レヴィナスの他者論

村上靖彦『レヴィナスーー壊れものとしての人間』(河出ブックス、2012)を読む。この著者の、言語化以前の層を現象学的に探るというテーマの源泉が、レヴィナスにあることを改めて知る。なるほど、レヴィナスの根本は、圧倒的な暴力的無化を表すらしい「ある」(存在)を前に、あまりに無意味な自己をどうすれば意味化に転じさせることができるかを問い詰めることにあるという。そのため、まさしく意味の手前、言語化の手前が問題にされるわけだけれども、そこはまさに従来の(レヴィナス以前の)哲学が手つかずのまま放置していた未踏の地。だからこそ、レヴィナスは手探りで進むしかなく、それを語る言葉も、通常の意味から離れた独特の意味を込めて使われるしかなくなる……と。かくして、一見すると何を言っているのかさっぱりわからないあの文章が成立する。そこに分け入る読者も、「女性」「住居」などなど、通常の意味とは違う仕方で(笑)その文章を読み解かなくてはならないというわけだ。しかも同一の言葉であっても、レヴィナスの思想の発展において意味合いが変わってくるものもあり、一筋縄ではいかない……というわけで、同書はそのための指針を示しそうとする試み。もとの難解なテキストをかみ砕いた労作だ。

それにしても、他者と最初に切り結ばれる関係性が、言語以前・非言語的な「コンタクト」(レヴィナスの言うところの「愛撫」)であるということをレヴィナスが喝破し、ある種転倒した他者論を構築しているというところが個人的には興味深い。「死体」にすぎない他者が意味を有する他人として現れるようになるには、まずそのコンタクトが必要だというわけだ。たとえばうちの認知症の親は、ときおり記憶が曖昧になるのだけれど(同居している息子である私のことを、私が不在のときなど、たまに三人称的に「男たち」と称したりするようだ)、別のときには何かを確かめるように、不自然なまでにちらちらとこちらにアイコンタクトを送ってくるときがある。もしかすると、消えていきそうな記憶(つまりは無化である「ある」が襲ってくるということだろう)に、こちらにコンタクトを取ることで必死に抗っているのかもしれない……。