物理世界と文化世界 – 2

再びマーク・チャンギージー


 『<脳と文明>の暗号』がなかなか面白かったので、その前の著書だという『ヒトの目、驚異の進化』(柴田裕之訳、ハヤカワ文庫NF、2020)もざっと読んでみました。こちらも、いろいろ卑近な例を次々に繰り出してくるのが特徴的のようで、なにやらとても楽しいですね。

 今回は、視覚に焦点を当て、それが能力として超越的な進化を遂げたものだということを4つのトピックで考察していきます。まずは色の見分け。最も身近な肌の色をいわばゼロ記号として、その微細な変化を認識するように、色覚は進化を遂げたのではないか、という話。続いて、前方に2つの目をもつ意味の考察。前方に障害物があって向こう側がよく見えない場合でも、2つの目で像を作ることで、いわばその障害物の先を見通す構造になっているetc。

 3つめは錯視について。錯視が示しているのは、運動の延長上(いわば未来ですね)に、現在(正確には未来)の像を先取りする能力なのだと喝破します。うーん、凄い。そして4つめ。これが個人的には最も興味深いトピックですが、なんと文字の話。われわれが文字として認識している線描は、実はどの言語かにかかわらず、3字画ほどで構成されているのだとか。しかもその字画パターンは、人間が自然界で良く目にする交差のパターンそのものではないか、と。思わず唸ってしまいました。文句なしに面白い仮説です!

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物理世界と文化世界

音韻についての、物理現象からの説明


 まだ読みかけですが、すでにちょっと面白いので言及しておきたいと思います。マーク/シャンギージー『<脳と文明>の暗号』(中山宥訳、ハヤカワ文庫、2020)。認知科学の立場から、言語と音楽の起源に迫ろうという、壮大な考察です。でも語り口は平板で、身近なところから入っていくのが好印象ですね。

 で、特筆すべきは3分の1ほどを占める最初の章です。音声学・音韻論の基本について、物理的な音、というか人間が認識する音響のパターンをもとに、説明づけている点が、実に見事ですね。人間が認識する音は、基本的に「ぶつかる」「こすれる」「鳴る」の三つの動きからなり、同時にそれは音声言語の音も同様だというを論じ、物理音の認識がベースになって言語音は組み立てられている、という、言われてみれば至極もっともかもしれないことを、ページを割いて懇切丁寧に説明してくれているのでした。いいですねえ、こういうの。

 残りの3分の2は、いよいよ音楽についての考察になるようです。物理世界と文化世界を、認知科学でもって橋渡ししていこうという姿勢に、なにやらとても共感します。

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ベイトソン

生命現象とコミュニケーション理論と


 今年の初めごろに岩波文庫に入った、グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明訳、2022)を、kindle版で読んでみました。ダブルバインド理論で知られるベイトソンですが、この本は一般向きに軽妙な筆致で書かれていて、とても読みやすいものです。

 もちろん、認識論、進化、発生などの生命現象を、コミュニケーション理論などにもとづいたいくつかの概念でもって、串刺し的・横断的に絡め取ろうというものなので、それなりに難解ではあります(著者が用いる概念や用語の説明が衒学趣味的なので、少々面食らう部分がありますね)。とはいうものの、示された議論はとてもスリリングで、知的興奮をいざないます。

 生物学や社会人類学を経てきた著者の、時代に先駆けた学際性が光ります。

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ゾラの短編集が凄い件

稀代のストーリーテラー!


 これまたKindle unlimitedですが、ゾラの短編集を読んでみました。え、ゾラに短編が?そうなんです。長編ばかりが有名なゾラですが、実は中短編も結構あるらしいのですね。そのうちの5編を邦訳した『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』(国分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2015)は、副題にゾラ傑作短編集とあるように、どれも実に面白いんです!手頃な文庫での短編集はほぼこれのみとのこと。

 何が面白いかといえば、要はストーリーテラーとしての見事さです。複雑で屈折した登場人物、何かが起こりそうなサスペンス、そして考え抜かれたカタルシス。どの作品をとってもそういう部分が見事に組み合わされて、ぐいぐい引っ張っていきます。これは見事。

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 個人的な注目作は、表題作の1つ『呪われた家』。買い手のつかない荒れた屋敷で何があったのかが、三通りの話で語られます。もちろん、最後の話でもってそれ以前の話をひっくり返すというカタルシスが、ゾラ的には順当な読みではあるのでしょうけれど、これら三通りの話は、並列的に、どれが真実なのかわからないという感じでも読めてしまいます。するとここに、ゾラ的なストーリーテリングの妙味の謎が隠されているのでは、なんて気もしてきますね(妄想ですが(苦笑))。訳者の解説によると、この作品だけ、ドレフュス事件後の亡命先ロンドンで書かれたものとのことです。

 うん、ゾラの短編、ほかも探してみようかと思います。

ピランデッロ

メタ志向の萌芽


 これまたKindle Unlimitedの対象作品から、ルイージ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ』(関口英子訳、光文社古典新訳文庫、2012)を読んでみました。ピランデッロはシチリア出身の20世紀初頭の劇作家で、戯曲『登場人物を探す六人の登場人物』が知られていますが、短編もなかなかの名手だったのですね。

 その戯曲も未読ですし、残念ながら上演を観たこともありませんが、この文庫に収録されているなかにも、登場人物が作家に文句を言う一編があります(「登場人物の悲劇」)。「紙の世界」などもそうですが、総じてピランデッロの作品には、作品世界を独立した一つの別世界と割り切っている感じが濃厚にします。その意味では、登場人物が作者に話しかけてくるという一種のメタ小説、メタ戯曲のようなものも、技巧に走っているというよりは、ごく自然に作品世界の中に芽生えた、雑然としたメタ志向のような印象を受け、なかなか味わい深いものが感じられます。

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