イアンブリコス『神秘について』から 3

Porphyre. Lettre A An‚bon L'‚gyptien (Collection Des Universit‚s De France S‚rie Grecque)つまみ食い的に先に進もう。今度は「知性そのものか、知性に与るか」での区別について。イアンブリコスが「あなた」(君、のほうがよいか?)二人称で呼びかけているのはポルフュリオスだが、そのポルフュリオスのもとの書簡は失われているのだそうだ。で、それを復元した書籍がこれまた希仏対訳で刊行されている(Porphyre. Lettre A An‚bon L’égyptien (Collection Des Universit‚s De France S‚rie Grecque), trad. H.D.Saffrey et A-P.Segonds, Les belles lettres, 2012)) 。

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3.4 これに続いてあなたは、ダイモンに対する神々の別の対抗区分に進んでいる。あなたは「神々は純粋な知性である」と述べている。これをあなたは教義から導かれる仮説、もしくは一部の者がそのことを証言していることとしている。そして「ダイモンは魂をもった存在であるのだから、知性に与る」と説明している。哲学者の多くがそうした見解に導かれていることは私も承知している。だが、あなたに対しては、真理と思えることを隠す必要はないと思う。そうした見解はいずれも混乱をきたしている。一方ではダイモンを魂のほうに含めており−−というのも、魂は知性に与るものだからだが−−、他方では神々を現実態の非物質的な知性へと貶めている。神々はあらゆる点でそれらを凌駕しているとうのにだ。なにゆえにそのような属性を、まったくもってそこに属さないものに割り当てなくてはならないのか?

この区分については−−いずれにせよそれは主たる論点ではない−−以上を記せばそれで十分であると思う。だが、それに対してあなたが問うていることについては、それが聖なる治療に関係する以上、議論の対象にしないわけにいかないだろう[注:λόγου τυγχανέτω:意味の解釈は仏訳注に従う]。「純粋な知性はいっそう魅了に反し、感覚と混在することはない」として、あなたは「それらに対して祈りを捧げるべきなのか」との疑問を掲げている。私からすれば、ほかのものに祈りを捧げるべきですらない。なぜなら、私たちの内なる神、知性、一体性、またもしそう呼びたければ精神は、明らかに祈りにおいて目覚めるのだからである。それは目覚めると、同類のものを超越しようとし、自己の完成に執着する。もしあなたが、「非物体的なものがどうやって音を聞くのかは信じがたい、私たちが祈りにおいて発する言葉には、感覚器官、さらには耳を必要とするのだから」と思うのなら、あなたはあえて第一原因の卓越性を忘却しているのだ。卓越性ゆえにそれら(第一原因)は、おのずと明らかになるすべてのものを認識し内包するのである。というのも、一体性においてこそそれらは、みずからのうちにあらゆるものを包摂するのだからだ。神々がみずからのうちに祈りを取り込むのは、潜在力によるのでも感覚器官によるのでもない。神々はみずからのうちに、正しい者の発する言葉の現実態を内包するのであり、聖なる儀式によって神々に認められ一体となった人々であればなおさらである。その際、神そのものがみずからと一体化し、祈りにおいて示される知的理解をもって、異なるもの同士が交感し合うのである。
(この節、続く)

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今回の箇所で、「非物体的なものがどうやって……耳を必要とするのだから」というポルフュリオスの問いがあるけれど、上のポルフュリオス本の仏訳注によると、このような「神に耳が必要」といった議論をポルフュリオスがしたとは考えにくいという。プロティノスに同様の議論があり、プロクロスにも「神々とダイモンは祈りを外部から聞き入れるのではなく、人間の意志をあらかじめ受け入れている」という解決策が示されていて、ポルフュリオスは当然それらを知っており、また自著の『節制について』にも「自然はその教えを耳で感じ取れる言葉で発したりはしない」(II. 53.2)という一節がある、と記されている(上記、本文p.12、断片18の注)。

スアレス『形而上学討論集』から 5

続きの部分。今度はフォンセカによる概念の区分だが、フォンセカ自体の資料が手元にないので、細かい点が確認できていないのだけれど、とりあえず字面にそって訳出してみる。ちなみにフォンセカ(ペドロ・ダ・フォンセカまたはペトルス・フォンセカ:1528〜99)は16世紀ポルトガルのイエズス会士。アリストテレス注解などを残しているいう。単一形相論を支持しているという話もあるようなので、ひょっとしてトマス主義に近い立場を取っているのかもしれない(このあたり、詳細は不明)。

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4. これに近いフォンセカの見解 ーーフォンセカはこれとさほど違わず、存在者の概念を三つ区別している。すなわち分離的概念、混在的概念、そして中間的概念である。この最後のものは部分的に混在し部分的に分離しているものである。分離的概念とは、存在者が直接的に意味するあらゆる単純な実体を、他と区別し明示的に表す概念であり、単数ではなく複数の概念をなす。混在的概念とは、あらゆるものを混在的かつ非明示的に表す概念であり、それは単数の概念である。中間的概念は部分的には混在的概念、部分的には分離的概念であるようなもので、任意の自然本性、たとえば実体を限定的に表す。他にもその概念は、量や質などを、なんらかの類比にもとづき、実体にそぐう限りにおいて暗示的・非限定的に表す。また、それは単数の概念であると言われる。

