プロティノスのディアレクティケー論 – 2

Traite 20 Qu'est-ce Que La Dialectique? (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)少し間が空いてしまったけれど、ジャン=バティスト・グリナによるプロティノスの第20論文のコメンタリーを見ていくことにしよう。第20論文はまず、「赴くべき場所に至るためにの技術、方法、実践とはどのようなものがあるか」と問い、次に「上に向かって行ける者とはどのような人であるべきか」と問うて、「すべてを、もしくはプラトンの言う最も多くを見た者である」と答え、「哲学者、音楽愛好家、恋する者」だと述べている。これについてグリナは、この三者への言及がプラトンの『パイドロス』248dからの引用であることを示し、その上で、その言及箇所はディアレクティケーと直接に関係はないことを指摘している。その「どのような人であるか」という問いは、実は『国家』における、数学とディアレクティケーの教育を与えるべき人とはどのような人であるか、という問いに着想を得ているのだといい、そこで『パイドロス』を引き合いに出しているのは、おそらくプロティノスがここである種の体系化を図ろうとしたことの現れだろうと論じている。

哲学者・音楽愛好家・恋する者の三者のうち、とくに後者二者は、感覚的なもの(聴覚的・視覚的)への嗜好からその先の知的なものへの美へと高まらなくてはならず、そこにおいて数学を学ばなくてはならないとされる。哲学者は、すでに感覚的なものと知的なものとの分離を心得てはいるものの、ディアレクティケーに至るための予備的な学知が必要とされる。ではこれら三者は、生得的にかくある者なのか、それとも後天的にそのような者になるのだろうか?グリナによると『パイドロス』では、どちらかといえばそれらの者が、生得的に限定されていると見なしているフシがあるという。ゆえに想起が重要だとされる。一方で『国家』ではむしろ修得の側面(とくに数学教育)が強調される。この、想起を重視するという立場は、中期プラトン主義(アルキノオスなど)に顕著だといい、プロティノスもそれに従っているということらしい。

とはいえ、プロティノスによる『パイドロス』の引用は、やや微妙なズレを生じさせているともいう。実際、『パイドロス』の該当箇所には四者が挙げられていて、プロティノスはそのうち「美を愛する者」を省いている。ブレイエなどはプロティノスのテキストでもこれを補うべしと考えているというが、現実問題として、プロティノスのテキストでは現に三者となっているのだから、それは適切ではない。ではなぜ四者のうちの一つを省いたのだろうか。グリナの解釈は次のようなものだ。『パイドン』においては、四番目にくる「恋する者」が接合的な「καὶ」(and)で繋がっているのに対し、プロティノスは三者全部を選言的な「ἣ」(or)で繋いでいる。このことから、『パイドン』のテキストでは、哲学者・美を愛する者、音楽家の三者は、どれも同じく「恋する者」でもある、と解釈できる。ところがプロティノスの場合は、音楽家→恋する者→哲学者というように、一種のヒエラルキー、漸進的関係を打ち立てようとしているように見える。この意味では、「恋する者」は三者に共通する性質とは言えず、また物質的な美だけでなく非物質的な美をも愛するという意味で、「恋する者」は「美を愛する者」に取って代わることとなったのだろう、というのである。うーむ、この解釈、ちょっと微妙な感じもしないでもないのだが……。