教皇座のリアルポリティクス

バラクロウ『中世教皇史』(藤崎衛訳、八坂書房)を読む。ローマ時代から教会大シスマまでの教皇座の歩みを、主に抗争や駆け引きなどのリアルポリティクスとして描き出そうとする一冊。全体を見る俯瞰的な視点と、やや細かな記述との微妙なバランス感覚があって、全体としてなかなか読ませる。原書は1968年刊行だけれど、今でもよく目にするような一部の誤解を正していたりもし、今なおとても新鮮に映る。教皇権の確立期にあたるカロリンガ朝との絡みについての比重が高い気がするけれど、個人的にはその後の改革期にいたる時期のほうが面白かったりする(笑)。たとえばこんな話。教皇庁を表す「クリア」を公式の呼称として用いた最初の教皇はウルバヌス二世(在位1088〜1099)。教皇庁は行政と司法の両方を兼ね備えた組織として確立され、また枢機卿団も顧問団として整備され、教会会議の職務を引き継ぐ。面白いのは、そうした制度的な整備に際して、世俗の統治をモデルとしていたこと。教皇礼拝堂ですら、世俗の宮廷の礼拝堂を模倣したものだという。財政の整備もクリュニー修道院の方式に倣っているという。かくして教皇庁は規模の大きな行政組織となっていくのだが(12世紀半ばにグラティアヌス教令集がまとめられ、その下支えになっている)、一方の地方も急速にその権威を当てにするようになる。聖職禄授与では地方の教会人側が主導権を握るなど(ペトルス・ロンバルドゥスなどもそういう利に与った一人なのだという)、もちつもたれるの関係になっていくというわけだ。やがて教皇庁の側もそうした管理の業務に追われ、実務でがんじがらめになっていく。もはや霊的な指導どころじゃなくなってしまう。そんな状況への反動から、疎外された人々の宗教心が向かう先として、異端や托鉢修道会の運動が登場してくる。けれどもこの托鉢修道会などは、教皇座の側がそれを巧みに政策の道具として取り込んでいく……。シスマのあたりも、逆に今度はいろいろなタガが緩んでいく過程となり、とても人間臭くて面白いのだけれど、とりあえずここでは割愛。いずれにしても、個別の論文を読むときなどの参照本としても有益な感じだ。