ピロポノスの方へ

メルマガのほうでインペトゥス理論(物体に力が伝わるという中世の運動理論)を復習しているのだけれど、その関係でヨアンネス・ピロポノスの『自然学注解』(Galicaで落とせる)をごく一部分ながら読んでみた。これがなかなか面白そう。ちゃんと最初から読もうかなあ(大変そうだけど)。くだんのインペトゥス理論がらみの話は真空についての論難部分に関連した文脈で出てくるのだけれど、とにかくアリストテレス批判っぽい話が微妙ににじんでいる感じ。ちょっと古い平凡社の『哲学事典』(1971-95)などを引くと、アリストテレスへの批判について「どの程度彼の独創で、どの程度当時までの反アリストテレス思想の伝統に由来しているかは、まだ明確ではない」なんて記してある(p.1171)。うーん、このあたりのことって、その後どのくらい研究が進んでいるのかしら、と関心が沸く。

さらにインペトゥス理論の先駆としての位置づけについても、「この概念が10世紀アラビアの注釈者たちを通じて、ビュリダン、サクソニアのアルベルトゥスら14世紀インペトゥス理論提唱者に伝承された、という説は、そのルートについて完全な確証を得ていない」(同)とある。『自然学注解』は確かシリア語、アラビア語訳はあったはずだが、ということはそこからのラテン語訳がないということなのかしら?でも、おそらく『世界の永遠性について』の話だと思うのだけれど、ボナヴェントゥラとかが影響を受けたという話もあったはず。うーん、ピロポノスの受容とか、基本的なところからちょっと確認せねば(笑)。

ヴィヴァルディの「ヴェスペロ……」

おー、これは納得の一枚(笑)。『ヴィヴァルディ:聖母マリアの夕べの祈り』。珍しいヴィヴァルディの宗教曲集。ヴィヴァルディだけに器楽曲重視のミサ曲。これはなかなかご機嫌だ。軽やかさと賛美が入り交じったハイパフォーマンスという感じ。演奏はムジカ・フィアータ、ラ・カペラ・ドゥカーレ。指揮はローランド・ウィルソン。別に新しもの好きというわけでもないのだけれど、2003年と2005年にドレスデン・ザクセン州立図書館で見つかり、ヴィヴァルディのものと特定されたというRV 807 Dixit DominusとRV 803 Nisi Dominusが収録されている(世界初録音というわけではないそうな)のも興味深い。二曲ともなかなかに豪華絢爛。一枚でいろいろな要素が楽しめるお得盤かも(笑)。

Vivaldi: Marienvesper -Domine ad Adjuvandum me Festina RV.593, etc / Roland Wilson, Musica Fiata, La Capella Ducale

イスラム系の天使論……

スアレス=ナニの『天使の認識と言語』も少しづつ読んでいるけれど、これまた積ん読になっていたアンリ・コルバン『人間のその天使–霊的イニシエーションと騎士道』(Henry Corbin, “L’Homme et son Ange – Initiation et chevalerie spirituelle”, Fayard, 1983)も引っ張り出して読み始める。うん、コルバンも久しぶり。前に大著『アヴィセンナと幻想譚』を読んで以来か。本書は基本的にコルバンの講演3つ(それぞれ1949、70、71年のもの)を収録したもの。とりあえず最初の1949年の講演は、イスラム教シーア派のイスマエル派に伝わるイニシエーション物語(14世紀以降)を取り上げ、そこに記された西欧のものとは大きく異なる天使像をヘルメス主義の伝統と合わせて論じるというもの。うーん、ここに描かれる天使は、宇宙開闢論なども絡んでスケールが大きい。なにせそれは一種の原・人間であり(アダムよりも先に生まれたとか)、人間がイニシエーションを通じてやがて到達すべき目標としての「完全体」でもあるということらしいので。コルバンはいつもながら西欧の神秘主義にも目配せしつつ論を進めるのだけれど、それにしても西欧の天使は、視覚的な表象は膨大な数に上るものの、シンボリズム(というか意味論というか)の豊かさ・広大さという意味でははるかに見劣りするのでは?逆にイスラム教神秘主義でのこの厚みは、視覚的な表象が乏しいことの裏返しなのかしら(その分、こうしたイニシエーション物語のようなものが隆盛する?)、なんてことも思いつつ、しばらく読み進めることにしよう。

