるパブリックレクチャー「聖イシドルスと中世の科学」(Floyd Seyward Lear, St. Isidore and Medieval Science, The Rice Institute Pamphlet, Volume 23, Number 2, 1936)というもの。でもこれ、あまり年代を感じさせない重厚な概論になっている。百科全書的な著作『語源録』で知られるセビリャのイシドルス(7世紀)は、中世を通じて学知的な権威とされていた。今でこそこれは一応の定説だけれど、このペーパーが書かれた1930年代ごろには、どうやら中世史の研究者の間から、イシドルスのトピックの選択や扱い方に一貫性がなく批評性もない、との批判が出ていたらしい。これに対して、いわば当時のイシドルスがどんな思想的流れの中でどんな選択をし、学知をどう捉えていたかを考え直そうというのが、このペーパー全体の趣旨となる。ポイントはいくつかあり、まず一つめは、イシドルスの自然学は自然そのものの秘密というよりは、別の世界、新プラトン主義が思い描くような伝統的な「あるべき世界」へと向かっていたことが挙げられる。さらに二つめとして、文献学的伝統(ウァロやプリニウス、フラックスなどなどーーアルファベット順を用いた嚆矢はフラックスなのだとか)を重んじ、アウグスティヌスに従い世俗的知識をキリスト教に合わせようと腐心していた点がある。『語源録』などの項目の選択には、イシドルスのそうした折衷主義が関係していて、結果的に一貫性のなさを招いているのだとか。イシドルスが伝統的・保守的な学者だったことは明らかだ。これが前半の大まかなアウトライン。

後半になると、今度は新プラトン主義などの思想的流れの説明になる。百科全書的なものが重宝されていた当時にあっては、プラトンの対話編などよりもアリストテレスの教科書的な記述方式が、当時の文献志向的なマインドによりよくフィットした、なんて話もある……うーむ、そうなのかしらね。イシドルスは言葉をイデアにも似た「超越的実体」として捉えているというけれど、その背景には魔術的思考があったとされ、論考の著者は、それは自然の因果関係を十全に理解できないことに起因すると考えている。アウグスティヌスの数字の理論もイシドルスにあっては同じように神秘主義化しているのだとか。いずれにしても『語源録』が単に利便性にのみ根ざしているのではなく、そこには哲学的な基礎があった、というのは重要な指摘だし、対象へのアプローチは観察ではなくむしろ思弁に、また分析ではなくむしろ類比に立脚してはいるとはいえ、同時代的な学知は、類比を見つけるためにそれなりに観察的であったし、魔術や錬金術で自然を制御しようとする意味では実験的だったのではないか(目的とするところは世界の探査ではなく、世界の構築だったにせよ)、という著者の見解も、妙に納得いくものだったりする……。

wikipedia (en)より、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ画「セビリャのイシドルス」(1655)

プロクロスの幾何学サマリー

ちょっと所用でまた田舎へ。今回も旅のお供ということで、Loeb版の『ギリシア数学作品集』第一巻(タレスからエウクレイデスまで)(Greek Mathematical Works, Volume I: Thales to Euclid, trans. Ivor Thomas, Loeb Classical Library, 1939-2002)を携帯した。ギリシアの数学系のテキストを集めたもの。その中でとりわけ気になったのが、プロクロスによる「幾何学サマリー」。これはもともと『エウクレイデス注解』という著作の序文にあたるものらしい。幾何学がエジプトの測量術(ナイル川の氾濫のたびに土地の境界を測量しなくてはならなかった)から生まれ、それをタレスがギリシアに持ち帰り、アメリストスが受け継ぎ、ピュタゴラスが教養教育として整備したとし、その後もアナクサゴラス、オイノピデス、ヒポクラテス、テオロドス、プラトン、その他多くの名前で記されていく。各人についての記述はほんのさわり程度なので、読むこちらとしては軽いフラストレーションを味わうかも(苦笑)。でも、逆に言えば、序文として読者を誘うという意味では優れものなのかもしれない(?)。序文の書き方って、プロクロスの時代(5世紀)からさほど変わっていないということか。

