古代の言霊信仰をどう捉えるか

真の言霊はどこに?


 とある報道では、五輪の中止論が内輪から出てきたときに、首相は「言霊になるからやめろ」と言ったのだとか。これを聞いて思ったのは、俗っぽい言霊信仰は、日常生活ならまだしも、国の為政者が政策的な判断において引き合いに出すべきものではないだろうに、という感想です。

 伊沢元彦の著書などで出てきますが、日本では失敗の可能性を考慮してプランBを用意しておくというのができない根本理由に、言霊信仰があるのでは、という話があります。言霊信仰(少なくともその世俗バージョン)では、失敗を言葉にしてしまうと本当に失敗してしまうとされることから、失敗は禁忌されるというわけなのですね。でもこれ、なんとも呪術的(魔術的)というか、肝っ玉の小さいセコい心性を感じさせます。国策にそんなものを持ち込むのは、あまりに前近代的でしょう。

 これを乗り越えるために必要なのは、まずは合理性や科学にもとづく判断ができるようにする教育だという気がします。それと、異論をも取り込んだオープンマインドの議論の実践でしょうかね。それって民主主義の基本にほかなりません。

 ……なんてことをつらつら思っていたら、伊藤益「言霊論——解釈の転回——」(『日本思想史学』19号(1987))(PDF→ http://ajih.jp/backnumber/pdf/19_02_02.pdf)という論文が検索上位に飛び込んできました。同じ読み方をする「言」と「事」の関係を「魔術的な等式を以て把握する思惟形態の存在を確認することが、そのまま直ちに言霊思想の存在を認知することにつながる」という通説に、異を唱えるという論考です。

 これによると、そのそも万葉集には、事が言を表す事例は多数あっても、逆に言が事を表すという事例はわずか(7例)しかないのだといいます。そこから、万葉集の時代にあってすら、言が事に転じること(言の事化)は、すでにごく限定的な出来事と見なされてるようになっていたのではないか、著者は推論しているわけです。文字より以前の言葉が、霊的な力をもっているとする思想そのものは、万葉集よりも昔の時代に、一種のアニミズムとしてすでに存在していたことが、ここでの前提となっています。

 面白いのは、そんな時代状況だからこそ、逆に言と事とを結びつけようとする魔術的等式が希求されたのだろうという指摘です。その等式を結ぶ・担うのが、言霊にほかならない、と。言霊は万葉集をもって初出とされているようですが、つまりそれは、言と事の結びつきが弱まってきた当時の文化風土のなかにあって、言の事化を改めて促進するための装置・作用因として言挙げされたものだったのではないか、というわけなのですね。著者はこの考えを、柿本人麻呂や山上憶良のもとに読み取っていきます。

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 仮に言霊が言と事を結びつける装置・作用因・媒質であるのだとするなら、それが俗っぽく広がってしまうような時代は、逆に言語と行為の分離が甚だしい時代、言ったことがもはや行動に移されず、実現もされえないような時代ということになるのかもしれません。五輪をめぐる様々なほころびと、言霊への恐れでがんじがらめになっているような政体は、まさにそのことを証しているのかもしれません。