ホラー映画とプロセス理解

映画『1408号室』をレンタルDVDで視聴した。スティーブン・キング原作の結構正統派なホラー。キング原作ものは前の『ミスト』が良かったけれど、こちらもちょっと面白い。こちらは心霊スポット・ライターが「問題とされる部屋」で数々の怪奇現象に遭遇するというお話。で主人公のライターは必死にその現象の現出プロセスについての理解を試みるのだけれど、現象は加速度的に、そうした試みをはるかに圧倒する形で連鎖していく……。で、主人公が試みるそのプロセス理解こそがこの映画の一番の肝という気がする。たとえば想念が実体化するらしいくだりがあるのだけれど(想念の実体化といえば、タルコフスキーの映画版『惑星ソラリス』とかも、なんだか不気味な一種の「ミニ・ホラー」のようにも見えたものだが)、想念が実体化して「怖い」のは、そもそもあり得ない状況(キリスト教的には、それはまさに神にのみ許された所業ということで、複合的な意味合いがあるけれど)に晒されるからというより、その実体化プロセスがまったく理解も想像もできない、偽理論をでっち上げようとも納得できないから……ということを映画はまざまざと見せつけてくれる。逆に言えば、日常の世界を織りなす事物は必ずなんらかの既得のプロセス理解に裏打ちされていて、「現れ」の根底には、たとえ仮ものであろうとも、その現れをもたらす「生成」プロセスの受け入れ・理解が前提としてあり、その前提がないとき・崩れたときに事物はとてつもなく不気味なものと化す、ということ。まあ、当たり前といえば当たり前のことなんだけれども、このプロセス理解というやつは、それ自体を考え出すとなかなか一筋縄ではいかないものでもある(と思う)。

かつてのジョージ・A・ロメロのゾンビ映画とかは、その出現の唐突さが、たとえ「怖い」というのとは違っても、なにか最低限の不気味さを醸し出していた(びっくりシーンとは別に)。それは、一つにはそういうプロセス理解の不在・否定性を突きつけていたからだと思うのだけれど、翻って最近のゾンビものを見ると、ウィルスとかで異物の出現プロセスをすっかり固めてしまい(たとえば『28週後』『ドーン・オブ・ザ・デッド』(リメイク)、『デイ・オブ・ザ・デッド』(同じくリメイク)、はては『ボディ・スナッチャー』の再リメイク『インヴェイジョン』にいたるまで)、異物の出現はもはや「お決まり」でしかなくて全体につまらんという気がしなくもない。ところが一方で現実にウィルスが問題になれば、それ自体はいまだ十全なプロセス理解を得ておらず(専門家はともかく一般としては)、かくして漠然とした不安感が意味もなく広まってしまったりする。フィクションの中で扱われるプロセス理解は、すでにして現実のプロセス理解よりもはるかに単純で固着的だ。後者はというと、対象となる事物にもよるけれど、場合によりどこか思いっきり開かれていたりする……。

『1408号室』の主人公は、そういうプロセス理解を試みる中で、なんらかのハイテクな方法の可能性すら検討する。実際主人公に突きつけられる現象は、どこかサイコな拷問のようにも見え、主人公を追うわれわれ観客にも、途中で「これって神経系に直接働きかけて個人の妄想を生み出させているとか、そういう話?」みたいな、作品世界へのプロセス理解が促されてきたりもする。でも、観客レベルでのサスペンスフルなそういう仕掛けは、結果的に作品が醸すはずの怖さを大いに薄めているかもしれず、作品的に良いのか悪いのかちょっと微妙だったりもする(笑)。でも、いずれにしてもこの作品は、プロセス理解というものを考える取っかかりとして悪くない映画ではある(かな?)。

ドゥンス・スコトゥスの場合……

最近はアベラールなども、英米系の論者によってどこかそうなっているという話だけれど、原テキストと現代的な論者らによる読み込みとの間になにか乖離というか違和感というかが大きく感じられる中世の思想家の代表といえば、個人的にはやはり13世紀のドゥンス・スコトゥスだ。たとえば往年のジルソンのスコトゥス論などもそう。で、またもファルク本のメモになるけれども、ここでもスコトゥスは哲学史上の転換点を体現する者として描かれている。なにしろスコトゥスにおいては、知性の第一の対象は存在そのものとされ、結果として存在の一義性(あらゆるものの存在の共有)の議論が導かれて被造物から神へとアクセスする途が開かれ、と同時にその一義性の上に個物を個別化する原理、「このもの性」が置かれて、被造物のもつ有限性が哲学史上初めて肯定的に捉えられるのだから。世界を織りなす構造としての偶有性も初めて肯定され、その裏返しだけれど人間のもつ自由も高らかに肯定される。そもそもキリストによる救済というのも、原罪の回復・充足ではなく、栄化という肯定的な動きとして解釈される。普遍を個物より重んじるという古代ギリシア以来の伝統も一挙に転覆される……。ニヒリズムへの対抗原理みたいなものすらほの見えているかのような印象……。

うーん、しかしスコトゥスのテキストをちょこちょこと読み囓る位では、なかなかそういうヴィヴィッドかつ肯定的・称揚的なスコトゥス像には行き着かないのだが……。じっくり腰を据えて取り組めば、そういう解釈へと至るものなのかしら。精妙博士の異名をもつだけに、スコトゥスのテキストは煩雑。細かい議論が延々と続く、みたいな。このギャップをどう埋めればよいのか、あるいは視点を変えて、こうした現代的な議論でのスコトゥス像がどういう過程を経て現れてきたのかとか、なかなかに悩ましい問題ではないかしら(と個人的には思う……)。ファルク本ではハンナ・アーレントのスコトゥス解釈が時折引き合いに出されている。アーレントの『精神の生活』の第二部に出てくるのだという。あるいはそのあたりに、そうしたスコトゥス像成立を振り返る鍵がある?そのうちちょっと覗いてみなければね。