夏読書:遅ればせでピケティを囓ってみる

Le capital au XXIème siècle夏読書は関心領域から少し離れたものも含め、普段あまり読まないようなものとかも眼にしたい……というわけで、いわずと知れた昨年の例のベストセラー、個人的には積ん読のトマ・ピケティ『二一世紀の資本』仏語版(Thomas Piketty, Le capital au XXIème siècle, Éditions du Seuil, 2013)を読み囓りはじめる。なにせ950ページ(仏版)ある大著だし、こちらは基本的に門外漢だし、いつ放り投げてもおかしくない(笑)。でも割と「口あたりのよい」文章が続くので(けなしているわけではありません、誤解なきよう)、さしたる抵抗感はない感じ。本来的にはそれほど売れるものでもない専門的な研究書がベストセラーになったというのは、おそらく一つにはそのあたりの筆運びのよさにもあるのかも、と改めて思う。

さしあたり全体の見立て(同研究の歴史的な位置づけなど)をレジュメっぽく描いた序論(冒頭の約70ページほど)をざっと眺めてみた。歴史的な18世紀末から19世紀初頭にかけての社会変動は、ペシミスティックな経済思想をもたらしたとピケティはいう。農民の所得の低迷と地代の高騰を危惧したアーサー・ヤングやマルサス、そしてデヴィッド・リカード。けれども彼らが準拠するデータはとても限定的かつ貧弱で、しかも技術的進歩と生産の拡大という要因を考慮することができなかった。土地に変わり産業資本について考察したマルクスもそれは同様。ピケティによれば、こうした長いペシミズムの系譜がオプティミスムに道を譲るのは、20世紀に入ってからのクズネッツの研究を待たなくてはならない。クズネッツにいたって、統計データ(所得のデータ)が活用できるようになり、まったく異なる未来図が描かれるようになる(発展にともなう不平等の是正)。とはいえ、クズネッツみずから、自身の推論が思弁的であることを認めていた。で、ピケティは自身の研究もそのクズネッツの延長上にあるとして、その精緻化を試みる。先人たちが扱い得なかった技術の問題も考慮するとし、ペシミズムとオプティミズムの間をぬって進む道に指針を取る、ということのようだ。うーん、でもこれだけ19世紀の議論などについて思想の枠組みとしての限界を言いつのると、逆にピケティ自身の議論もそういうなんらかの時代的制約を受けているんじゃないかとか、あるいは考慮しえない部分をもっているのではとかいうふうに、おのずと見えてしまうような気がするのだが……。そのあたりは本論で、ということなのだろうけれど、どういうふうに弁護しているのかが気になる。というわけで、もう少しつきあってみることにする(笑)。