内部・境界・外部

意味の変容 (ちくま文庫)思うところあって、少し前に古書で入手した森敦『意味の変容 (ちくま文庫)』(筑摩書房、1991)を夏読書として眺めてみた。70年代中盤の『群像』に連載されていたという伝説の連作。語り手も、対話相手となる括弧つきの話者も、厳密には特定されないまま、哲学的、あるいは数学的な議論が展開していくという、ある意味で抽象的・思弁的小説作品。けれども今読むと、そのある種の急進性に思わず身震いする。第二編となっている「死者の眼」では、内部・境界・外部をめぐる考察が描かれる。肝となるのは、境界が外部からの認識で立ち現れ、内部からの認識では境界が無限に開かれたものとして感受されるしかないということ。同編ではそれが、望遠鏡から覗く世界のパラドクスという形で示されるのだけれど、このテーマはその後も様々に変奏されていく。たとえば続く「宇宙の樹」でも、その内部からの境界の体験は、微分法的な無限分割がもたらす一瞬の無限のパラドクスとして描き直される、というふうに。これを読んでいると、たとえば昨今ならば、ヴィヴェイロス・デ・カストロが「パースペクティブ主義」と称した他者理解に、どこか誘われるような気がする。外部とされるものの中に固着せず、別種の内部を推論的に見いだそうとすること、あるいはその境界を深遠な無限として経験しようとすること。そんなふうな眼で見ようとするなら、ふと一向に特定されないままの字の文の語り手と対話相手の対話もまた、まるでなんらかの無機物同士の対話であるかのようにすら見えてくる。これもまた意味の「変容」体験そのものに連なるかのよう。

記号過程を拡張(拡大適用)する

森は考える――人間的なるものを超えた人類学春ごろからぼちぼちと行っている新しい人類学読み。その一環として(夏読書でもあるけれど)、エドゥアルド・コーン『森は考える――人間的なるものを超えた人類学』(奥野克巳・近藤宏監訳、近藤祉秋・二文字屋脩訳、亜紀書房、2016)を読み始めたところ。まだ最初の二章なので、全体の4分の1程度なのだけれど、すでにして好印象。前に見たヴィヴェイロスなどよりも格段に読みやすく、また考察の出発点をなす具体的な事例がきっちりと示されているところも好感が持てる。パースの記号論における「イコン」「インデックス」「象徴」の区別を通じて、記号過程を人間的でないものにまで拡張しようというのが同書の基本スタンスと見た。とくにイコン的、インデックス的なものは、人間が非人間的な生命と共有しているものだ、とされている。同書に挙げられている例では、たとえば現在のナナフシ。ナナフシが枝とそっくりであるというのは、そういう種類のナナフシの祖先が最もよく外敵から身を隠すことができ、生存に最も適しえたということなのだけれど、それは同時に、外敵にとっての目くらましという点で、ある種の記号過程(ここではイコンとしての記号関係)を成していたと言うことができる。そしてこのことは、次のような事実を告げもする。すなわち、イコンが成立するためには差異(この場合にはナナフシと枝の差異)が必要であるとされる通常の記号過程の理解とは逆に、そのおおもとには区別のなさ、差異に気づかないという状況がなくてはならない、ということだ。このような見方を採用するなら、それは記号過程の理解を押し広げることにもなる。かくして人間を越えた自然界における記号作用というものの、根本的な特徴が見いだされるのだ、と……。

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福この、人間以外のものにも記号過程を認める・見いだすという視点は、これまた読みかけのユバル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016)にもどこか通底しているように思われる。ビジネス書に分類されている同書だけれど、別の視点から事態を見るという契機を与えてくれるという点では、とても興味深いものがある。たとえば、狩猟から農業への、いわゆる農業革命を扱った第二部。そこには小麦が世界的に拡散した記述がある。当然、人間がその苗を植え、育てるようになったことが大きいとされるのだが、一方でこの現象を小麦の側の生存戦略として見るならば、むしろ小麦が人間を飼い慣らすことによってみずからの種の生存を拡大したとも言いうる、とされる。けれども、農耕民族が狩猟民族に比べて、特段に豊かな生活を送っていたわけでもないようで、ゆえに小麦はみずからの種の繁栄に関して、人間にかならずしも大きな見返りをもたらしてはいない……。それはある種の専横関係であり、同著者によれば、農業革命は一種の詐欺とも言えるのではないか、ということになるのだが、いずれにしても、この逆サイドからの視点によって、見える風景が一変するというところが重要であり、また、それはある種の記号過程として、人間を縛り付けることにもなる。いったん農耕生活が始まってしまうと、人間はそれに依存せざるをえなくなる。そのあたりは同書では突っ込んだ議論が示されるわけではないけれど、むしろそうした依存の固定化に、イコンから創発するとされる象徴(それは人間に固有のものだけれども)をも含めた、なんらかの記号的専横関係を読み取ることができるかもしれない、などと夢想する夏の宵だ。

