ギリシア悲劇と政治

De La Tragedie Grecque Comme Art Politique (Histoire)ちょいと思うところあって、クリスチャン・マイヤー『政治技法としてのギリシア悲劇』を仏訳(Christian Meier, De La tragédie grecque comme art politique , Les Belles Lettres, Paris, 1991-2004)でざっと見ているところ。ドイツ語の原書は1988年刊。前五世紀ごろのギリシア悲劇と政治とは、とても密接な関係にあったというのがその全体的な仮説で、とりわけアイスキュロスの悲劇作品や、ソフォクレスの初期の二作(『アイアース』と『アンティゴネー』)を中心に、それらの作品がアテナイの市政にとってどのような重要性・意味合いをもっていたかということを分析していく、というもの。

序章を見た後、さっそくそのソフォクレスを扱っている章をざっと見てみたのだけれど、この著者は、悲劇作品の登場人物の配置や動きなどに、その政治的な美学を読み込んでいく感じだ。たとえば、『アイアース』で、自殺したアイアースの埋葬に携わりつつみずからの埋葬をも確保しようとするオデュッセウスを、著者は個人と共同体との互恵性(自分の奉仕が、いつか自分への奉仕を見据えてなされるということ)という観点から論じている。オデュッセウスの行動がアガメムノンなどよりも上位の行動であること、つまり私利をいったん手放し、友情・親密さの軸に当事者として身を捧げ、全体への奉仕となすという新たな方法であることを示している、というふうに解釈する。また、アガメムノンとオデュッセウスのあいだの埋葬をめぐる論争に類するものは、当時のアテナイにおいて実際にあっただろうと仮定し、オデュッセウスの主張(アイアースの遺体埋葬を肯定する)は、あらゆる敵対関係を越えた基本的な連帯関係の存在をも示唆している、と見る。なかなかガチな解釈ではあるものの、議論の出発点としては興味深いという印象。

時間の空間表象の問題……

Principes De Linguistique Theorique (Lecons De Linguistique De Gustave Guillaume)少し前に言及した、独特な観点をもっていたという言語学者ギュスターヴ・ギヨーム。その未刊行文書集(当時)こと、『理論言語学の諸原理』(Gustave Guillaume, Principes de linguistique théorique (Lecons de linguistique de Gustave Guillaume), (dir.) Roch Valin, Klincksieck, Paris, 1973)が届いていたので、さっそく目を通し始める。基本的には講義録のようで、1938年から60年までソルボンヌの高等研究実習院での講義を集め、それらを体系的に組み替えて並べてみたという一冊。読み進めながら気になるところなどあれば、メモしていきたいが、とりあえず冒頭の1952年から53年度の開講講義を読んでみた。そこでは、ギヨームがみずからの研究を振り返り、ごく簡単なまとめを示している。なるほど、自身の初期の研究が冠詞論で、ラングからスピーチアクトへの「現働化」(これがアリストテレス的と言われるところ)の問題を問うことになったのはその文脈においてだったことが示されている。

けれども個人的にもっと惹かれたのは、その後に取り組むことになったとされている動詞の時制の問題。そこではなんと、時間の空間的表象の問題を取り上げているのだという。これはちょっと見るからに面白そうだ。たしかに時間を図形的(直線も含めて)に扱うというのは古くからあるけれど、なぜそういう表象になっているのかはよく解せない。中世後期の論者たちなどは、これまたアリストテレスに準じて、直線上の点の無限分割を、時間軸における瞬間の無限分割に重ねるのが一般的だが(メルマガで見ているビュリダンなどもやっている)、その一種の図形指向そのものが問われることはなかったように思われる。読んでみないことにはなんとも言えないが、そのあたりに関するギヨームの言語学的議論がどのような広がりを見せているのか、とても気になるところ。

ルイスの可能世界……

世界の複数性について
早読みできない・しても仕方ない部類のものとして今秋最大の一冊といえば、個人的にはやはりディヴィッド・ルイス『世界の複数性について』(出口康夫監訳、名古屋大学出版局、2016)。少し前からちびちびと読んでいるところ。でもって、さっぱりはかどらない(苦笑)。まだ一章が終わっておらず、その末尾あたりをウロウロしている。でもその様相理論(様相実在論)の考え方はなかなか興味深い、ということだけはわかる。「〜は可能である」「〜は可能でない」といった様相を伴った命題を、集合論的な考え方で捉え直すというのは、その命題の論理的な関係性、あるいは記述的妥当性を、大きく拡張することになる。たとえば「Aは可能である」という命題は真になるが、「Bは可能である」という命題は偽であるとされるような場合でも、それらの真偽の線引きを集合によって説明するならば、それらは別々の集合の要素ということになって、命題としての妥当性においては両者はともに同等ということになる。ただそれぞれの属する集合、つまりはそれぞれの立脚する世界が違うことによって、相対的・構成的に真理値が異なってくるだけだ、と……。

この集合論的な考え方は、思考ばかりか、たとえば言語そのものの捉え方などにも適用されうる、という。ルイスは人工的なミニチュア言語を想定し、たとえば修飾詞や結合詞などについて、それを「意味論的値を返すもの」という考え方で一種の関数と見なしている。文の意味論的値を真理値と同一視すると、それら修飾詞や結合詞は、その文の真理値を受け取って、真理値を返す関数となる(たとえば「真」を受け取って「偽」を返すとか、「偽」を受け取って「真」を返すとかetc)……。このあたり、なにやら大昔に読んだ、計算機での自然言語処理の教科書本を少しだけ思い出す(笑)。