つい先日紹介されていたばかりの、とはいえもとは1936年の古いペーパーを読んでみた。中世史家フロイド・セイワード・リヤによるパブリックレクチャー「聖イシドルスと中世の科学」(Floyd Seyward Lear, St. Isidore and Medieval Science, The Rice Institute Pamphlet, Volume 23, Number 2, 1936)というもの。でもこれ、あまり年代を感じさせない重厚な概論になっている。百科全書的な著作『語源録』で知られるセビリャのイシドルス(7世紀)は、中世を通じて学知的な権威とされていた。今でこそこれは一応の定説だけれど、このペーパーが書かれた1930年代ごろには、どうやら中世史の研究者の間から、イシドルスのトピックの選択や扱い方に一貫性がなく批評性もない、との批判が出ていたらしい。これに対して、いわば当時のイシドルスがどんな思想的流れの中でどんな選択をし、学知をどう捉えていたかを考え直そうというのが、このペーパー全体の趣旨となる。ポイントはいくつかあり、まず一つめは、イシドルスの自然学は自然そのものの秘密というよりは、別の世界、新プラトン主義が思い描くような伝統的な「あるべき世界」へと向かっていたことが挙げられる。さらに二つめとして、文献学的伝統(ウァロやプリニウス、フラックスなどなどーーアルファベット順を用いた嚆矢はフラックスなのだとか)を重んじ、アウグスティヌスに従い世俗的知識をキリスト教に合わせようと腐心していた点がある。『語源録』などの項目の選択には、イシドルスのそうした折衷主義が関係していて、結果的に一貫性のなさを招いているのだとか。イシドルスが伝統的・保守的な学者だったことは明らかだ。これが前半の大まかなアウトライン。
ブロックリー「6世紀の外交官としての医者たち」(R.C.Blockeley, Doctors as Diplomats in the Sixth Century AD, Florilegium, 1980)という小論を眺める。ローマ世界では総じてそれほど地位の高くなかった医者は、4世紀以降、外交特使として派遣される例がたびたび見られたという。帝国末期の宮廷付きの医者たちは「アルキアトリ・サクリ・パラーティ(archiatri sacri palatii)」と呼ばれ、行政官として高い地位を享受していた。たとえば神学者ナジアンゾスのグレゴリオスの弟、カエサリウスなどもそういう一人で、後に属州ビティニアの財務官になっている。6世紀ごろの東ローマ帝国では、ホスロー1世のササン朝ペルシアとの和平交渉などにおいて、そうした医者たちが特使として派遣されて大いに貢献したという(ステファノス、シリア出身のウラニウス、ザカリアスなど)。ホスローの宮廷ではギリシア・ローマの伝統的な技法、とりわけ医学が重宝がられ、やがてギリシアの文献がパーレヴィ語に訳されてたりして、後の一部のアラブ世界での翻訳の基礎となったともいう……。
西欧が学問的に蒙昧の時代とされていた9世紀から10世紀ごろ(実はそこまで蒙昧ではなかったというのが近年の流れではあるわけだけど)、イスラム圏では植物学、薬学、化学などが開花し、医学研究が隆盛を極めていた……で、そんな中できら星のごとく登場したのが、アッ・ザフラウィーという人物。敏腕の外科医として活躍し、外科の発展に大いに貢献したほか、医学的な大著を残しているという。というわけで、この人物を紹介するアーティクルとして、モハメルド・アミン・エルゴハリー「アッ・ザフラウィー:近代外科の父」(Mohamerd Amin Elgohary, Al Zahrawi: The Father of Modern Surgery, Annals of Pediatric Surgery, vol.2, 2006)(PDFはこちら)というのを読んでみた。折しも西欧では、外科処置は床屋や肉屋の所業とされ、トゥールの公会議(813年)での「外科は医学校とすべての本物の医師により放棄されるべし」との決議がずっしりと重くのしかかっていた(?)頃合い。一方のイスラム世界では、治療や教育のための病院組織の発展(11世紀)という人類史的に重要な貢献がなされていた。そんな中でアンダルスに登場し活躍したアッ・ザフラウィーは、後に両世界の架け橋をもたらすことになる。長大な主著『処方を入手できない者のための処方の書(通称:解剖の書)』(كتاب التصريف لمن عجز عن التأليف)は、1150年にクレモナのゲラルドゥスによって翻訳され(オリジナルに描かれた器具などの挿絵ごと)、18世紀ごろまで重要な医学文献として参照されていたという。ウィリアム・ハンター(実験医学の父とされるジョン・ハンターの兄)などもそれで学んでいるのだとか。挿絵で描かれている器具の多くはザフラウィー自身の考案によるものだという。「○○の嚆矢」という事例のリストは様々で、○○の部分には脱脂綿の使用とか、血友病の説明とか、歯科矯正学的記述とか、膀胱結石の切除での鉗子の使用とかいろいろなものが入る。うーん、これはなかなか壮大だ。天才的な外科医ということで、小説とか映画とかの主人公にできたりしないかしら(なんとも月並みな発想だが)。
これも研究トピックとしてはずいぶん前からあるものだけれど、改めて取り上げておこう。スティーブン・マックラスキー「トゥールのグレゴリウス、修道院の時間管理、初期キリスト教の天文学への姿勢」(Stephen C. McCluskey, Gregory of Tours, Monastic Timekeeping, and Early Christian Attitudes to Astronomy, Isis, vol.81, No.1, 1990)という論考。科学的進展に乏しかったとされる初期中世において、それでもなお復活祭の日にち計算(コンプトゥス)は重要な案件だったわけだけれど、それに劣らず重要だったのが、修道院での聖務日課のために必要となる一日の時刻の算定。天文学的な知識を応用して夜課の時刻を定めるという考え方はカシアノス(4世紀末から5世紀)のころからすでにあり、これが著作を通じて西欧に拡がっていた。修道院は規則によって時刻を告げる責任者を特定していたが、その具体的な時刻の認識方法はまだ各人のアレンジに任されている状態だったという。