自己指示の問題

またまた面白い論文。イレーヌ・ロジエ=カタシュ「中世における質料的代示と自己指示の問題」(Irène Rosier-Catach, La Suppositio materialis et la Question de l’Autonymie au Moyen Âge, Paper for the congress “Le fait autonymique dans les langues et les discours”, 5–7 October 2000, Paris, Université de la Sorbonne nouvelle)(PDFはこちらというもの。ある意味語学研究の類に括ってもよい論考なのだけれど、中世(とりわけ12世紀から13世紀)にあっては、それはまた当然のように哲学・神学に直接関係する問題系をも織りなしている。で、ここで取り上げられているのは質料的代示。これは要するに、単語が外的な事物ではなく、その語彙そのものを表すような場合を言う(たとえば「人間は名詞である」という場合の「人間」は、特定もしくは一般の人間を表すのではなく、「人間」という当の言葉を表している)。質料的代示の成立には、当然ながら当時の文法学の記述における自己指示の問題が絡んでくる。トマスなどにも見られる、語そのものを指す指示詞としてlyもしくはli(もとはフランス語)がラテン語に導入されるのも同時期なら、自己指示への論究が増えてくるのもその時期。というわけで著者は、様々な論者が自己指示や質料的代示をどう扱っていたのかを俯瞰していく。

アウグスティヌスは言葉そのもの、表現可能なもの、表現されたもの、外界の事物を区別する意味論を立てている。ボエティウスはアリストテレス『範疇論』の注解で、語が感覚的・知的事象と結びつく場合と、メタ言語的に語の形式を意味する場合(ポルピュリオスがもとになっている)とを区別する。アヴィセンナになると、語の意味を志向性(intentio)で分け、事物の意味や理解に向かう第一の志向性と、理解ずみの事物や概念などに向かう第二の志向性を区別する。アベラール(初期?)は意味の転位(translatio)という概念を用いて、意味が二重化する場合を考察する。アベラールは、11世紀ごろからプリンキアヌスの注解を手がけた文法学者たちの影響を受けていたといい、このあたりから「質料的命名(materialiter impositum)」という表現が用いられるようになるという。やがてこれが唯名論者たち(とりわけ名辞説)によって質料的代示という表現に置き換わる。シャーウッドのウィリアムやオッカムにそれは顕著だ……。

さらに興味深い点としては、ロジャー・ベーコンの『記号について(De signis)』に、ある意味モダンな意味論・意味解釈論が見出されるという話。任意の記号はそれ自体を表すことができ、しかもその記号を第一義(外的事物を表す)で用いるか、それとも特殊な意味で用いるかを決めるのは話者にほかならない、と論じているらしい。さらに、神学において「これは私の肉体である」という聖体拝領での聖職者の言をどう解釈するかが議論になったという話も興味深い。「これ」と「私の」が何を指しているのかをどう解釈するかという問題だ。「私の」をキリストのと解すると、この一句は朗誦的発話となり、一方で「これ」を目前のパンと解すると、この一句は意味的発話ということになり、これら二つが衝突してしまう。この矛盾を回避すべく、トマス・アクィナスはこの一句を遂行的発話として解釈しているのだそうだ。うーむ、このあたり、著者を信じるなら、なにやらモダンな議論を先取りしている感じで熱くなってくる(笑)。