ドゥンス・スコトゥスの場合……

最近はアベラールなども、英米系の論者によってどこかそうなっているという話だけれど、原テキストと現代的な論者らによる読み込みとの間になにか乖離というか違和感というかが大きく感じられる中世の思想家の代表といえば、個人的にはやはり13世紀のドゥンス・スコトゥスだ。たとえば往年のジルソンのスコトゥス論などもそう。で、またもファルク本のメモになるけれども、ここでもスコトゥスは哲学史上の転換点を体現する者として描かれている。なにしろスコトゥスにおいては、知性の第一の対象は存在そのものとされ、結果として存在の一義性(あらゆるものの存在の共有)の議論が導かれて被造物から神へとアクセスする途が開かれ、と同時にその一義性の上に個物を個別化する原理、「このもの性」が置かれて、被造物のもつ有限性が哲学史上初めて肯定的に捉えられるのだから。世界を織りなす構造としての偶有性も初めて肯定され、その裏返しだけれど人間のもつ自由も高らかに肯定される。そもそもキリストによる救済というのも、原罪の回復・充足ではなく、栄化という肯定的な動きとして解釈される。普遍を個物より重んじるという古代ギリシア以来の伝統も一挙に転覆される……。ニヒリズムへの対抗原理みたいなものすらほの見えているかのような印象……。

うーん、しかしスコトゥスのテキストをちょこちょこと読み囓る位では、なかなかそういうヴィヴィッドかつ肯定的・称揚的なスコトゥス像には行き着かないのだが……。じっくり腰を据えて取り組めば、そういう解釈へと至るものなのかしら。精妙博士の異名をもつだけに、スコトゥスのテキストは煩雑。細かい議論が延々と続く、みたいな。このギャップをどう埋めればよいのか、あるいは視点を変えて、こうした現代的な議論でのスコトゥス像がどういう過程を経て現れてきたのかとか、なかなかに悩ましい問題ではないかしら(と個人的には思う……)。ファルク本ではハンナ・アーレントのスコトゥス解釈が時折引き合いに出されている。アーレントの『精神の生活』の第二部に出てくるのだという。あるいはそのあたりに、そうしたスコトゥス像成立を振り返る鍵がある?そのうちちょっと覗いてみなければね。

「ドゥンス・スコトゥスの場合……」への2件のフィードバック

  1. > なかなかそういうヴィヴィッドかつ肯定的・称揚的なスコトゥス像には行き着かない

    ジルソンのようにアヴィセンナの『形而上学』の受容の延長上にスコトゥスを置くとか,そういう何らかの文脈を半ば強引に適用して読まないと,明解な像は結ばないのかもしれません.では,どういう文脈を用意するか?というところが,論者の腕の見せ所でしょうか.

  2. コメントをありがとうございます。

    うーん、「どういう文脈を用意するか」というのは悩ましいところですねえ……。アウグスティヌス→アヴィセンナのラインで読む、というのに代わる何かがありそうかどうか、ちょっと探ってみたいと思います。

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