corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 7 – 8

前にも触れたけれど、このXVIII章は基本的に王(ならびに最高位の神)を讃えることがメインモチーフとなっている。それが徐々に前面に出てくるのはこの7節以降から。

7. これはまた、私が自分が被ると感じるところのものである。いと高き方々よ。というのも、まさに今しがた私は自分の弱さを認め、少し前には自分が病弱であると感じていたが、より上位にある方の力によって、王のための歌を仕上げ、歌うことができそうだからだ。したがって、助力によって行き着く果てには諸王の栄光があるのであり、その記念碑からこそ私の言葉の熱意が生じるのである。では先に進もう。それが音楽家の望みなのだから。では急ごう。それが音楽家の意志なのだし、そのためにリュラを調弦したのだから。かくして、与えられた指示がよりよい音を求めるほどに、より甘美な調べを歌い、より心地よい曲を演奏するようになるのだから。

8. 諸王のためにこそ、音楽家はリュラを調弦し、讃える音型を用い、王からの賛辞を目的とするのである。まずはあらゆるものの最高位の王、すなわち善なる神のためにみずからを奮い立たせるのだ。歌はまず高みから始め、神の似姿において支配権をもつ第二の層へと下っていく。というのも、諸王にとってお気に入りであるのは、歌が高みから順に階層を下っていき、彼らに勝利がもたらされたその場所から、継承される希望が導かれることだからだ。

古くて新しい唯物論(物質主義)

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論青土社の『現代思想 』2015年6月号(特集=新しい唯物論)を少し遅れて読んでいるところ。特集は「新しい唯物論」となっているが、こういう表題ではいろいろな主題系をカバーできてしまうので、逆に主要な流れが見えにくいかもしれない。でも、一つには生命現象を物質的なレイヤーから考え直すという、新しいようで古い問題が中核に据えられているようだ。ちょっと面白いと思ったのは、まず藤本一勇「「新しい唯物論」方法序説(素描)」と題された文章。方法序説というよりはマニフェスト(宣言という本来の意味での)に近い気もしなくないが、生命現象へのアプローチを含めた、すごく大きなまとめと展望という感じになっている。対象の操作性から逆に主体が立ち上がってくるといった話などは、改めてとても興味深いものになりうるかも、というのが率直な印象。ちょうど今、個人的にまたも錬金術ものなどを少し見ているのだけれど、錬金術的操作とその神話的側面とのインタラクションとかを(強引の誹りを覚悟の上でだけれど)そんなふうに位置づけられないものだろうか、なんてことを漠然と考えてみたりする……。

個人的に惹かれたもう一つの論考が、森元斎「実在を巡って」。なんとホワイトヘッドの過程的実在論の再検討。なにやら来るべきものが来ているという感触(笑)。ここで中心的に取り上げられているのは、ホワイトヘッドの用いる「抱握」概念。この「相手と自分とを分離せずに、主観の意識によらず、森羅万象に普く適応できることば」(p.165)を追いかけることで、「ホワイトヘッド哲学の生成の側面を記述することが可能になる」(p.166)という。ホワイトヘッドは決して静的ではない、という新たな読み方と、そこから見えてくるホワイトヘッドに固有の「限界」(すべてが「抱握」を通して語られる以外にないとして、出来事、契機、存在、事物などすべてがその枠組みにおいて抽象的になぞるだけになってしまう、という問題が指摘されている)をも含めた新たな思想的風景(?)。その極限的なレイヤを見てしまった後で、そこからより抽象度の低いレイヤに果たして着地することなどできるのかしら、できるとしたらどう着地できるのかしら、というあたりについて、夢想がぐるぐると回っている(苦笑)。

夏読書:遅ればせでピケティを囓ってみる

Le capital au XXIème siècle夏読書は関心領域から少し離れたものも含め、普段あまり読まないようなものとかも眼にしたい……というわけで、いわずと知れた昨年の例のベストセラー、個人的には積ん読のトマ・ピケティ『二一世紀の資本』仏語版(Thomas Piketty, Le capital au XXIème siècle, Éditions du Seuil, 2013)を読み囓りはじめる。なにせ950ページ(仏版)ある大著だし、こちらは基本的に門外漢だし、いつ放り投げてもおかしくない(笑)。でも割と「口あたりのよい」文章が続くので(けなしているわけではありません、誤解なきよう)、さしたる抵抗感はない感じ。本来的にはそれほど売れるものでもない専門的な研究書がベストセラーになったというのは、おそらく一つにはそのあたりの筆運びのよさにもあるのかも、と改めて思う。

