ヒューム懐疑論の位置づけ

理性主義と自然主義


 積ん読の山から、偶然出てきた岩波『思想』2011年12月号(ヒュームの特集号)を、つらつらと読んでみました。

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 座談会に続く最初の論考、坂本達哉「ヒューム社会科学における「懐疑」と「自然」」がまずもって面白いですね。ヒュームといえば懐疑主義の代名詞、みたいなところがありますが、一方で自然主義の側面も強くあって、両者の兼ね合いをどう解釈するかというのが、ときに問題にもなってきたようです。

 懐疑主義は裏を返せば理性主義ということですし、自然主義というのは揺るぎない日々の慣習や実践への信頼ということを意味します。で、この論考では、自然主義こそが、理性主義の行き過ぎへの防波堤になっていると説いています。「人は哲学する前に生きなければならない」というわけです。

 自然が許す範囲内で理性を追求すべきだ、というわけなのですが、この論考ではさらに、ヒュームの正義論(社会秩序論)についても、同じ考え方が貫かれていると論じます。ヒュームにとっては、私的所有権と契約にもとづく社会秩序は、外的自然・人間的な自然という条件に適合する唯一の社会秩序だというのですね。自然主義が大きな外枠として、ゆるぎない信頼のもとに設定されていることがわかります。

 巻末近くのページに掲載されている、中才敏郎「蓋然性と合理性」という論考は、ヒュームの奇跡論についてまとめていますが、そこでもまた、慣習的なものへの信頼(確証、さらには蓋然性)こそが外枠としてあることがわかります。ヒュームの場合、宗教的な奇跡に類する事象などは、因果関係の推論によってその事象が外枠の確証と矛盾する場合にのみ、どちらの側に与するか判断することになる、としていて、あくまで外枠の頑強さが基本的スタンスであることが窺えます。