中国思想の性善説・性悪説

悪の哲学―中国哲学の想像力 (筑摩選書)思うところあって、中島隆博『悪の哲学―中国哲学の想像力 (筑摩選書)』(筑摩書房、2012)を読んでみた。個人の内面にではなく、外部の社会的なものにつきまという「悪」の問題をテーマに、古代中国からの哲学思想を振り返るというもの。小著ながら実に面白く読むことができた。思想史的には、悪を内面の問題に帰着させるようになったのは12世紀の朱子学、15世紀の陽明学においてなのだといい、両者はともに性善説に立脚している。それ以前のはるか古代においては、たとえば自然災害などの災禍などをめぐる解釈として、「天人相関」の考え方(2世紀ごろから)があったものの、その解釈も一枚岩ではなく、徐々に天と人との間に関係はないという切断の思想が導かれていく(8、9世紀ごろから)。こうして人が天から切り離されたものというふうになっていくと、人の性(本来の性質)が改めて問題になる。性善説を唱えた孟子はそうした文脈の上にあったようだけれど、一方で孟子は地上に悪があるということを認めてもいたという。

そうした中での性善説はどういうことを主張しているのか。著者によるとそれは、仁や義は対他関係において発揮される徳(自己の内的完成ではなく)だからこそ幸福をもたらすというもので、超越的次元も内面も設定することなく、悪の存在を前提として、その上にあえて対他関係での善を実現しようという思想なのだという。善はしたがって、だまっていれば実現されるようなものではなく、目前の他者への惻隠の情を不在の他者にまで及ぼすような想像力の拡張を通じ、不断になされる作為的な努力が必要だとされる。内在的な善への傾向性は、努力によって実現に至らしめなければならないのだ、というわけだ。そしてそのための方途として儒家思想の「礼」が見いだされる、と。

この孟子の思想は、はるか後代(18世紀)に朱子学への批判の文脈で再浮上する。と同時に、孟子思想の先鋭化としての荀子(そちらは性悪説に立つ)もまたクローズアップされる。荀子の性悪説はどんなものだったか。儒家の「礼」概念を否定し自己充足の徹底化(非倫理)を図ろうとする荘子に、それはとくに対立していたといい、放置するならば壊れていくしかない人の性を、なんらかの調整作用によってマイナーリペアしていくというものだったらしい。そのために、社会的な規範としての礼の作為が必要であるとされる、というのだ。こうしてみると、孟子の性善説も荀子の性悪説も、一般に性善説・性悪説が引き合いに出されるときの意味合いと、だいぶ趣が異なることがわかる。同書は震災・フクシマ後に書かれたものということで、個人の内面に依らない社会的悪への対処を考えるというスタンスに貫かれており、アクチャルな事象を背後に見据えながら哲学史について語るという思想史家的実践としても高く評価できるように思われる。古代中国思想もなかなか興味深い、と改めて思う。