外交官としての医者(4〜6世紀、東ローマ帝国)

ブロックリー「6世紀の外交官としての医者たち」(R.C.Blockeley, Doctors as Diplomats in the Sixth Century AD, Florilegium, 1980)という小論を眺める。ローマ世界では総じてそれほど地位の高くなかった医者は、4世紀以降、外交特使として派遣される例がたびたび見られたという。帝国末期の宮廷付きの医者たちは「アルキアトリ・サクリ・パラーティ(archiatri sacri palatii)」と呼ばれ、行政官として高い地位を享受していた。たとえば神学者ナジアンゾスのグレゴリオスの弟、カエサリウスなどもそういう一人で、後に属州ビティニアの財務官になっている。6世紀ごろの東ローマ帝国では、ホスロー1世のササン朝ペルシアとの和平交渉などにおいて、そうした医者たちが特使として派遣されて大いに貢献したという(ステファノス、シリア出身のウラニウス、ザカリアスなど)。ホスローの宮廷ではギリシア・ローマの伝統的な技法、とりわけ医学が重宝がられ、やがてギリシアの文献がパーレヴィ語に訳されてたりして、後の一部のアラブ世界での翻訳の基礎となったともいう……。

個人的には、ちらっと出てくるナジアンゾスのカエサリウスが気にかかる。けれど、ざっと見にはネット上にあまり詳しい説明はないみたい。詳しいのはwikipedia (en)のエントリだったりするけれど、それによると、コンスタンティウス2世とユリアヌスの宮廷付きの医師を歴任したものの、ユリアヌスの異教の復興に際してその宮廷を去り、ウァレンス帝の時代にビティニアの財務官(quaestor)になっているわけか。で、ニカエアの大地震の後に兄グレゴリオスの勧めで洗礼を受けるも、地震後の疫病で命を落とし、兄が葬儀を行ったという。兄が記した弔辞がその生涯についての主要な典拠となり(弟をキリスト教的禁欲のモデルとして讃えているという)、これがもとで弟も後に列聖されるのだとか。

10世紀末イスラムの天才的外科医

西欧が学問的に蒙昧の時代とされていた9世紀から10世紀ごろ(実はそこまで蒙昧ではなかったというのが近年の流れではあるわけだけど)、イスラム圏では植物学、薬学、化学などが開花し、医学研究が隆盛を極めていた……で、そんな中できら星のごとく登場したのが、アッ・ザフラウィーという人物。敏腕の外科医として活躍し、外科の発展に大いに貢献したほか、医学的な大著を残しているという。というわけで、この人物を紹介するアーティクルとして、モハメルド・アミン・エルゴハリー「アッ・ザフラウィー:近代外科の父」(Mohamerd Amin Elgohary, Al Zahrawi: The Father of Modern Surgery, Annals of Pediatric Surgery, vol.2, 2006)(PDFはこちら)というのを読んでみた。折しも西欧では、外科処置は床屋や肉屋の所業とされ、トゥールの公会議(813年)での「外科は医学校とすべての本物の医師により放棄されるべし」との決議がずっしりと重くのしかかっていた(?)頃合い。一方のイスラム世界では、治療や教育のための病院組織の発展(11世紀)という人類史的に重要な貢献がなされていた。そんな中でアンダルスに登場し活躍したアッ・ザフラウィーは、後に両世界の架け橋をもたらすことになる。長大な主著『処方を入手できない者のための処方の書(通称:解剖の書)』(كتاب التصريف لمن عجز عن التأليف)は、1150年にクレモナのゲラルドゥスによって翻訳され(オリジナルに描かれた器具などの挿絵ごと)、18世紀ごろまで重要な医学文献として参照されていたという。ウィリアム・ハンター(実験医学の父とされるジョン・ハンターの兄)などもそれで学んでいるのだとか。挿絵で描かれている器具の多くはザフラウィー自身の考案によるものだという。「○○の嚆矢」という事例のリストは様々で、○○の部分には脱脂綿の使用とか、血友病の説明とか、歯科矯正学的記述とか、膀胱結石の切除での鉗子の使用とかいろいろなものが入る。うーん、これはなかなか壮大だ。天才的な外科医ということで、小説とか映画とかの主人公にできたりしないかしら(なんとも月並みな発想だが)。