フランス近現代のプラトン受容 – 5 (ブルデュー、ラカン)

プラトンと現代フランス哲学』の後半部の論考は、いわゆる「現代思想」の大物によるプラトンへの言及を読み解くことで、彼らがどこか奥深いところでプラトン思想と共鳴していることを明らかにする、という趣旨のものが多い。ドゥルーズもそういう扱いだったが、続いて登場するオリヴィエ・タンラン(ティンランド?)によるブルデューにまつわる論考(pp.239- 262)もそういう一篇。ブルデューはいわゆる「哲学素」をプラトンから汲み取りつつも、プラトンと対立する側、すなわちプロタゴラスの相対主義の側に立つ。つまり、臆見や言論が社会的な条件や文脈に根ざしていて、ゆえに普遍的な射程をもちえない、という立場だ。しかしながら、とこの著者も言う。ブルデューは他方で、学知の領域の社会構造を説明しようとし、理論構築の活動がそうした構造的制約のもとに置かれることで、逆説的に普遍的なものの産出が可能になることをも説いてもいる、というのだ。さほどラディカルではないブルデューの相対主義は「理性のリアルポリティクス」を提唱する。学問の場での社会的行為者同士の利害対立が、普遍的知を産み出す条件になっている、というもので、ある意味これは周回遅れのプラトン主義のようでもある。個人的にもプロタゴラスの相対主義の問題はなかなか興味深いので、そのあたりも含めてそのうち検討してみたいところではある。

とりあえず先を急ごう。ラカン思想とプラトンの絡みを論じたポール・デュクロの論考(pp.263 – 284)も、やはり同じような問題圏を形作っている。精神分析には哲学の「彼方」を目している側面があり、相対的ながら反アリストテレス主義的でもあり、その意味でプラトンの側へと接近してもいるという。ラカンの『セミネール』第19巻では、「プラトンはラカン派である」という一節すらあるのだそうだ。とくにそこで取り上げられるのは、『饗宴』における「愛」についての考察。ソクラテスは愛する側にのみとどまろうとし、愛の対象となることを拒絶する。論文著者のまとめによれば、この非対称性によってソクラテスは欲望の構造(つまり何も欲望しない、虚無への欲望)を明らかにし、あたかも精神分析医であるかのような立場を体現して、主体を欲望の意味の構造へと帰してみせる。これが「愛」についてのラカン流の解釈ということになる。

これは分析医がどうあるべきかといった倫理的な解釈(ラカンのセミネールはもとより精神分析医を相手にしたものだった)なのだが、同時に存在論的な解釈でもある(根源的な構造を問題にしているからだ)。そこで問題になるのは主体の存在。それは「一者」として在りはするものの、現前として在るのではなく、現前を可能にするようなものとして「在る」とされる(多数のシニフィアンを産み出す、不在としてのマスター・シニフィアン)。まさにここに、ラカンはプラトンを「ラカン派」として読み込もうとするのだ、というわけだ。一者のテーマは新プラトン主義的でもあるという意味で、これはなかなか示唆的でもある。論文著者によると、アラン・バディウは「ラカンは反プラトン主義をなんら標榜してはいない」と評しているそうだ。それは急進化し論理化したプラトン主義であり、ある意味きわめて古典的なのだという。著者は論文の冒頭のほうで、プラトンとプラトン主義は西欧文化全体を貫いており、それがラカンにも浸透しているのではないかという仮説を示しているが、こうしてみると、同書に収録の論文に依拠する限り、ブルデューにしろラカンにしろ、どこかそういうプラトンとの通底という側面が、案外否めないような気さえしてくる。