5. それほどの区分の多様性が、明晰さの助けになる以上に妨げとなっていること ーーだがこのような区分は、根拠のない多様化であり、事物を説明づける以上に混乱させているように私には思われる。というのも、ここで私たちが語るべきなのは、存在者の形相的概念についてだからだ。つまり、かかる言葉のもとで理解されるすべての事物について、言葉そのものとしてではなく、その言葉が意味するものとして認識され理解されうるもののことである。さらにその概念は、存在者の概念について、それを存在者として表す言い方ではなく、実在する、あるいは可能態であるようなあらゆる事物の概念について、それらがかかる事物として互いに区別される限りにおいて表す言い方であり、同著者が正しく指摘したように、神のみを例外とし、いかなる者も単一の形相的概念でもってそれを明確に概念化することはできないのである。だがその意味では、実体ないし生物の概念がそのような方途で明確化され区分されるのであるなら、そのような概念は、あらゆる実体、あらゆる生物がしかじかのものとして明確に概念化される、拠り所の概念となるだろう。かくしてただ神のみが、実体や生物を区分する形相的概念を有することができるだろう。

怪物の「素」?

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)ほぼ1ヵ月ほど前だけれど、英国のロイヤル・ナショナル・シアターのパブリックビューイングを六本木の映画館で観た。作品は『フランケンシュタイン』(ダニー・ボイル演出)。ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが日替わりでフランケンシュタインと怪物とを演じるというもので、なかなか興味深いものだった。観たのはカンバーバッチがフランケンシュタイン、ミラーが怪物のバージョン。で、劇中、フランケンシュタインが、自分はパラケルススやカルダーノで医学を学んだのだ、みたいな台詞があって(記憶違いになれけば、だが)、おお〜と盛り上がった。一方でシェリーの原作にそんな台詞あったのかしらと思い、最近になって光文社刊の小林章夫訳『フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』をチェックしてみた。おお、なるほどフランケンシュタインの回想の部分に、(カルダーノこそなかったけれど)アグリッパやパラケルスス、そしてアルベルトゥス・マグヌスなどの名前がちゃんと出ている。もちろんそれらは古い学問ということで一蹴されてはいるのだけれど、間違いなく同小説の着想源になっていそうだという点が感慨深い。19世紀は、どうやら中世からルネサンスについての様々な「神話」が形成されていく時代らしいし……。

パラケルススと魔術的ルネサンス (bibliotheca hermetica 叢書)せっかくだからというわけで、菊地原洋平『パラケルススと魔術的ルネサンス (bibliotheca hermetica 叢書)』(勁草書房、2013)を読み始める。まだ前半のみだけれど、これもまた刺激的で面白い。雑多な感想(というか疑問というか)を綴っておこう。本草学について論じている第二章では、パラケルススの独自の議論として次のような点が挙げられている。まずパラケルススは、植物の効能を列挙するだけの同時代の本草書類に満足できず、植物がもつ見えない効能を純化し取り出すことに腐心するのだという。で、その抽出される効能をクィンタ・エッセンティアと称しているのだという。で、それはどうやら伝統的な第五元素、第五精髄(同じくクィンタ・エッセンティアと表記されるものだが)とは異なるものとされている(生命の本質なのだかとか)。このあたり、従来のクィンタ・エッセンティアとどう違うのかという説明は今一つ収まりが悪いのではないか、と。それほどの大きな断絶が見当たらない気もするのだが……。また本草書の伝統への反発という流れも、パラケルススだけに限定されるものでもなさそうな印象なのだけれど、実際のところはどうなのかしら、と。……とこう記してみて、ああ、でも確かにパラケルススを特異点としてフォーカスしなければ、そうした伝統からの乖離といった問題はあまりよく見えてこないのかもしれないな、という気もしてきた(苦笑)。元素について扱った第三章では、従来型の四元素をパラケルススは「母」に相当するものと見なし。その真の姿は物質的な元素の中にやどる霊魂だとさえ考えていたという。この話はなかなか興味をそそる。さらに、パラケルススが唱える三原基が母体に対する種子に相当するのではないかという解釈が示されている。……とここで、三原基の考え方がどこから着想されているのかといった問題は現行の研究ではどうなっているのかしら、というあたりがとても気になってしまった。

フランケンシュタインの怪物の素があったとすれば、そうしたクィンタ・エッセンティア、あるいは四元素と三原基の相互作用のあたりに隠されていたのかもしれない……(おあとがよろしいようで……)。

