震災から6周年となったこの週末、このところあまりちゃんと目を通していなかった岩波『世界』の最近のバックナンバーを少し集中的に見ていて、改めてそんなことを強く思った。とくに昨年12月刊の、世界 2017年 01 月号 [雑誌](特集「トランプのアメリカ」と向き合う)は、そうした語り、あるいは言葉の問題を扱った記事が集中していて興味深かった。三島憲一「ポスト真理の政治」もしかり、前田哲夫「連載:自衛隊変貌第2回:境界線失う「武器の使用」と「武力の行使」」もしかり。ちなみに、ポスト真理ないしポスト真実の出所とされるラルフ・キーズの本は、Kindle版が安く買える(Ralph Keyes, The Post-Truth Era: Dishonesty and Deception in Contemporary Life, St. Martin’s Press, 2004)。そして極めつけは、尾松亮「連載:チェルノブイリからの問い:最終回−−ことばを探して」。チェルノブイリ法とその実施規則において、それまでのロシア語になかった言葉が数多く生み出されたという。市民が置かれた惨状を表す数々の言葉だという。そもそもチェルノブイリの事故のことすら、「事故」ではなく「カタストロフィ」と言うようになったのだそうだ。子どもたちを放射線源から遠ざけるために「保養」という言葉を使いもする。ほかにも「居住することのリスク」「被曝途中の人」などなど。日本語にはこれらの言葉がない、と著者は指摘する。情況を表すのに新しい言葉がないがゆえに、責任の所在もうやむやにされ、目に見える病気が生じていなければ影響を受けていることがテーマ化すらされない。ポスト・フクシマの言葉はどこにあるのか−−ここに抜本的な問題がある、との著者の見立ては説得力がある。語りの刷新はまったなしに必要だ。
翻訳がらみの話が続いているが、今度はホセ・マルティネス・ガスケス『中世ラテン語翻訳者たちのアラビア化学に対する姿勢』(José Martínez Gázquez, The Attitude of the Medieval Latin Translators Towards the Arabic Sciences, Sismel – Edizioni del Galluzzo, 2016)というのを読んでみた。小著ながら、これは本の作りそのものが興味深い。中世の主要な翻訳者たち(アラビア語からラテン語への)が、とくにそれぞれの訳書に付した序文を読み解いていくというもので、9世紀のアルヴァルス・パウルス・コルドゥベンシスから始まって、14世紀のペドロ4世(アラゴン王)まで、有名どころやそれほど有名でない向きなども含め、扱われている訳者たちは40人以上に上る。それぞれの序文の一部をいわばアンソロジー的に並べ、各人の訳業やスタンス、時代的・文化的背景などを紹介している。
ハッキングの同書は、第10章「根底的誤訳など現実にあったのか」もまた至極面白い。クック船長がオーストラリアで見慣れない生き物を指して原住民に尋ねたとき、原住民は「カンガルー」と言ったためにそれはカンガルーと命名されたが、それは実は現地語での「何て言った?」の意味だった、という逸話が、実は神話にすぎないことを説き証している。カンガルーは現地語で「ガングゥールー」というのだそうで、直示不良(とハッキングはそうした誤解を呼ぶ)ではない、という話。マダガスカルのインドリという動物にも同じような話があって、原住民が「あそこにいるぞ」と言った言葉が「イン・ドリ」で、それを聞いた博物学者ピエール・ソヌラが誤解したのだという。実はこれも同じような事例らしく(この話は辞書にまで載っていてタチが悪いようなのだが)、マダガスカル語の「エンドリナ」(キツネザルの一種)に由来していたという説もあるという。フランス語の明かり窓(vasistas)が、ドイツ語の「それは何(Was ist Das?)」から来ているという話も類似の例で、確かにそこに由来はするものの、外にある何かを見るもの、という機能に結びついた言葉であって、窓そのものが何かと問われていたわけではないらしい。こういう誤解というか、直示不良の罠というのはいろいろありそうだ。もちろん直示不良そのものはあってもおかしくないし、現にときおり生じるわけなのだけれど……。