さしあたり全体の見立て(同研究の歴史的な位置づけなど)をレジュメっぽく描いた序論(冒頭の約70ページほど)をざっと眺めてみた。歴史的な18世紀末から19世紀初頭にかけての社会変動は、ペシミスティックな経済思想をもたらしたとピケティはいう。農民の所得の低迷と地代の高騰を危惧したアーサー・ヤングやマルサス、そしてデヴィッド・リカード。けれども彼らが準拠するデータはとても限定的かつ貧弱で、しかも技術的進歩と生産の拡大という要因を考慮することができなかった。土地に変わり産業資本について考察したマルクスもそれは同様。ピケティによれば、こうした長いペシミズムの系譜がオプティミスムに道を譲るのは、20世紀に入ってからのクズネッツの研究を待たなくてはならない。クズネッツにいたって、統計データ(所得のデータ)が活用できるようになり、まったく異なる未来図が描かれるようになる(発展にともなう不平等の是正)。とはいえ、クズネッツみずから、自身の推論が思弁的であることを認めていた。で、ピケティは自身の研究もそのクズネッツの延長上にあるとして、その精緻化を試みる。先人たちが扱い得なかった技術の問題も考慮するとし、ペシミズムとオプティミズムの間をぬって進む道に指針を取る、ということのようだ。うーん、でもこれだけ19世紀の議論などについて思想の枠組みとしての限界を言いつのると、逆にピケティ自身の議論もそういうなんらかの時代的制約を受けているんじゃないかとか、あるいは考慮しえない部分をもっているのではとかいうふうに、おのずと見えてしまうような気がするのだが……。そのあたりは本論で、ということなのだろうけれど、どういうふうに弁護しているのかが気になる。というわけで、もう少しつきあってみることにする(笑)。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 4 – 6

ヘルメス選集のXVIII章の続き。道具(すなわち身体、物質的なもの)には偶発的な事象がつきもので、だから不安定なのだとし、それが貶められるほどに精神への賛美が高まるというこの一節、まさに西欧世界の思想の根源を見る思いがする……(苦笑)。と同時に、その精神を支配者たる神が助けるという構図も示されている。うち捨てられる道具とつねに上方へと引き上げられる精神の二項対立。

4. 仮に彫刻家のフェイディアスが用いる素材が、作品の完全な多様性にそぐわないなら[……欠落……]歌い手があたう限り全うしようとしても、私たちは原因をその歌い手に帰すわけではなく、無力な弦を咎めるのであり、というのも張力をわずかに弱めたばかりに、張力をたるませたために、甘美な歌のリズムを損なったからである。

5. だが、楽器について偶発的事故が生じても、誰も歌い手を非難しはしないだろう。ただ、楽器が悪く言われるほどに、しばしば弦がちょうどの音程で弾かれるときには、歌い手の栄誉は高まっていくのだった。[欠落]聴衆も、より大きな称賛をその歌い手に送り、その者にほとんど不平など抱かなくなる。そのように、あなたがた高貴な人々もまた、内面の竪琴を歌い手に合わせてごらんなさい。

6. けれども、巧者の中には、竪琴の作用がなくとも、高貴な調べの準備ができていれば、しばしばおのれ自身を楽器のように使い、密かな方法でもって弦の調子を合わせ、必要に応じた調べを荘厳に奏でて、聴衆をたいそう驚かせてみせる者がいることも見て取れる。歌を司る神の寵愛を受けていたあるキタラ弾きの歌い手などは、あるときコンテストで弾き語りをしていると弦が切れ、競技が続けられなくなったが、支配者の采配によって切れた弦が補われ、名声を得るよう恩寵が与えられたと言われている。というのは、弦の代わりに蝉が、支配者の采配によりそこに止まり、メロディを補完し、その場を収めたからである。そのためキタラ弾きは、弦にほどこされた治療により苦痛を癒され、勝利の栄誉を勝ち取ったのだ。