ドゥルーズと権力論

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)空き時間読書として読んでいた國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)』、岩波書店、2013)。これはドゥルーズの全体像を見通すためのいわば新しいスタンダードな概説・入門書かもしれない。年頭に取り上げた千葉雅也本、山森裕毅本などとも一部オーバーラップしているけれど(前半の、カント論、ヒューム論を通じて超越論的経験論を論じているあたりとか、プルーストのシーニュをめぐる一種の教育論のあたりなど)、そこから先のガタリとの協働作業の位置づけ(教育論から出てきたある種の限界を突き破るためだとされる)や、後半のハイライトとなるドゥルーズ流フーコー論がらみの「権力」をめぐる問題などは、やや冗長ながらも(前提となるフロイトやラカン、フーコーなどを経るからなのだけれど、議論のためにはそれらは避けて通れない)十分に刺激的なもの。とくに最後の、ドゥルーズの欲望を軸に据えた権力発生論はひときわ興味深い。たとえばこんな一節。「民衆の欲望のアレンジメントは、まさしく様々な要因によって決定されているのであって、「自然な」ものでも「自発的な」ものでもない。ならば。或る特定の欲望のアレンジメントがあって、それが特定の権力様式を発生させる、と考えねばならない」(p.215)。「身体刑を見に来る民衆は、処刑場に来ることを強いられているのではない。規律訓練における監視に従う労働者や生徒や兵士は、従うことを強いられているのではない。彼らは、そのように行為したい、という欲望を抱いている。欲望のアレンジメントという考え方は、その欲望の発生を明らかにするための視座を提供するものだ。権力の概念は、そうした発生過程の結果−−「欲望のアレンジメントの先端」−−しか扱えない」(p.220)。いかにして権力は人にしかじかの行為を「させる」のかという問題は、もちろん容易には答えのでない問題だ。これにドゥルーズは、人にそういう行為を望ませるような微細な欲望の処理パターン、すなわち欲望のアレンジメントによる、との解答を寄せているのだという。規律訓練に人が従うのは、「取り残されたくない」という欲望の在り方が(そう規定すること、つまりアレンジメントによって)社会的に浸透しているからだ、というわけだ。ならばそのアレンジメントこそが改めて問い直されなくてはならないはずで、なるほどこの権力論への欲望論からのアプローチという部分はもっと深められてしかるべきテーマであるように見える。最近の新しいドゥルーズ像には、なにやら時代的な空気の先取りでもあるかのように、ある種まったりと保守化していくような思想的イメージが纏わりついているようにも見えてしまうけれど(良し悪しは別として)、そこにまた別の揺さぶりをかけるような読み方ができないものだろうかというようなことを、そうした議論からついぞ夢想してしまう。

オッカムと「神の存在証明」

page_000坂口昂吉ほか編『フランシスコ会学派における自然と恩恵 (フランシスカン研究)』(フランシスカン研究vol.4、教友社、2010)という論集を眺めているところ。収録論文のうち、個人的にとりわけ目を惹いたのが小林公「オッカムにおける神の実在証明」という論文。なるほど神の存在証明についてオッカムがどうアプローチしていたかという問題は、案外正面切って取り上げられてこなかった気もする(ホントか?)。同論考によると、オッカムはひたすらスコトゥスを批判しつつ自説を展開しているようで、スコトゥスの議論がまずもって重要になる。早い話、オッカムはスコトゥスの論点にことごとく反論を加えている印象だ。たとえば、スコトゥスは基本的に理性によって神の唯一性や原初性、無限性などが証明可能だと考えているのに対して、オッカムは理性のみによる論証は不可能だと考えているという。単一のものを複数化してみせたり、因果関係の鎖を解いてみせたりと、オッカムの反論は冴え渡る(現代的な意味合いでだが)。総じて、オッカムにとっては理性の議論は神の証明を扱うには限定的にすぎ、そこから先は信仰の領域になるということらしい。

スコトゥスが原因の連鎖の秩序をもとに、神に第一の産出的動因を見ているのに対して、オッカムはそれを根底から覆す。原因と結果の無限の連鎖が、その連鎖の外にいる存在者(すなわち神)に依存しているとするのがスコトゥスで(こうした支点が外部にあるという考え方は、哲学的認識論の型としては西欧に深く根ざしたものだが)、そうした連鎖が自己充足的でない理由もないとするのがオッカムだ(これはどこか現代思想的な転回を思わせるスタンスかも)。その上でオッカムは、産出されたものの原因ではなく、それが現実に保持される原因としての存在者ならば、実在が論証できるのではないかと考えているという。論文著者が指摘するように、これもまた厳密な証明にはなりそうにないのだけれど、少なくともオッカムが徹頭徹尾スコトゥスとの「対話」を通じて議論を練り上げている姿勢だけは、あらためて強く印象づけられる。最近の研究では、オッカムはスコトゥスを敬いつつも乗り越えようとしてさかんに批判しているのだという話になっているようだけれど、うーむ、それにしてはこの執拗さは半端ではないような(?)……。