wikipedia (en)より、1531年のピエトロ・ダルジェラータ訳によるアッ・ザフラウィーの外科・医療器具論のページ

初期中世の時刻の算定

これも研究トピックとしてはずいぶん前からあるものだけれど、改めて取り上げておこう。スティーブン・マックラスキー「トゥールのグレゴリウス、修道院の時間管理、初期キリスト教の天文学への姿勢」(Stephen C. McCluskey, Gregory of Tours, Monastic Timekeeping, and Early Christian Attitudes to Astronomy, Isis, vol.81, No.1, 1990)という論考。科学的進展に乏しかったとされる初期中世において、それでもなお復活祭の日にち計算(コンプトゥス)は重要な案件だったわけだけれど、それに劣らず重要だったのが、修道院での聖務日課のために必要となる一日の時刻の算定。天文学的な知識を応用して夜課の時刻を定めるという考え方はカシアノス(4世紀末から5世紀)のころからすでにあり、これが著作を通じて西欧に拡がっていた。修道院は規則によって時刻を告げる責任者を特定していたが、その具体的な時刻の認識方法はまだ各人のアレンジに任されている状態だったという。

天文学的知識とはいっても、当時のものはプトレマイオスのような数学的な天文学ではなく、ヘシオドス『労働と日々』やウェルギリウス『農耕詩』がベースだったといい(あとマルティアヌス・カペラの『メルクリウスとフィロロギアの結婚』も)、そうした経験的・実務的天文知識を本質部分にまで凝縮したものだったようだ。そのあたりの事情を窺えるテキストに、トゥールのグレゴリウス(6世紀)に帰されるという『星々の運行について(De cursu stellarum)』があるのだとか。修道院規則を補完する性質の文書だということだけれど、同文書が取り上げる要素から、当時の修道院文化がどのように天文学的な実践を保持し、変容させていたかが伺い知れるのだと同論考は主張する。

当然ながら、星座の異教的・神話的記述はうまく削除され、キリスト教的な神のみがその運行を支配しているように記されているのだという。グレゴリウスの時代にはまだ異教的因習が残っていて、その結果同文献の一部写本には混淆的な記述も見られるといい、また一方では占星術的な天空の影響などを斥けようとする箇所もあるらしい。日照時間の変化について、グレゴリウスは12月の日照時間を9時間とし、6月まで規則的に一時間づつ伸びていくという単純な計算を示しているというが、これは教会のメノロギオン(聖人暦)など、地中海東側などで一般的な計算方法で、ガリア地域の土着の考え方ではないそうな。月の満ち欠けについても30日周期を採用しているというけれど、これは後のベーダの『時間の計算について』において、ウェティウス・ウァレンス(2世紀の占星術師)によるものとされている、と。季節によって夜課の長さを調節するなどの指示とか、核心部分となる星座位置の(やや大雑把な)図や説明など、『星々の運行について』はなかなか実用的な興味深いテキストのようだが、重要なのはやはり、東方的な影響が随所に見られることだという。そうなると、グレゴリウスが果たして実際の観察にもとづいて同文献を記したのか、それともむしろ古典的な文献などをそのまま採用したのかという疑問が出てくるけれど、これについて論文著者は、星座の位置関係と日の出の時間の統計学的解析から、それらが当時のトゥールに該当するものであるとして、前者の見解を採用している。うーむ、なかなか渋いぜ、この研究は。

wikipedia (en)より、「幾何学者としての神」−−13世紀半ばの『道徳的聖書』(Bible moralisée)の扉絵